結婚したいから!
結婚したいから!
突然のプロポーズ
「ミク、俺と結婚して」
何を言われたのか、理解するのに時間がかかる。
背景は、間違いなく、いつもの居酒屋さんのものだ。顔を憶えてしまった店員さんがせかせかと、通路を歩いていった。
だけど、今日は席が空いてなかったのか、個室だから、目の前のコーイチの顔を見つめているより他に、見るものもない。
「俺、結婚したくないんだよ」
続けて、コーイチは、そう言った。
…矛盾してますよね、明らかに。やっぱり理解不能。
ようやく、止まっていた時間が、動き出したような感じがして、声が出せた。「もうだいぶお酒飲んでる?」
「水しか飲んでない」
だよね。だいたいコーイチ、アルコールには強いし。
「何か精神を錯乱させるものが溶けた水なんじゃ」
「ただの水」
だよね。そうじゃないと困るしね。
「大丈夫?なんかあったんだね」
とにかく、いつものコーイチじゃないってことは確かだ。
その予想は間違ってはなかったらしく、ようやくコーイチは、わたしから視線を落として、小さくため息を吐いた。
「結婚させられそうだ」
「いつものことじゃない?気が合わない人だったら、断ってたでしょ?」
「今度は断れない」
「どうして」
「会社のためになるから」「……」
親友って言ってもいいくらいに、親しくしてもらってるこの人が、本来ならわたしとは全く接点のない人生を歩む人だったんだってことを、こういうときだけは思い知らされる。
自分のことだけ考えて、あとはときどき母親のことだけ思い出して生きてさえいればいいわたし。
会社を継いで、たくさんの人の人生を背負っていくコーイチ。
「よかったら、話、聞くよ」
結婚したい人とできなかったわたし。
結婚したくない人と結婚しなきゃいけないコーイチ。
どっちが、辛いかな。
はあ、って大きなため息をつくコーイチ。
「相手は、首都圏で、同じ業界第2位の収益を上げてる会社の社長令嬢。1位のウチと組めば、3位以下に大きな差をつけることができる」
…スケールが大きすぎる!
「しかも、令嬢は、眉目秀麗、建築学科大学院卒の才媛。で、その能力を生かして、父親の仕事をずいぶん助けてる。素行や気質に関しても、非の打ちどころがない」
そんな人、この世に存在するんだ…。「それなら、結婚しちゃえばいいじゃない」
聞けば聞くほど、いい話に思える。
「…結婚したくないって言ってるだろ」
珍しく、怒ったような口調になるコーイチに、ちょっと戸惑うけど。
「でも、そんな素敵な人なら、コーイチだって、その人のこと、好きになるかもよ?」
思い浮かべてみる。コーイチの隣に、その人が並んでいるところを。
きっと、ふたりはお似合いなはずだ。
「ならない」
「なんで」
「なんでって…」
「もう会ってみた?会ったときの印象が悪かった?」
「悪くない。でも結婚はしたくない」
「なんで。よくわからない」
コーイチは、まだ怒ったような顔をしたままで、こう言った。
「あんな女と生活するなんて、息が詰まる。始終気を張ってなきゃいけない気がする」
…贅沢!!なんて贅沢なことを言ってるんだろう、この人は!!
