結婚したいから!
…あれ?
目が覚めて、自分が外に着て行った服のままだということに気がつく。そして、やけに部屋が明るいことにも気がつく。
妙に頭がすっきりしていることに、嫌な予感を覚えて、携帯の画面を起こす。
やっぱり。
夕方眠ったはずなのに、一度も目が覚めることなく、翌日のお昼を迎えようとしていることを、ディスプレイは示していた。
そう言えば、昨日のデートの帰り、結城さんに眠くないのかと訊かれたっけ。たしかに、あのときは眠気を感じなかったはずだけど。
あれは、まだ緊張していたからなのだろうか。それとも、楽しかったから?…そんなはずはないか。
「月曜日だ!」
ディスプレイに並ぶMondayの単語に、慌てて飛び起きた。
翌日じゃなくて、翌々日!?
月曜日は、会社で業務報告をする日になっている。
よかった、目が覚めて。まさかアラームの設定がいるとは思わなかったけど、こんなにぎりぎりになるなんて、自分でも呆れた。
久しぶりに電車に乗る。久しぶりに仕事用の服を着る。
それでも、前に竹田建設で事務の仕事をしていた時とは全然違う。
車内を見まわすと、子どもを連れた主婦らしき人、お年寄り、学生風のカップルなんかが目に付いた。営業職らしいスーツ姿の男女もちらほら見えるけれど、それは少数だ。
わたしは、今、どちら寄りの人間に見えるのかな。
仕事をしてはいるけれど、主婦に近い生活を送るようになっている自分を、ガラスに映る姿で確認してみる。
前よりいっそう、ぼんやりしているように見えて、がくっと肩が落ちた。
いつになったら、自信に満ちた、いきいきした表情の女性になれるんだろう。
たとえば、そうだなぁ、紗彩みたいな。あるいは、理央さんみたいな。ふたりは、タイプはちがうのに、表情が似てる。
彼女たちに共通してるのは、きらきらしてるところだ。
ほら、わたしとは、やっぱりなんか違うんだな。やっぱり小走りしそうな早足で、理央さんが姿を現した。
会社に着いて、いつものように、相談用ブースに座って、わたしは彼女を待っていたのだ。
「ごめんね!海空ちゃん。お待たせして」
うーん、紗彩みたいに女っぽい匂いがぷんぷんするわけじゃないのに、素敵。小さな顔に沿うような短めの髪は、染めた様子もなく、彼女が動くたびに自然に揺れている。
「いえ。忙しいんですね」
わたしがそう言うと、理央さんはいたずらっ子みたいにきょろりとわたしを見据えながらにっと笑ってみせる。
「他人事じゃないよー。もう海空ちゃんもウチの社員だからね!ばりばり働かなくっちゃ。…って言っても、仕事の内容が全然違うか」
理央さんは、名刺には「主任」の肩書が書かれているけれど、社内では「コーディネーター」と呼ばれる仕事をしている。具体的には、マリッジ部に登録している顧客同士の出会いをセッティングする、というのが一番の仕事らしい。
「理央さんは、仕事が好きなんですね」
見ているだけでもわかっていたけれど、理央さんは、やっぱり、うんと頷いた。
「結婚って、人の一生でかなり大きな決断でしょ。それをお手伝いできるんだよ。ほんとなら、身近で何回見られるかわからないけど、きっと少ないよね。兄弟とか、友達とか…、そういう関係だったら、私でも10回もないな。
でも、この仕事をしてると、運が良ければ、お客様の幸せそうな顔が何度だって見られるよ。叱られることだって少なくないけど、やっぱり、感謝されることの方が多いんだぁ。
あ、それに何より、あたし、こうしていろんな人と話すのが大好きだし」
「そっかぁ。だから理央さんって、素敵なんだぁ…」
まさにきらきらした瞳で語りだした理央さんを見ていたら、ぽろりと口から言葉がこぼれてしまった。
あれ。意外なことに、理央さんがちょっと頬を染めている。
「あ、いや、あれ?熱く語っちゃったかな」
「わたしは、理央さんが羨ましいですよ」
いつもになく、おたおたと慌てた様子の理央さんが、なんだか微笑ましい。仕事に関係がない話ではないけれど、自分のことを話してくれたのは初めてだと思う。
これもやっぱり、同じ会社で働く同僚として、微妙に態度を変えてくれたのかな。
以前の会社では、同僚と呼べるような他の社員もいなかったので、なんだかくすぐったい。正確には、主任の理央さんは、わたしの上司になるのだろう。こんなふうに、楽しんで仕事をする人が上司でいてくれたら、わたしもちょっとずつきらきらを分けてもらえるかなぁ。
