結婚したいから!
わたしらしいってどういうこと
「まぐれって言葉、知ってるー?」
今日だけは、ふわふわ頭の嫌味も、わたしの耳をかすりもしない。
「じゃあ、たなぼたって言葉はー?」
さっさと仕事にかかればいいのに、お昼休みが終わってからも、隣のデスクに居座る男。でも、今日ばかりは、イライラしない。
「うふふふふふふふふ」
「あんたが結婚するわけじゃないでしょーが」
とうとうため息をついて、ライバル香山は行ってしまったけれど。わたしは、まだ笑いが止まらない。
ほんとに、自分のことみたいに、嬉しいんだな、って思う。そう、今日初めて、わたしが担当していたお客さんたちが、結婚すると言う報告を受けたのだ。
まぐれでも、たなぼたでもいい。あのお客さんの顔を見れば、誰だってとにかく嬉しくなるはずだ。
はにかんだような笑顔で、時折目を合わせては、結婚を決めたことを知らせてくれた、ふたりの姿。
迷いながら、続けていた仕事に、一筋の光が差し込んできたような気がする。
そんなわたしの様子に、理央さんが微笑んで、「部長さん」が安堵のため息を漏らしたことにも、わたしは気が付いている。
これから、もっともっとがんばるぞ!って、決意が新たになる。
でも、あれって、やっぱり「まぐれ」か「たなぼた」だったのかなぁ。
そうやって、また、自分のやり方を疑う羽目にになる出来事が、起きた。
「えっと…」
相談用ブースにおかれた机の上で、わたしの手が戸惑っている。どうして、この人に手を握られることになったのか、まだわからない。
「僕、九条さんとお見合いしたいんですけど」
先月から、会員として登録してくれたお客さんだ。
「え、わたし?」
いつもは、机を挟んで向い合せに座るのに、今日に限って、どうして隣に座りたがるんだろうなぁとは思っていた。
もしかして、手を握りたかったから?
「そう。丁寧に話を聞いてくれるでしょ。僕は、そういう人がいいな」
親身になるにしても、どこかで線引きが必要だったんだろうか。
「あ、わたしは、それが、仕事で」
その線引きを、できていなかったのだとしたら、今引くしかないって思った。
「もう好きになったから」
それなのに、そう返されて、抱き寄せられたら、頭の中が真っ白になってしまった。ひとつの部屋の中に、男の人とふたりきりになるのを、怖いと思った。
どうやって、話を切り上げたのか、あまり憶えてない。とにかく、お客さんを刺激しないように、これ以上どこも触れ合わないように、って考えていただけだ。
「一人、お客様を引き受けてほしいんだけど」
香山くんにこう告げている、自分の静かな声で、ようやく意識が戻ってきた。
「はあ?なんで」
何人ものお客さんをわたしに担当替えしてきたくせに、逆に私が頼むと、嫌そうな顔。一人くらい、何も言わずに受け入れてくれるんじゃないかって、考えたわたしが、バカだった。
「なんでも」
なんでかとか、言いたくないのに。
「どーせ、午後イチに来た男に、とうとう迫られたんでしょー?付き合ってくれとでも言われた?」
思い出したくもない感触が蘇ってきて、かすかに身震いすると、面白そうに、香山くんが目を細める。
「キスのひとつくらいしてやればよかったのに。で、次々に見合いの相手を紹介して、自分の駒にしておくと便利だよー」
絶句した。本当に。
まさかだけど。実際に、香山くんがそういうことをしてるんじゃないかって、疑いが、胸に湧き上がってくる。
「向こうから担当替えを要求された時しか、俺は手放さないけどなー、そういう駒」
疑いが、確信に変わる。香山くんから、わたしに担当を変えた女性たち。疲れた表情が、思い出される。それに、そのまま登録を抹消する人も多かった。
「ひどい!!」
気がついたら、手に持っていた資料を投げつけていた。
「ひどい?どっちが?」
なのに、まだ香山くんが笑っている。
「その気にさせておいて、迫られたからって突き放す方が、よっぽど残酷!こいつと付き合えるかもって希望を持たせておく方が、むしろ優しくない?
だいたい、次に、ここに来た時、九条さんじゃなくて、俺が相手したら、この人はどう思うわけ?」
そう、だ、そこまでは、考えてなかった。
あのお客さんは、自分から担当替えを申し出たわけじゃないのだから、突然担当者が変わったら、驚くだろう。今日のことを、後悔するかもしれないし、傷つくかもしれない。
そこだけは、自分の考えの浅さを反省せざるを得なかった。そこだけだけど!!