今度は、わたしがため息を吐く番だった。
「わたしも、色んな人から、リラックスして海空らしくいられる人と結婚しなさいって言われたけど、本当にそれが一番いいのかな?コーイチだって、緊張しちゃうくらい素敵な人と、一緒に暮らせるなんて、ずっと恋してるみたいで、楽しいかもよ?」
コーイチは、いよいよ黙り込んでしまった。
「ごめん。なんか不愉快なこと言った?」
しばらくして、沈黙に耐えきれず、こう言うと。
「俺だって、ミクと見合いしたころは、誰でもいいと思ってたよ」
ふいに視線を落として、ぽつりとコーイチがそう言ったから、不意に胸がドキリとした。
わたしたちは、最初に会った頃のことはお互いに話さないから。
示し合わせたりしたことはないけど、なんとなく、あれはなかったことにしよう、っていう空気がある気がするから。
「結婚した女が、男の子を産んでさえくれれば、社長夫妻に顔向けもできるし、会社だって安泰だから。最初に会った女と結婚しようって思ってたくらいだ」
こちらを見つめ返してきたコーイチの目は、もう冷静だった。
「でも、今は、好きな女以外とは結婚したくないし、自分の後継ぎのことだってどうでもいい」
初、耳、なんだけど…。にわかに自分が緊張してくることを感じる。
ことごとく縁談が破談になるコーイチを、紗彩と一緒に笑ってたのは、何だったんだろう。
いつからか、彼は、その人以外とは結婚する気がなくなって、自分から縁談を断り続けていたんだろうか。
だとしたら、わたしは、彼の何を見ていたんだろう。友達だって、顔をしながら。
「ミク、俺と結婚して」
酔ってるわけでもなく、薬を飲んでいるわけでもないのに、また話の繋がらないことを言う。
一体どうしたんだろう、って戸惑いながら、彼のまっすぐな視線を、受け止めることしかできない。
「俺はミクが好きだ」
えっと……。
「…それは、わたしもコーイチが好きだけど」
わたしが、困惑したままそう返すと、気持ちが伝染したかのように、コーイチも困った顔になって少し黙ったのち、こう言う。
「…それって、ミクから見たら、紗彩に対して思うような『好き』だろ」
「似ては、いるよね」
どちらも一番のわたしの味方だ、っていう意味では同じだけど、それぞれの性格もわたしとの関わり方も違うんだから、全く同じじゃない。
ああ、そう言えば。
「えっと…、紗彩は、まだ来ないのかな?」
「今日は来ない」
「え?」
「ミクとふたりで話したかったから」
祥くんと一緒にいる間には、「言わなくてもいいか、わかるよね」って、言わないで済ませていたことが、たくさんあった。
聞きたくないことや、訊かれたくなさそうだってわかることも、お互い口に出さない。わかり合えてるって信じすぎて、言葉にしない心地よさに甘えてた。
でも、コーイチは、そういう甘えを好まないらしい。
とうとう、なんと答えたらいいかわからず、途方に暮れるわたしを前に、ゆっくりと言葉を選びながら、話してくれる。
初めてミクに会ったときは、社長夫婦が、いい加減に早く結婚しろってあまりにもうるさいから、割り切って、結婚相談所で知り合った女と結婚することに決めたばかりだったんだ。
あれから、何人も紹介してもらったけど、結局、お前だけだった。俺の肩書とか、家柄とか、顔とか、全然気にしてない女。
最初に見合いしたのがミクだったから、こういうところの紹介だと、かえってみんなそんなもんなんだと思ったけど、実際はそうじゃなかった。
ミクだけは、おどおどした目だったけど、ちゃんと俺の本質を見抜こうとしてた気がする。
持って生まれた性格とか、育った環境とか、気にしてる様子だったし、俺がどういう仕事をしてるか話してもあまり興味なさそうで、どんな会社にいるのかもよくわかってなかったよな。
それは今でもわかってなさそうだけど。
まあ、クラブの女の子といたところを誤解されて、御縁はなかったことに、ってあの担当者から言われても、別に未練もなかったよ。浅い付き合いだったしな。
だけど、あのボロいスーパーで再会した時、「なんでこいつのこと忘れてたんだろう」って強烈に思った。
色んな偶然が重なったせいか、俺に対する警戒心も消えてて、本来のお前ってこういうふうなんだ、っていうのが初めてわかった。
純粋に、また会えたらいいな、また話したいな、って思ったよ。
別に、女だから、って言うんじゃなくて、単純に、話が通じ合いそうな気がした。養子に入ってから、初めてだったな、そういう普通の人づきあいができそうな人間に出会ったのが。
でも、その俺の態度が、前の彼氏に誤解されたなら、悪かったって気持ちは、今でもあるけど。あの時は、きっと近いうちに幸せな結婚をするんだろうなって思ってたのにな。ごめんな?ミク。
だから、彼氏と別れてめちゃくちゃになってる様子を見たら、放っとけなかった。また、前みたいに、くだらない話で笑い合えるようになりたかった。
