結婚したいから!
ライバルは答えを知っている
答えは、たぶん、出ている。出ているのに、どうしたらそれを表現できるのかが、わからない。
すっかり常連になった居酒屋さんは、今日はまたとりわけ混んでいる。コーイチと並んで少し入口で待ってから、空いた席に通してもらった。
「俺、令嬢と会うの、もう疲れた…」
って、呟いて、机に頬をつけて甘えるみたいにわたしを見上げてくるコーイチに、ドキンとするくせに、上手い受け答えも思いつかない。
「そっか」
じゃあ、わたしと結婚すればいいかも、って、言うの?いやいやいやいや、言えない!!今更、そんなこと、言えない!!
言えないし、なんか、…それも違う気が、する。
「ミクー、なんか、反応薄いな」
そう言ったコーイチの視線が、ふと、わたしの頭上で止まる。
「くじょーさんじゃなーい?偶然だなぁ」
ああ、嫌な声だ。軽い声。頭をバンバンと遠慮なく叩くその手には、全く優しさが感じられない。
「もっ、叩かないで!触らないで!」
いつも通り、距離を置きつつ、後ろを振り返ると、やっぱり目に入ってきたのは、明るい色のふわふわ頭。
香山慎、なんでこんなところでまで、その顔を見なきゃいけないんだろう。
「あなたが、例の、慎の先輩なの?なんか、想像よりさらに可愛らしい人だな」
「え、ええっと?」
そう言って、香山くんの隣で、わたしを見ているのは、大きな目をぱちぱちさせて、魅力的ににまっと大きな口を微笑みの形に曲げた、女の子。
誰だろう。まさか、香山くんの彼女じゃないよね。
さらに、「例の」とか「想像より」とか、香山くんが勝手にわたしの話をした気配を色濃く感じる発言が、気にかかる。
「でしょ。いじめると面白い。抱きしめただけで、すっげー怒るんだよ」
「もう!ほんとに最低!軽すぎる!また部長さんにチクってやるからね!」
「いや、それ、マジでマズイ。あの人、やけにあんたに肩入れしてるし。実はデキてんじゃないのー?今度は俺、刺されるかも…、あは、それもおもしれー」
「デキ、デキてるはずないー!!頭おかしいよね、香山くんって」
あの人、お父さんだし!確かに、殴りたいって言ってたけど!全部、内緒だけど!
それに、香山くんに抱きしめられたことだって、せっかく忘れてたのに!こんなかわいい人の前で、わざわざ言わなくていいじゃないかって、思う。
わたしの視線を感じたらしく、どーも、って小首をかしげる彼女は、初対面だけど、あまり緊張感を与えない雰囲気の人だ。さすが、香山くんのお連れさんって言うべきなのか、わたしたちのやり取りを、ははははって笑い続けて見ている。
「こっちは、俺の友達で、本庄惟花(ゆいか)。九条さんのお隣は?俺、香山慎でーす」
「…結城晃一」
あれ、さらに武装がっちりバージョンなのかな?口数が少ないうえに、なんだか声が低いコーイチ。
「まさか、彼氏じゃないよね」
ん?香山くんが、わたしとコーイチとを見比べながらそう言う。
「ちょっと、『まさか』って何なの」
確かに彼氏じゃないけど!