「九条さん、男に抵抗なさ過ぎだし。ちょっと練習したら?迫られた場合の」
そう言って、香山くんが、ぎゅっとわたしの手首をつかんだから、びっくりした。
「俺、練習台になってあげるけど」
とっさにその手を振り払ったら、簡単に解けてほっとした。
「い、いい!そんな必要ない!!今、今、いいこと思いついたから!!」
ふと、父のことを思い出したのだ。
それから、仕事帰りのその足で、自分用に指輪を買った。
きっと、父も同じような思いをしたに違いない。父の指輪。あれが必要だった理由を、わたしも身を持って知ることになったから。
あの仕事をして、お客さんの話を密室で親身に聞く、っていうスタイルで行くなら、既婚者のふりをしていた方がいいってこと。
今でこそ、管理職の父は、直接お客さんと話す機会はあまりないけれど、若い頃には、今の私と同じような仕事のやり方をしていたんじゃないかって思うと、なんだか嬉しい気持ちもしてくる。
意外に、似てるところが、あるのかな、なんて。だって、残念だけど、顔立ちはあんまり似ていない。平凡なわたしと違って、父の顔は、はっきりして整っている。
きっと、わたしどころじゃなく、接客中に困る機会も多かったんじゃないかな。
あ、これはお母さんには言わないでおこう。
「ねえ、虚しくない?」
紗彩が、わたしの指輪に気がついたらしい。偶然、今日は、親友と飲む約束をしていたのだ。すっかり常連になりつつある、居酒屋さんは、今日も混んでいる。
「それ、自分で買ったんでしょ」
「男の人にもらったって選択肢は存在しないの!?」
ちょっとくらい、彼氏ができたんじゃないかって、疑ってくれてもいいのに。
「ないね。顔見たらすぐわかる。浮かれるどころか、むしろ落ち込んでるし」
そ、そうなのかぁ。このわかりやすい顔め。
ちょっとため息をついて、左手の薬指にはめた指輪をくるくる回してみた。少しサイズが大きいみたいだ。
かいつまんで、紗彩に、指輪を買うことになった理由を説明する。
「あたしなら、その場ではっきり断るけど」
さっぱりしてるなあ、紗彩は。「紗彩も、仕事中に、そういうこと言われたりするんだ」
自分が経験がなくて、そんなこと考えてもなかったけど、紗彩なら、何度でも男の人に言い寄られてそうだ。
「いちいち気にする必要ないんだって」
…かなりの数、らしい。
「そっか」
動揺した自分が恥ずかしい。滅多にない機会でびっくりしたから。
でも、落ち込んでいることには、もう一つ理由がある。お客さんの話をじっくり聞いて、親身になって相談業務をする、っていうやり方が、やっぱりよくないのかもしれないって、思ったりもして。
ようやく一組のカップルの誕生したって喜んだ直後、こういう葛藤に再び陥ることになるとは。人と人との間に立つ仕事って、難しいものだな。
「おえ。飲み過ぎた」
いつになく、無表情で、ようやくコーイチが現れた。年末年始は、あちこちで飲む機会が多いらしい。今日も、何件かの飲み会を梯子してから、この席に加わったのだろう。
「なんか、仕事用の顔のままだよ」
わたしが笑うと、コーイチが、「え?」って驚いている。
「ほんと、やけに冷たい無表情」
紗彩が呟くと、「そうか」って言って、ようやくいつもの気楽そうな笑みを浮かべる。
仕事の話は、3人で飲むときにはあまりしないけど、きっと、コーイチってかなり忙しいんだと思う。平日も土日も、いつでもスーツで来るし、わたしたちと会う前後にも誰かと会ってることが多いし。
いつもより、視線が低めのコーイチの目が、一点で止まる。
「ミク、男ができた?」
それは、わたしの左手の薬指だ。コーイチの登場で、さっきまでの話を、すっかり忘れていたわたしと紗彩だけど、ふたりで顔を見合わせ、爆笑してしまった。本当に、単純で、素直な人。
わけがわからない、って顔で呆然としているコーイチだけど、彼のおかげで、父のやり方にならって指輪をはめて仕事に行くのもいい方法なのかもしれない、と思えた。
今日だけは、ふわふわ頭の嫌味も、わたしの耳をかすりもしない。
「じゃあ、たなぼたって言葉はー?」
さっさと仕事にかかればいいのに、お昼休みが終わってからも、隣のデスクに居座る男。でも、今日ばかりは、イライラしない。