でさ、ミクにまとわりついてるうちに、紗彩のこともいい奴だなって思うようになって。
だいたい、初めから、俺に対して辛辣だったし、ミクと同じで俺のことを特別扱いしないっていう点で、貴重な人間だってことにも、気が付いた。
楽しかったよ、単純に。いつのまにか背負ったりかぶったりしてた鎧だか仮面だか、そういうものをとっぱらって、お前らと飲んだくれてる時。3人で結婚できないってぐだぐだくだ巻いて。
心の中では、もうすっかり、結婚しなくても全然構わないって思ってたくらいだ。ミクと一緒だよ。
でもさ、結城の家にいる以上、周りが放っておいてくれないんだよな。
面倒だけど、ときどき見合いだけはしてた。ときどき、ミクの会社で、ミクに笑われたりしながら、な。とりあえず、そうやって何かアクションを起こしている間は、社長夫婦も黙っててくれるから。
だけど、それも、もう終わりだ。
あの女と結婚した方がいい。もし俺がこのまま会社を経営するなら、絶対にお互いのためになるってことが、自分でよくわかってるから。
それなのに、どうしても、結婚したくないんだ。
社長令嬢の会社とは、統合の話も出ていて、彼女ともときどき、会社で会うよ。だけど、会えば会うほど、彼女の良さが分かってくるのに、結婚はしたくないって気持ちがどんどん強くなる。
その反比例する感情が、自分でもいまいち理解できなくて。
そんなとき、お前が、酔っ払って眠る直前に、「俺とキスすると気持ち良すぎて頭が変になる」って言ったんだよ。
は?人違いじゃないし。どうせ目が覚めたときには忘れてるんだろうと思ってたけど。
でも、そのときに、気が付いた。
ミクが、あの春に見合いした頃のことを忘れたふりをしてるように、俺も、記憶にないふうを装ってたってこと。
理由としては、お互いになかったことにしておいた方が今、友達づきあいをするのに楽だって言うのも、一理ある。俺は、ずっとそうだと思ってた。たぶん、ミクもそうだろ?
だけど、それだけじゃない。
だって、ミクが化粧するために、俺に触れたとき、やたらドキドキしたんだ。
それって、あの頃だけじゃなくて、今でもミクのこと、女として意識してるって証拠なんじゃないかって。
俺、春は自棄になってたし、かなり無理矢理だったけど、あのキス、よかっただろ?
は?だから、お前からそう言い出したんだからな。
それに、あのとき、もう無理にはしないって約束したから我慢してたけど、今までにも何回かキスしちゃおうかなって思ったことがあ…いてっ、思っただけだって。してないから。ほんとに。
とにかく、まあ、ああいうキスを、もう一度してみたい、って自覚したら、自分の気持ちがはっきりした。
…わかった?俺が言いたいこと。
「えっと…、人として好きだと思ってくれてるのは、前からわかってるつもりだよ?」
話し終えたらしく、ようやくコーイチが、黙って私を見つめているので、何か言わないといけないと思った。
もちろん、頭の中はまだぐちゃぐちゃしている。
「じゃあ、結婚して」
「え?」
「ミクも、俺のこと好きなんだろ?」
「うん…。いやいやいや、その前に、わたしとコーイチは、友達でしょ?」
「友達か恋人かって、そんなに重要なことか?」
「あ、当たり前でしょ!友達と結婚するっておかしい!!」
「じゃあ、恋人になって」
「わ、わけがわからない!!」
「お前だって、大まかに、好きな奴、ってくくりの中に友達も恋人も一緒に入れてるだろ。そのうち、友達か恋人かって言うボーダーラインは、相手が異性の場合、曖昧だと思うけど?
もちろん、絶対、線引きができないとは言わない。俺も紗彩のことは親友だと思ってるしな。でも、ミクはちょっと違う」
「え?」
「ミクの考えだと、友達に、キスしたいって思うの、変だろ?」
「う、うん」
「触れたらドキッとするのも、変だろ?」
「う、うん」
「確かに、なんか変なんだ、俺。理屈じゃなくて」
じゃあ、今、わたしがこうしてドキドキしてるのって、何なんだろう。いやいや、コーイチが、いきなり変なこと言うせいだ。
「あ、ごめん」
全部冗談だよ、とでも言われるんじゃないかと思って、はっとしてコーイチの顔を見るけど、にこっと笑い返されて、ドキッとした。
年上なのに、ときどき可愛い顔するんだよね、コーイチって。
「話し過ぎた。遅くなったから、送って行く」
そう言うと、もうさっぱりした顔で、コーイチは席を立ってしまうけど、わたしはひどくうろたえてしまった。
「ええ!?い、いい!タクシーで帰るから」
今まで、飲んで遅くなったって、そんなこと絶対言わなかったのに。
「キスしたりしないから」
「なななななな何言ってるの、この人!?」
まさか、赤くなってないだろうな、わたし。大丈夫だろうな、わたし。
コーイチは、あっけらかんとした顔で、「かーわいい」って言いながら笑ってる。か、かわいい!?