わたしだって、さっき、「まさか、香山くんの彼女じゃないよね」って思いながら、惟花さんのことを見てたけど。せめて、口に出さないで、心の中だけで呟いてほしい。
「いや、すげーいい男だし。九条さん、あの偉そうなしゃべり方する男と別れたところだし」
どうせ、祥くんに振られた上に、コーイチとわたしじゃあ釣り合わないですよ、って膨れるしかない。あれ?香山くん、祥くんの電話を取ったこともあったんだ、なんて思ったときだった。
「いや、ミクは、俺の彼女だから」
大人しかったコーイチが、わたしの肩を抱いたから、一瞬で息が止まった。
「あんまりいじめると、それなりの対応を考えるよ」
固まったのは、香山くんと惟花さんだけじゃない。わたしだって、がちがちに体が硬直してしまった。
なんか…コーイチの話し方、丁寧なのに、威圧感がある。でも、距離が近すぎて、緊張のあまり、その表情をうかがうこともできない。
洋服越しに、ゆっくりと、コーイチの胸から指先までの熱が、伝わってくるのがわかる。
わたしが硬直してるって、ばれてないだろうか。脈が速いって、ばれてないだろうか。
「マジ…?」
香山くんが、信じられない、って顔で、ようやくそれだけ呟いた。
マジではない、マジでは。
でも、肩を掴んでいた手を離したコーイチの顔を、そっと見ると、眼鏡越しにもその顔はバツが悪そうに見えた。だいたい、親しくない人の前では、あまり表情が出ないから、香山くんと惟花さんにはわからないはずだ。でも、「話を合わせて」って目配せしてくるみたいだから、小さくうなずいてみた。
コーイチは、香山くんの意地悪をかわしてくれようとしてるんだろうけど、わたしだって、香山くんには、わたしとコーイチと付き合ってるって、思ってもらった方がいいから。
香山くんは、相手の女の子がフリーだったら何してもいいと思ってる節がある。裏を返せば、さすがに彼氏や旦那さんのいる子には手を出さない、とも言える。
だから、好きな人以外は一切受け付けない体質のわたしは、彼氏がいると思っていてもらいたい。
「あの、惟花さん、はじめまして。九条海空です」
気を取り直して、そう話しかけると、ようやく、固まっていた惟花さんが、再びぱちぱちと瞬きをした。
「あ、ああ、はじめまして。えっと、あたしはね、慎とは、高校が一緒だったの」
「へえ…。あんまり、想像したくない高校時代だけど…」
思わず呟くと、惟花さんが大笑いした。
「だね。楽しければいいって感じで、ところ構わず男友達と大騒ぎして、女はとっかえひっかえしてた。不良ってわけでもないのに、先生たちがかなり手を焼いてたよ」
「マジで楽しかったなー」
…会社と言う接点がなければ、永遠にわたしとは人生が交差しないはずだった人だ。わかってはいたけれど、そのことを再認識。なにが「楽しかったなー」だ、って思う。
「もう、勝手にくっつけないでよ」
香山くんが、ガツンと隣のテーブルをくっつけてくるから、焦る。
わたし、この人と飲むの、すごく嫌なんですけど!!
「いーじゃん」とか言いながら、コーイチの隣で、勝手にこっちのテーブルの枝豆に手まで伸ばしてくる。
「でも、結城さんも、そうでしょ」
「は?」
「モテたでしょ、その顔で、その雰囲気なら。女の子を次々食っちゃったりしてたでしょ」
オンナノコヲツギツギ??
コーイチは、意識的に、自分を地味に見せているはずだ。伊達眼鏡だって、その手段の一つだと思う。
今日だってそういう装いなのに、初対面の香山くんが、コーイチの魅力に気がついたことに、ちょっとびっくりした。
「……いや」
なに、その、間は。コーイチ。
「あははっ、ご謙遜を!」
香山くんは笑ってるけど、私は笑えなかった。
そう言えば、あんまり、コーイチの過去の恋愛話ってちゃんと聞いたことがない。
わたしが話を聞いてもらう一方で。コーイチから聞くのは、「やっぱり縁談だめになった」っていう笑い話ばっかり。
こうなる前は、どうだったんだろう。それこそ、高校時代とか、大学時代とか……。
考え始めて、コーイチの顔をまじまじと見つめてみると、明らかにわざと表情を消している感じがして、後でじっくり問い詰めてみよう、とひそかに決意した。
「どうして、惟花さんは、こんな人と友達なの?」
気を取り直して、小声でこっそり耳打ちしたはずなのに、「九条ちゃーん?」とむしろ恐ろしく聞こえる猫なで声がした。
