結婚したいから!
お正月ボケしていた頭や体が、冷たい空気にさらされながら、いつのまにか、元通りの日常になじんでいる。すでに1月も下旬。そう。
毎度毎度、どうして上司ではなく、同期を警戒して飲まなければいけないんだろう。
ただでさえ、いまだに、慣れない職場でのお酒の席。今晩は新年会だ。貸し切られた座敷に上がってすぐに、ふわふわ頭が、どこにいるかすばやくチェックする自分が、嫌だ。
隣の人との話に熱中し過ぎないように気をつけて、始終、ふわふわ頭の位置を確認している自分が、嫌だ。
自信を持って仕事ができていたら、あの意地悪で嫌味な発言の数々も、逃げ回ったりしないで、跳ね返すことができるんだろうか。
そう。意識的に、香山くんから逃げ回っているのだ、わたしは。
でも、あちこち席を移動したせいで、安心と引き換えにアルコールをいつもより多く摂取する羽目になってしまった。
なんで、挨拶には乾杯がつきものなんだろう。社会人になってから6年目だけど、こういう飲み会に来るようになったのは、ここ数カ月のことだから、どうやってお酒を断ればいいのかわからない。
当然、トイレが近くなって、わたしはたびたび席を立った。
いつの間にか、自分の体調と、口に入るお酒の量との兼ね合いに、神経を向けるようになっていて、完全に、油断してた。
「みーつけた」
トイレから出てきて、薄暗い廊下を歩いているときに、後ろから聞こえて来た声に、本当に鳥肌が立った。
一瞬止まりそうになった足を叱責しつつ、振り向かず、宴会場に戻ろうと固く決意する。何も聞こえなかったことにする。
「ひゃあ!」
ふわっとゆるく、両腕がわたしの前で絡んでいる。ふわふわの軟らかい髪が、わたしの肩で揺れている。
「その様子じゃ、俺のアドバイスも実行してないんじゃないのー?」
「もう!ふざけないで」
自分が出せる、一番怖い声で言うのに。その腕を、思い切り振り払ったのに。香山くんは、からかうような笑みを消すことなく、わたしを見下ろしてくる。
「あの言い寄ってきた客、相変わらず来てるよね。九条さんは、キス以外の何で納得させたわけ?俺、興味あるなー」
どうしてそういう嫌な言い方ができるんだろう。
あのお客さんは、予定通りに次の相談に来てくれて、すぐに「この前は、変なこと言ってごめん」って言ってくれた。
わたしも、「好きな人がいるんです」って、それは嘘だけど、そう言ったら、「そう」って言って、ちらりと指輪を見たのだ。それっきり、お見合いだの好きだのって話は出てこない。
「わたしのお客さんのこと、変な目で見ないで」
「ふーん。ほんと、九条さんって、気持ちだけは博愛主義だね。男が苦手なくせに」
ずきっ。
胸のどこかに、棘がささったらしくて、動けなくなった。香山くんがへらへら笑いながら、指先でわたしの顎を持ち上げているのに。
「触るな」
低い声が廊下に響いて、わたしの体も、呪縛が解かれたらしい。はっと顔を上げた先には、「部長さん」の姿。
もう少しで、うっかり「お父さん」って言いそうになって、口をつぐんだ。
まだ、ちくちくと胸が痛くて、こちらに歩いてきた彼の背中に隠れた。
「香山。うちの部は、セクハラも社内恋愛も禁止だから」
「え。初めて聞きましたけどー。っていうか、同期のよしみでちょっとじゃれてただけっすよ」
「お前はじゃれたつもりでも、彼女は震えてるよ」
「マジっすかー。以後、気をつけまーす」
「次やったらクビだからな」
「ちょ、ちょっと厳しくないっすか?」
「やらなきゃいいだろ」
「……」
父の背中にくっついて、その片腕に庇われていると、不思議と安心する自分に気がついて、「血」ってすごい繋がりなんだってことを体感する。
この人に育ててもらったわけじゃないし、赤ちゃんのころから抱っこしてもらったことだって一度もないのに。