急に方向転換したコーイチに、ついて行けなくて、わたしの頭の中はパンク寸前。
昨日までは、確かに親友だった人に、プロポーズされた。
わけがわからない。いや、どうしてそんなことになったのか、よくよく説明はしてもらった。だから、わけは、わかっている。
なのに、この激しい混乱は、収まる気配がない。
頭痛に耐えかねて、朝食後に鎮痛剤を、水で流し込んでいた時だった。ケータイの着信音が鳴った。すっかり聞き慣れたメロディだ。
From 結城晃一
Sub. 眠れた?
本文 俺、眠れなかった!今日、会議中に寝たらどうしよう。
…コーイチって、やっぱりバカなのかな。どうして、こんな日に、そんな素直なメール、送れるんだろう。
To 結城晃一
Sub. 眠れるはずがない!
本文 今、頭痛薬飲んだ。コーイチのせいだからね。会議で居眠りしちゃえ。
なんとか支度をして、外に出ると、手袋が要らないような気温だった。そう言えば、少し前に、テレビでケイチツです、って言ってたっけ。あの、虫が這い出してくるっていうやつ。あ、啓蟄だ。
ああ、この、手が軽い感覚、久しぶりだな。少しずつ、春が近づいて来るんだな。その空気を胸一杯に吸い込むと、ちょっと、気持ちが落ち着いて、いつもの電車に揺られて、無事に会社に行けた。
頭がふらふらする中、必死で相談業務や書類の整理をしていると、理央さんが自分のデスクに向かう途中に、声をかけてくれる。
「海空ちゃん、どうかした?眉間にしわが寄ってるけど」
「あ、ああ、はい。あの…、ちょっと相談してもいいですか」
まさか、ただの寝不足です、とも言えず、ちょうどよかったので、この頃気になっていたことを相談してみた。
わたしの仕事も、以前に比べれば、はかどるようになった。つまり、お客さん同士がお付き合いできるケースは、増えて来た。
もちろん、それはとっても嬉しい。だけど、結婚までたどり着く人が、まだほとんどいない。それが、ちょっと、残念なのだ。
「そこは気にしなくていいよ。」
「ええっ!?」
それを相談して、理央さんから帰ってきた予想外の答えに、びっくりしてしまう。
「前にも、人と人とを繋ぐだけでいいって、言ったじゃない?お客様が結婚するかどうかは、最初から最後まで気にしなくていい。お客様にお任せするところだから」
な、なるほど。理央さんから見れば、まだまだわたしは、肩に力が入っていたようだ。
「もっと言えば、お付き合いが始まらなくてもいいくらい。お客様同士が友達になれれば、成功だと、私は思ってるよ」
「でも、友達なんて…」
「結婚の対象外だって、思ってるの?」
なんて、タイムリーな話題だろう。こくんと頷いて見せると、理央さんがくすりと笑った。
「友情も、好意の内だってことには変わりないでしょ。その友情が、愛情に変わるケースなんて、いくらでも見て来たよ、私。
それに、ずっと友達のままだったとしても、それはそれで、お客様の財産になるんだから、いいじゃない」
なんて素敵な考え方だろう。わたしは、また理央さんの仕事に惚れ直した。
「理央さん!わたし、理央さんについて行きます!!」
わかったわかった、って理央さんは、呆れたような笑みを浮かべてるけど。
仕事の実績や成果よりも、お客さんの視点に立った考え方を、心底尊敬できると思った。
わたしも、彼女のその柔軟で、温かい目を持てるように。そう心がけながら、仕事に励むと、もっともっと仕事が楽しくなった。
理央さんの言葉の「友情が、愛情に変わる」っていうフレーズは、よく聞く、使い古されたものなのに、やけにわたしの耳に残った。
From 結城晃一
Sub. ミクのせい
本文 お前の呪いのおかげで、ほんとにうとうとしてしまっただろ!机の下で、社長に足を踏まれた。責任とって、結婚して。
…どう、返事をしろって言うんだろう、この人は。
家に帰ってから、コーイチのメールを見て、困ってしまった。
でも、この困惑は、まだまだ続く。唐突なプロポーズを受けたあの晩から、コーイチは、こうして、二言目には結婚、って言うようになったのだから。