「で、報告だけど」
ふうと短く息を吐くと、もうきりっと表情を整えた理央さんだった。
「ハイ…」
何度も会って話したはずの理央さんが相手だけれど、微妙に緊張する。
恋愛話だから?いやいや、それこそ、ここで理央さんと話すのは、恋愛話しかなかったはず。
ときどき頭の中で、思い返しながら、金曜日のディナー、土曜日のランチのことを報告する。いろんなことが一度にあったような気がしたけれど、理央さんに話してみると、あまり時間はかからなかった。
そう言えば、あまり結城さんとは話が弾まなかった。
ゆっくり順番に料理が運ばれてくるし、ときどきワインも飲みながら、料理やお酒について感想を言い合ったりしていたから、会話が完全に途切れて気まずい思いをしたりはしなかったことは確かだ。
なのに、たいした話をした記憶がない。
わたしが緊張していたせい、だけじゃない気がしてきた。金曜日の夜に話したことを思い出してみる。
彼の会社のこと、どういう業務を行っているか、それから、彼自身が抱えている仕事、他には…、夕食をとっていたお店のこと、料理や飲み物に関する知識、それに、街のこと。
私にも、どんな仕事をしていたか、学生時代の専攻は何か、どのあたりに住んでいるのか、ということをときどき訊ねてきただけだ。
やっぱり、なんだか変だ。
普通は、どんなものやことが好きかとか、家族のことだとか、話すものだと思う。
ひどい口下手で、話せない人ならともかく、沈黙が気にならない程度には話ができるのだから。
強引にキスしてきた割には、見えない、透明な、堅ぁい壁があったみたい。
「ん?それだけ?」
報告があまりにも短かったのか、黙り込んだわたしが、続く話を頭の中でまとめていると思い込んでいた理央さんが、拍子抜けした様子で、呟いた。
「あ、はい。ごめんなさい」
なんとなく、謝ってしまう。
「仕事」として、結城さんを紹介された、ということは、わたしが彼との仲を発展させられたらいいんじゃないか、という期待を多少は持たれているのだ。
たくさんの人と接する機会のある彼と、わたしが結婚することがあれば、萩原コンサルティングサービスにとっては、いい宣伝になるのだろう。いや、もしかしたら、不動産業を営む結城さんの会社と直接、仕事上での提携もできるかもしれない。
「あ…、いや、さっさとまとまれ、ってわけじゃないの」
…ちょっとわたしの考えすぎだったらしい。
「海空ちゃん、暗い顔してるからね」
あ、そういうことか。
もう、この正直すぎる顔には困る。「紹介して1週間後の金曜日に晩ご飯食べて、土曜日にお昼ご飯食べて、って、お見合いのスタートとしてはなかなか順調じゃない?紹介した日にはそんな顔してなかったんだから、結城さんの印象も、それほど悪くなかったはずだけど」
なかなか鋭い。伊達にコーディネーターやってないなぁ、理央さんは。
「…金曜日の帰りに、強引にキスされたんです」
思い出すのが嫌だし、こういう話は理央さんにもしたことがなかったから、黙っておくつもりだった。
でも、たぶん、今までみたいに見て見ぬふりはしてくれないのだと、気がついた。だからこそ、わざわざ疑問点を指摘してきたのだと思う。
恋愛を仕事にする。
結婚したい症候群のわたしには、いい仕事に思えたんだけどな。
言いたくなかった、ちょっと心に引っかかる出来事も、こうして話さないといけないのだろうか。
ひっそりと心にしまって開かなければ、ゆっくり消えていくであろうことを、他の人の脳に刻まなければいけないのだろうか。
なんとなく、重たくなった気持ちが、理央さんの次の一言でぶっ飛んだ。
「あ、それだけ?」
「だ、だけ、…とは?」
わたしが目を丸くしていることに気がついて、急いで笑顔を作ったような理央さん。
「うーん、じゃあ、ちょっと訊いてもいい?キスされたのが嫌だった?」
わたしはもう理央さんの顔を見ていられなくて、俯きながら、首を横に振って見せた。
「もう結城さんのことは、二度と顔も見たくないくらい嫌い?」
そこまで、大嫌い、とも言い切れない。
他には、気分を悪くするような言動はなかったきがして。わたしはしばらく考えて、首を横に振った。
「じゃあ、キスされたくらいでそんなに落ち込まなくていいんじゃない」
結局キス「くらい」って!!