それにしても、「部長さん」、そういうどすの利いた声が、出せるんですね…。若い頃、荒れてたって言うのは、大げさでもなさそうだ、って思う。香山くんが、何も言い返さなくなった。
「俺、飲み直してきまーす」と、いつもの手で逃走する香山くんを見送って、その姿が見えなくなってから、ようやく肩の力が抜けた。
「大丈夫か?」
遠慮がちに、頭を撫でてくれる。急にお父さんなんて言われても、戸惑っただろうに、この人は、お父さんであろうと意識をしてくれているらしい。
「お父さんが、ずっといてくれたらよかったのに」
お酒のせいか、気が緩んだせいか、思わずこぼれた言葉を、もう一度飲み込めたらいいけれど、それはできない。
ちゃんとその言葉を、耳で捕らえたらしい父が、わずかに辛そうに顔をゆがめたことを、わたしは見逃さなかった。
「ごめん」
あ、とうとう謝らせてしまった。そういうつもりじゃなかったのに。
「ち、違うの。ええっと、お父さんがいてくれたら、わたしだって、もっと男の人にも慣れたんじゃないかって思って」
「なおさら、ごめん…」
「わあ!そ、そうじゃなくて、ああ、どうしよう…」
さっきとは打って変わった様子で、うなだれる父。きっと、香山くんとの会話も最後の方は、聞えていたんだろう。
「ええっと、本当に、助かりました。どうもありがとう」
そうだそうだ、お礼も言わなくちゃ。意地悪な香山くんの攻撃から、ちゃんと守ってくれたもの。
「あいつ、会社の人間じゃなかったら殴ってやるんだけどな」
「ええ!?」
気のせいではなく、父が拳をぎゅっと握っている。
「また、手出ししてきたら、教えるんだよ」
ようやく元通りの落ち着いた声で、そう言って心配そうにわたしの顔を覗き込んでくるけれど。
い、言えない!さっきよりもむしろ言いづらくなった!
たとえ、香山くんに意地悪されても、教えたらこの人が香山くんを殴っちゃうんじゃないかっていう心配が先に立つようになった。
お父さんって、こういうものなのかなぁ…。
毎度毎度、どうして上司ではなく、同期を警戒して飲まなければいけないんだろう。
ただでさえ、いまだに、慣れない職場でのお酒の席。今晩は新年会だ。貸し切られた座敷に上がってすぐに、ふわふわ頭が、どこにいるかすばやくチェックする自分が、嫌だ。
隣の人との話に熱中し過ぎないように気をつけて、始終、ふわふわ頭の位置を確認している自分が、嫌だ。
自信を持って仕事ができていたら、あの意地悪で嫌味な発言の数々も、逃げ回ったりしないで、跳ね返すことができるんだろうか。
そう。意識的に、香山くんから逃げ回っているのだ、わたしは。
でも、あちこち席を移動したせいで、安心と引き換えにアルコールをいつもより多く摂取する羽目になってしまった。
なんで、挨拶には乾杯がつきものなんだろう。社会人になってから6年目だけど、こういう飲み会に来るようになったのは、ここ数カ月のことだから、どうやってお酒を断ればいいのかわからない。
当然、トイレが近くなって、わたしはたびたび席を立った。
いつの間にか、自分の体調と、口に入るお酒の量との兼ね合いに、神経を向けるようになっていて、完全に、油断してた。
「みーつけた」
トイレから出てきて、薄暗い廊下を歩いているときに、後ろから聞こえて来た声に、本当に鳥肌が立った。
一瞬止まりそうになった足を叱責しつつ、振り向かず、宴会場に戻ろうと固く決意する。何も聞こえなかったことにする。
「ひゃあ!」
ふわっとゆるく、両腕がわたしの前で絡んでいる。ふわふわの軟らかい髪が、わたしの肩で揺れている。
「その様子じゃ、俺のアドバイスも実行してないんじゃないのー?」
「もう!ふざけないで」
自分が出せる、一番怖い声で言うのに。その腕を、思い切り振り払ったのに。香山くんは、からかうような笑みを消すことなく、わたしを見下ろしてくる。