「うふふふふふふふふ」
「あんたが結婚するわけじゃないでしょーが」
とうとうため息をついて、ライバル香山は行ってしまったけれど。わたしは、まだ笑いが止まらない。
ほんとに、自分のことみたいに、嬉しいんだな、って思う。そう、今日初めて、わたしが担当していたお客さんたちが、結婚すると言う報告を受けたのだ。
まぐれでも、たなぼたでもいい。あのお客さんの顔を見れば、誰だってとにかく嬉しくなるはずだ。
はにかんだような笑顔で、時折目を合わせては、結婚を決めたことを知らせてくれた、ふたりの姿。
迷いながら、続けていた仕事に、一筋の光が差し込んできたような気がする。
そんなわたしの様子に、理央さんが微笑んで、「部長さん」が安堵のため息を漏らしたことにも、わたしは気が付いている。
これから、もっともっとがんばるぞ!って、決意が新たになる。
でも、あれって、やっぱり「まぐれ」か「たなぼた」だったのかなぁ。
そうやって、また、自分のやり方を疑う羽目にになる出来事が、起きた。
「えっと…」
相談用ブースにおかれた机の上で、わたしの手が戸惑っている。どうして、この人に手を握られることになったのか、まだわからない。
「僕、九条さんとお見合いしたいんですけど」
先月から、会員として登録してくれたお客さんだ。
「え、わたし?」
いつもは、机を挟んで向い合せに座るのに、今日に限って、どうして隣に座りたがるんだろうなぁとは思っていた。
もしかして、手を握りたかったから?
「そう。丁寧に話を聞いてくれるでしょ。僕は、そういう人がいいな」
親身になるにしても、どこかで線引きが必要だったんだろうか。
「あ、わたしは、それが、仕事で」
その線引きを、できていなかったのだとしたら、今引くしかないって思った。
「もう好きになったから」
それなのに、そう返されて、抱き寄せられたら、頭の中が真っ白になってしまった。ひとつの部屋の中に、男の人とふたりきりになるのを、怖いと思った。
どうやって、話を切り上げたのか、あまり憶えてない。とにかく、お客さんを刺激しないように、これ以上どこも触れ合わないように、って考えていただけだ。
「一人、お客様を引き受けてほしいんだけど」
香山くんにこう告げている、自分の静かな声で、ようやく意識が戻ってきた。
「はあ?なんで」
何人ものお客さんをわたしに担当替えしてきたくせに、逆に私が頼むと、嫌そうな顔。一人くらい、何も言わずに受け入れてくれるんじゃないかって、考えたわたしが、バカだった。
「なんでも」
なんでかとか、言いたくないのに。
「どーせ、午後イチに来た男に、とうとう迫られたんでしょー?付き合ってくれとでも言われた?」
思い出したくもない感触が蘇ってきて、かすかに身震いすると、面白そうに、香山くんが目を細める。
「キスのひとつくらいしてやればよかったのに。で、次々に見合いの相手を紹介して、自分の駒にしておくと便利だよー」
絶句した。本当に。
まさかだけど。実際に、香山くんがそういうことをしてるんじゃないかって、疑いが、胸に湧き上がってくる。
「向こうから担当替えを要求された時しか、俺は手放さないけどなー、そういう駒」
疑いが、確信に変わる。香山くんから、わたしに担当を変えた女性たち。疲れた表情が、思い出される。それに、そのまま登録を抹消する人も多かった。
「ひどい!!」
気がついたら、手に持っていた資料を投げつけていた。
「ひどい?どっちが?」
なのに、まだ香山くんが笑っている。
「その気にさせておいて、迫られたからって突き放す方が、よっぽど残酷!こいつと付き合えるかもって希望を持たせておく方が、むしろ優しくない?
だいたい、次に、ここに来た時、九条さんじゃなくて、俺が相手したら、この人はどう思うわけ?」
そう、だ、そこまでは、考えてなかった。
あのお客さんは、自分から担当替えを申し出たわけじゃないのだから、突然担当者が変わったら、驚くだろう。今日のことを、後悔するかもしれないし、傷つくかもしれない。
そこだけは、自分の考えの浅さを反省せざるを得なかった。そこだけだけど!!