やっぱりたいしたことない、という結論に落ち着いてしまう理央さんを、信じられない思いで見上げた。
ナチュラルメイクなのか素顔なのかわからない、さっぱりした顔に、いつもパンツスーツを着ている理央さんは、中性的な印象だった。女くさくないっていうのか、男っ気がないっていうのか…。
その理央さんが何度も「キス」って単語を声に出すから、なんだかくらくらしてきた。
「えっと、その…、理央さんは、出会ってすぐの男の人とすぐにキスできますか?」
頭がのぼせあがっていたから、訊けたんだと思う。
「わ、私にはわからないけど」
かすかに動揺をみせたものの、理央さんは、ん、とちいさく咳払いをして、また背筋をぴんと伸ばした。
「この仕事をしてる上での、見聞きしたケースの話よ。結婚したいと思っている者同士が、知り合いました。お互いに、好印象でした」
そこで言葉を一瞬止めて、理央さんはわたしと目を合わせた。ここまでは、わたしと結城さんにも当てはまると言いたいのだろう。
「その足で、ホテルに向かいました」
は?
「…っていうことも、少なくないの。実際、私が紹介した人たちの中でも、何件かあるし」
えええええ!
叫びそうになって、ここが会社の中であることを思い出し、喉で声だけは消したけれど、わたしの口はぽかんと開いたまんまだった。
「もちろん、そのまま結婚した人たちもいるけど、すぐに別れた人たちもいるよ」
「その、つまり、出会ってすぐだから、とか、気にするわたしがおかしい、ってことですか?」
次の恋では『もっと時間をかけて、打ち解けてみることを心がけて』と、紗彩にアドバイスされたこととは、相反する。
「うーん、おかしい、って言うつもりじゃなくて…。そうだね、人によって、段階を進めるタイミングは違うってことを言いたかったの」
「あ、それはわかる気がします。結城さんのこと、別のスピードで物事を進めていく人だと思ったんです。わたしがカメだったら、彼はウサギ、みたいに」
わたしの稚拙な例えに、理央さんはくすりと笑った。
「そうね。たぶん」
でもなぁ。ふと、そのスピードが一致したからと言って、結婚できるとは限らないのだということも思い出す。
「あ…、でも、さっきの、すぐに別れた人たち、って、その、スピードは、ぴったり一緒だったのに、えっと、どうして別れちゃったんですか?」
「ああ、ホテルに直行したのに、ってこと?」
仕事柄か、あけすけに言う理央さんに、こっちが恥ずかしくなって、顔がぽかぽかあったかくなる。
ちょっと落ち着こうと、出されていた冷たい水を口に含んだ。
「体の相性がよくなかったんだって」
ぶっ!!
見事に水が気管に入り込んで、わたしはむせ返った。
水を飲んだら落ち着くつもりだったのに、むしろ盛大に動揺した!
ごほごほ咳を繰り返しているわたしを見かねて、理央さんが席を立って、背中を撫でてくれる。
「昔みたいに、結婚するまで、絶対そういうことはしないっていう人は珍しい時代だから、そんなことも条件に挙げられるらしいよ」
知りたくなかった!