「あの言い寄ってきた客、相変わらず来てるよね。九条さんは、キス以外の何で納得させたわけ?俺、興味あるなー」
どうしてそういう嫌な言い方ができるんだろう。
あのお客さんは、予定通りに次の相談に来てくれて、すぐに「この前は、変なこと言ってごめん」って言ってくれた。
わたしも、「好きな人がいるんです」って、それは嘘だけど、そう言ったら、「そう」って言って、ちらりと指輪を見たのだ。それっきり、お見合いだの好きだのって話は出てこない。
「わたしのお客さんのこと、変な目で見ないで」
「ふーん。ほんと、九条さんって、気持ちだけは博愛主義だね。男が苦手なくせに」
ずきっ。
胸のどこかに、棘がささったらしくて、動けなくなった。香山くんがへらへら笑いながら、指先でわたしの顎を持ち上げているのに。
「触るな」
低い声が廊下に響いて、わたしの体も、呪縛が解かれたらしい。はっと顔を上げた先には、「部長さん」の姿。
もう少しで、うっかり「お父さん」って言いそうになって、口をつぐんだ。
まだ、ちくちくと胸が痛くて、こちらに歩いてきた彼の背中に隠れた。
「香山。うちの部は、セクハラも社内恋愛も禁止だから」
「え。初めて聞きましたけどー。っていうか、同期のよしみでちょっとじゃれてただけっすよ」
「お前はじゃれたつもりでも、彼女は震えてるよ」
「マジっすかー。以後、気をつけまーす」
「次やったらクビだからな」
「ちょ、ちょっと厳しくないっすか?」
「やらなきゃいいだろ」
「……」
父の背中にくっついて、その片腕に庇われていると、不思議と安心する自分に気がついて、「血」ってすごい繋がりなんだってことを体感する。
この人に育ててもらったわけじゃないし、赤ちゃんのころから抱っこしてもらったことだって一度もないのに。
それにしても、「部長さん」、そういうどすの利いた声が、出せるんですね…。若い頃、荒れてたって言うのは、大げさでもなさそうだ、って思う。香山くんが、何も言い返さなくなった。
「俺、飲み直してきまーす」と、いつもの手で逃走する香山くんを見送って、その姿が見えなくなってから、ようやく肩の力が抜けた。
「大丈夫か?」
遠慮がちに、頭を撫でてくれる。急にお父さんなんて言われても、戸惑っただろうに、この人は、お父さんであろうと意識をしてくれているらしい。
「お父さんが、ずっといてくれたらよかったのに」
お酒のせいか、気が緩んだせいか、思わずこぼれた言葉を、もう一度飲み込めたらいいけれど、それはできない。
ちゃんとその言葉を、耳で捕らえたらしい父が、わずかに辛そうに顔をゆがめたことを、わたしは見逃さなかった。
「ごめん」
あ、とうとう謝らせてしまった。そういうつもりじゃなかったのに。
「ち、違うの。ええっと、お父さんがいてくれたら、わたしだって、もっと男の人にも慣れたんじゃないかって思って」
「なおさら、ごめん…」
「わあ!そ、そうじゃなくて、ああ、どうしよう…」
さっきとは打って変わった様子で、うなだれる父。きっと、香山くんとの会話も最後の方は、聞えていたんだろう。
「ええっと、本当に、助かりました。どうもありがとう」
そうだそうだ、お礼も言わなくちゃ。意地悪な香山くんの攻撃から、ちゃんと守ってくれたもの。
「あいつ、会社の人間じゃなかったら殴ってやるんだけどな」
「ええ!?」
気のせいではなく、父が拳をぎゅっと握っている。
「また、手出ししてきたら、教えるんだよ」
ようやく元通りの落ち着いた声で、そう言って心配そうにわたしの顔を覗き込んでくるけれど。
い、言えない!さっきよりもむしろ言いづらくなった!
たとえ、香山くんに意地悪されても、教えたらこの人が香山くんを殴っちゃうんじゃないかっていう心配が先に立つようになった。
お父さんって、こういうものなのかなぁ…。