「九条さん、男に抵抗なさ過ぎだし。ちょっと練習したら?迫られた場合の」
そう言って、香山くんが、ぎゅっとわたしの手首をつかんだから、びっくりした。
「俺、練習台になってあげるけど」
とっさにその手を振り払ったら、簡単に解けてほっとした。
「い、いい!そんな必要ない!!今、今、いいこと思いついたから!!」
ふと、父のことを思い出したのだ。
それから、仕事帰りのその足で、自分用に指輪を買った。
きっと、父も同じような思いをしたに違いない。父の指輪。あれが必要だった理由を、わたしも身を持って知ることになったから。
あの仕事をして、お客さんの話を密室で親身に聞く、っていうスタイルで行くなら、既婚者のふりをしていた方がいいってこと。
今でこそ、管理職の父は、直接お客さんと話す機会はあまりないけれど、若い頃には、今の私と同じような仕事のやり方をしていたんじゃないかって思うと、なんだか嬉しい気持ちもしてくる。
意外に、似てるところが、あるのかな、なんて。だって、残念だけど、顔立ちはあんまり似ていない。平凡なわたしと違って、父の顔は、はっきりして整っている。
きっと、わたしどころじゃなく、接客中に困る機会も多かったんじゃないかな。
あ、これはお母さんには言わないでおこう。
「ねえ、虚しくない?」
紗彩が、わたしの指輪に気がついたらしい。偶然、今日は、親友と飲む約束をしていたのだ。すっかり常連になりつつある、居酒屋さんは、今日も混んでいる。
「それ、自分で買ったんでしょ」
「男の人にもらったって選択肢は存在しないの!?」
ちょっとくらい、彼氏ができたんじゃないかって、疑ってくれてもいいのに。
「ないね。顔見たらすぐわかる。浮かれるどころか、むしろ落ち込んでるし」
そ、そうなのかぁ。このわかりやすい顔め。
ちょっとため息をついて、左手の薬指にはめた指輪をくるくる回してみた。少しサイズが大きいみたいだ。
かいつまんで、紗彩に、指輪を買うことになった理由を説明する。
「あたしなら、その場ではっきり断るけど」
さっぱりしてるなあ、紗彩は。「紗彩も、仕事中に、そういうこと言われたりするんだ」
自分が経験がなくて、そんなこと考えてもなかったけど、紗彩なら、何度でも男の人に言い寄られてそうだ。
「いちいち気にする必要ないんだって」
…かなりの数、らしい。
「そっか」
動揺した自分が恥ずかしい。滅多にない機会でびっくりしたから。
でも、落ち込んでいることには、もう一つ理由がある。お客さんの話をじっくり聞いて、親身になって相談業務をする、っていうやり方が、やっぱりよくないのかもしれないって、思ったりもして。
ようやく一組のカップルの誕生したって喜んだ直後、こういう葛藤に再び陥ることになるとは。人と人との間に立つ仕事って、難しいものだな。
「おえ。飲み過ぎた」
いつになく、無表情で、ようやくコーイチが現れた。年末年始は、あちこちで飲む機会が多いらしい。今日も、何件かの飲み会を梯子してから、この席に加わったのだろう。
「なんか、仕事用の顔のままだよ」
わたしが笑うと、コーイチが、「え?」って驚いている。
「ほんと、やけに冷たい無表情」
紗彩が呟くと、「そうか」って言って、ようやくいつもの気楽そうな笑みを浮かべる。
仕事の話は、3人で飲むときにはあまりしないけど、きっと、コーイチってかなり忙しいんだと思う。平日も土日も、いつでもスーツで来るし、わたしたちと会う前後にも誰かと会ってることが多いし。
いつもより、視線が低めのコーイチの目が、一点で止まる。
「ミク、男ができた?」
それは、わたしの左手の薬指だ。コーイチの登場で、さっきまでの話を、すっかり忘れていたわたしと紗彩だけど、ふたりで顔を見合わせ、爆笑してしまった。本当に、単純で、素直な人。
わけがわからない、って顔で呆然としているコーイチだけど、彼のおかげで、父のやり方にならって指輪をはめて仕事に行くのもいい方法なのかもしれない、と思えた。