きっと、ただのお客さんだったら、訊かずに済んだのであろう、この業界の裏話に、まだ半分はお客さんでもあるわたしは、複雑な思いで、会社を後にしたのだった。
目が覚めて、自分が外に着て行った服のままだということに気がつく。そして、やけに部屋が明るいことにも気がつく。
妙に頭がすっきりしていることに、嫌な予感を覚えて、携帯の画面を起こす。
やっぱり。
夕方眠ったはずなのに、一度も目が覚めることなく、翌日のお昼を迎えようとしていることを、ディスプレイは示していた。
そう言えば、昨日のデートの帰り、結城さんに眠くないのかと訊かれたっけ。たしかに、あのときは眠気を感じなかったはずだけど。
あれは、まだ緊張していたからなのだろうか。それとも、楽しかったから?…そんなはずはないか。
「月曜日だ!」
ディスプレイに並ぶMondayの単語に、慌てて飛び起きた。
翌日じゃなくて、翌々日!?
月曜日は、会社で業務報告をする日になっている。
よかった、目が覚めて。まさかアラームの設定がいるとは思わなかったけど、こんなにぎりぎりになるなんて、自分でも呆れた。
久しぶりに電車に乗る。久しぶりに仕事用の服を着る。
それでも、前に竹田建設で事務の仕事をしていた時とは全然違う。
車内を見まわすと、子どもを連れた主婦らしき人、お年寄り、学生風のカップルなんかが目に付いた。営業職らしいスーツ姿の男女もちらほら見えるけれど、それは少数だ。
わたしは、今、どちら寄りの人間に見えるのかな。
仕事をしてはいるけれど、主婦に近い生活を送るようになっている自分を、ガラスに映る姿で確認してみる。
前よりいっそう、ぼんやりしているように見えて、がくっと肩が落ちた。
いつになったら、自信に満ちた、いきいきした表情の女性になれるんだろう。
たとえば、そうだなぁ、紗彩みたいな。あるいは、理央さんみたいな。ふたりは、タイプはちがうのに、表情が似てる。
彼女たちに共通してるのは、きらきらしてるところだ。
ほら、わたしとは、やっぱりなんか違うんだな。やっぱり小走りしそうな早足で、理央さんが姿を現した。
会社に着いて、いつものように、相談用ブースに座って、わたしは彼女を待っていたのだ。
「ごめんね!海空ちゃん。お待たせして」
うーん、紗彩みたいに女っぽい匂いがぷんぷんするわけじゃないのに、素敵。小さな顔に沿うような短めの髪は、染めた様子もなく、彼女が動くたびに自然に揺れている。
「いえ。忙しいんですね」
わたしがそう言うと、理央さんはいたずらっ子みたいにきょろりとわたしを見据えながらにっと笑ってみせる。
「他人事じゃないよー。もう海空ちゃんもウチの社員だからね!ばりばり働かなくっちゃ。…って言っても、仕事の内容が全然違うか」
理央さんは、名刺には「主任」の肩書が書かれているけれど、社内では「コーディネーター」と呼ばれる仕事をしている。具体的には、マリッジ部に登録している顧客同士の出会いをセッティングする、というのが一番の仕事らしい。
「理央さんは、仕事が好きなんですね」
見ているだけでもわかっていたけれど、理央さんは、やっぱり、うんと頷いた。
「結婚って、人の一生でかなり大きな決断でしょ。それをお手伝いできるんだよ。ほんとなら、身近で何回見られるかわからないけど、きっと少ないよね。兄弟とか、友達とか…、そういう関係だったら、私でも10回もないな。
でも、この仕事をしてると、運が良ければ、お客様の幸せそうな顔が何度だって見られるよ。叱られることだって少なくないけど、やっぱり、感謝されることの方が多いんだぁ。
あ、それに何より、あたし、こうしていろんな人と話すのが大好きだし」
「そっかぁ。だから理央さんって、素敵なんだぁ…」
まさにきらきらした瞳で語りだした理央さんを見ていたら、ぽろりと口から言葉がこぼれてしまった。
あれ。意外なことに、理央さんがちょっと頬を染めている。
「あ、いや、あれ?熱く語っちゃったかな」
「わたしは、理央さんが羨ましいですよ」
いつもになく、おたおたと慌てた様子の理央さんが、なんだか微笑ましい。仕事に関係がない話ではないけれど、自分のことを話してくれたのは初めてだと思う。
これもやっぱり、同じ会社で働く同僚として、微妙に態度を変えてくれたのかな。
以前の会社では、同僚と呼べるような他の社員もいなかったので、なんだかくすぐったい。正確には、主任の理央さんは、わたしの上司になるのだろう。こんなふうに、楽しんで仕事をする人が上司でいてくれたら、わたしもちょっとずつきらきらを分けてもらえるかなぁ。
「で、報告だけど」
ふうと短く息を吐くと、もうきりっと表情を整えた理央さんだった。
「ハイ…」
何度も会って話したはずの理央さんが相手だけれど、微妙に緊張する。
恋愛話だから?いやいや、それこそ、ここで理央さんと話すのは、恋愛話しかなかったはず。
ときどき頭の中で、思い返しながら、金曜日のディナー、土曜日のランチのことを報告する。いろんなことが一度にあったような気がしたけれど、理央さんに話してみると、あまり時間はかからなかった。
そう言えば、あまり結城さんとは話が弾まなかった。
ゆっくり順番に料理が運ばれてくるし、ときどきワインも飲みながら、料理やお酒について感想を言い合ったりしていたから、会話が完全に途切れて気まずい思いをしたりはしなかったことは確かだ。
なのに、たいした話をした記憶がない。
わたしが緊張していたせい、だけじゃない気がしてきた。金曜日の夜に話したことを思い出してみる。
彼の会社のこと、どういう業務を行っているか、それから、彼自身が抱えている仕事、他には…、夕食をとっていたお店のこと、料理や飲み物に関する知識、それに、街のこと。
私にも、どんな仕事をしていたか、学生時代の専攻は何か、どのあたりに住んでいるのか、ということをときどき訊ねてきただけだ。
やっぱり、なんだか変だ。
普通は、どんなものやことが好きかとか、家族のことだとか、話すものだと思う。
ひどい口下手で、話せない人ならともかく、沈黙が気にならない程度には話ができるのだから。
強引にキスしてきた割には、見えない、透明な、堅ぁい壁があったみたい。
「ん?それだけ?」
報告があまりにも短かったのか、黙り込んだわたしが、続く話を頭の中でまとめていると思い込んでいた理央さんが、拍子抜けした様子で、呟いた。
「あ、はい。ごめんなさい」
なんとなく、謝ってしまう。
「仕事」として、結城さんを紹介された、ということは、わたしが彼との仲を発展させられたらいいんじゃないか、という期待を多少は持たれているのだ。
たくさんの人と接する機会のある彼と、わたしが結婚することがあれば、萩原コンサルティングサービスにとっては、いい宣伝になるのだろう。いや、もしかしたら、不動産業を営む結城さんの会社と直接、仕事上での提携もできるかもしれない。
「あ…、いや、さっさとまとまれ、ってわけじゃないの」
…ちょっとわたしの考えすぎだったらしい。
「海空ちゃん、暗い顔してるからね」
あ、そういうことか。
もう、この正直すぎる顔には困る。「紹介して1週間後の金曜日に晩ご飯食べて、土曜日にお昼ご飯食べて、って、お見合いのスタートとしてはなかなか順調じゃない?紹介した日にはそんな顔してなかったんだから、結城さんの印象も、それほど悪くなかったはずだけど」
なかなか鋭い。伊達にコーディネーターやってないなぁ、理央さんは。
「…金曜日の帰りに、強引にキスされたんです」
思い出すのが嫌だし、こういう話は理央さんにもしたことがなかったから、黙っておくつもりだった。
でも、たぶん、今までみたいに見て見ぬふりはしてくれないのだと、気がついた。だからこそ、わざわざ疑問点を指摘してきたのだと思う。
恋愛を仕事にする。
結婚したい症候群のわたしには、いい仕事に思えたんだけどな。
言いたくなかった、ちょっと心に引っかかる出来事も、こうして話さないといけないのだろうか。
ひっそりと心にしまって開かなければ、ゆっくり消えていくであろうことを、他の人の脳に刻まなければいけないのだろうか。
なんとなく、重たくなった気持ちが、理央さんの次の一言でぶっ飛んだ。
「あ、それだけ?」
「だ、だけ、…とは?」
わたしが目を丸くしていることに気がついて、急いで笑顔を作ったような理央さん。
「うーん、じゃあ、ちょっと訊いてもいい?キスされたのが嫌だった?」
わたしはもう理央さんの顔を見ていられなくて、俯きながら、首を横に振って見せた。
「もう結城さんのことは、二度と顔も見たくないくらい嫌い?」
そこまで、大嫌い、とも言い切れない。
他には、気分を悪くするような言動はなかったきがして。わたしはしばらく考えて、首を横に振った。
「じゃあ、キスされたくらいでそんなに落ち込まなくていいんじゃない」
結局キス「くらい」って!!
やっぱりたいしたことない、という結論に落ち着いてしまう理央さんを、信じられない思いで見上げた。
ナチュラルメイクなのか素顔なのかわからない、さっぱりした顔に、いつもパンツスーツを着ている理央さんは、中性的な印象だった。女くさくないっていうのか、男っ気がないっていうのか…。
その理央さんが何度も「キス」って単語を声に出すから、なんだかくらくらしてきた。
「えっと、その…、理央さんは、出会ってすぐの男の人とすぐにキスできますか?」
頭がのぼせあがっていたから、訊けたんだと思う。
「わ、私にはわからないけど」
かすかに動揺をみせたものの、理央さんは、ん、とちいさく咳払いをして、また背筋をぴんと伸ばした。
「この仕事をしてる上での、見聞きしたケースの話よ。結婚したいと思っている者同士が、知り合いました。お互いに、好印象でした」
そこで言葉を一瞬止めて、理央さんはわたしと目を合わせた。ここまでは、わたしと結城さんにも当てはまると言いたいのだろう。
「その足で、ホテルに向かいました」
は?
「…っていうことも、少なくないの。実際、私が紹介した人たちの中でも、何件かあるし」
えええええ!
叫びそうになって、ここが会社の中であることを思い出し、喉で声だけは消したけれど、わたしの口はぽかんと開いたまんまだった。
「もちろん、そのまま結婚した人たちもいるけど、すぐに別れた人たちもいるよ」
「その、つまり、出会ってすぐだから、とか、気にするわたしがおかしい、ってことですか?」
次の恋では『もっと時間をかけて、打ち解けてみることを心がけて』と、紗彩にアドバイスされたこととは、相反する。
「うーん、おかしい、って言うつもりじゃなくて…。そうだね、人によって、段階を進めるタイミングは違うってことを言いたかったの」
「あ、それはわかる気がします。結城さんのこと、別のスピードで物事を進めていく人だと思ったんです。わたしがカメだったら、彼はウサギ、みたいに」
わたしの稚拙な例えに、理央さんはくすりと笑った。
「そうね。たぶん」
でもなぁ。ふと、そのスピードが一致したからと言って、結婚できるとは限らないのだということも思い出す。
「あ…、でも、さっきの、すぐに別れた人たち、って、その、スピードは、ぴったり一緒だったのに、えっと、どうして別れちゃったんですか?」
「ああ、ホテルに直行したのに、ってこと?」
仕事柄か、あけすけに言う理央さんに、こっちが恥ずかしくなって、顔がぽかぽかあったかくなる。
ちょっと落ち着こうと、出されていた冷たい水を口に含んだ。
「体の相性がよくなかったんだって」
ぶっ!!
見事に水が気管に入り込んで、わたしはむせ返った。
水を飲んだら落ち着くつもりだったのに、むしろ盛大に動揺した!
ごほごほ咳を繰り返しているわたしを見かねて、理央さんが席を立って、背中を撫でてくれる。
「昔みたいに、結婚するまで、絶対そういうことはしないっていう人は珍しい時代だから、そんなことも条件に挙げられるらしいよ」
知りたくなかった!
きっと、ただのお客さんだったら、訊かずに済んだのであろう、この業界の裏話に、まだ半分はお客さんでもあるわたしは、複雑な思いで、会社を後にしたのだった。