「どうしてだろうねぇ。でも、友達になるのに、理由っている?」
惟花さんが、「こんなの」とわたしが表現したことは全く否定することなく、そう答えた。
つまり、理由はいらないのだ。
「…たしかにいらないかも」
コーイチだって、紗彩だって、そのほかのどの友達だって、理由があるから仲良くしてるって人はいないな。
「恋と一緒。気がついた時には、もう好きになってる」
ドキッとした。
惟花さんの顔は、当たり前、って言ってるだけだけど。そう言われた香山くんだって、さっぱりした顔で、ビールを飲んでる。
「惟花さ、いくら俺のこと好きでも、家に泊まるのはやめろよ」
「なんで」
「俺、さすがに彼氏にボコられるだろー」
「あんたなんかわたしの対象外だって、よく知ってるから、大丈夫」
「おー、そうか。…って、俺だって、いくらお前が目の前で寝てても、手出す気にならねーもんな!」
「あんたには、もったいないもんね、あたし」
「おー、そうそう。おい、あまりにも偉そうだぞ、お前。俺だっていっぱい彼女いるし」
「それ、彼女って言わないし」
わたしたちにちょっかいかけてきたことなんて、すっかり忘れたみたいに、惟花さんと話してる香山くん。
仲良いんだなぁ。
祥くんは、「男女間の友情なんか信じてない」って言ってたけど、香山くんと惟花さんの間には、ちゃんと友情があるみたいだ。
だから、ふたりの会話を聞いてると、わたしまで楽しくなってきて、くすくす笑ってしまった。紗彩とコーイチのやり取りにも良く似てる。
ふと、香山くんがこちらを向いているのに気がついて、慌てて気分を引き締める。
次はどんな意地悪を言われるかわからないから!警戒、警戒。
「彼女、結城さんの前で、よく笑います?」
わたしじゃなくて、コーイチに目を向ける香山くん。
「笑うよ」
何の話をしたいのか、さっぱりわからない。コーイチも簡潔に答えたものの、眼鏡の向こうの目が「?」って言ってるみたい。
「へー。じゃ、ほんとなのかも」
そう言うと、今度は無遠慮にわたしの顔をしげしげと眺めてくるから、警戒のあまり、ムッとしてくる。
「なに、どういうこと?なにがほんとなの?ちょっと、慎!海空さんが怖がってるから、あんまりじろじろ見ないの」
惟花さんが、そう言いながら、香山くんを軽く叩いてる。
「九条さんさ、俺の前でまともに笑ったことないんだよ。すげー嫌われてんの、俺。でも、結城さんがいると笑っただろ?
ふたりの雰囲気見ると、付き合ってるなんて嘘だって思ったけど、ひょっとしたら、ほんとなのかもなーって」
心臓が、ドキドキしている。
誰にも聞こえないはずなのに、それを聞かれないように、って息まで潜めている。
香山くんは、とっくに目をそらしたわたしの方を、まだ見ている。
ちくちくと視線を感じる。わたしの中まで見透かすような。
「九条さん、彼のこと好きなんだ?肩抱かれたのに、怒らないもんね?」
…だから、この人って、苦手。
まだ、頭がぼんやりして、働かない。
香山慎め!!あのふわふわ頭が!!変なこと言うから!!
「モテたの?」
「は?」
「コーイチって、そんなにモテたの?」
「急に何の話だよ」
香山くんと惟花さんが帰ってしまって、何か話さなくちゃ、って慌てて引っ張りだしたのも、なんだか微妙な話題だった。
でもいいや、この際、何でもいい。とにかく、今は黙っていたくないから。
「香山くんが言ってたでしょ。女の子を次々…って」
「……」
「何その沈黙!!」
わかりやすい。コーイチって、ほんとにわかりやすい。
「何、気になるの?俺のこと」
「へへ変な言い方しないで!そうなのかなって思っただけだから!」
「素直じゃねーなあ、ミクは」
って、コーイチが笑ってる。わたし、よく素直だって言われるのに、なんでコーイチには素直じゃないって言われんだろう。
「聞いても、笑わない?」
って前置きをして、わたしの方をちらっと見るコーイチ。かっこ悪い話なのかな。
「たぶん」
「たぶんかよ」
だって、笑うかもしれないから。それでも、コーイチは、話してくれる。
「結論から言えば、たいしてモテない」
「うん」
「でも、大学に入って、社長の養子になってから、自分でもびっくりするぐらい、モテた」
「へえ」
「以上」
「え、なに、もう終わり?笑いたかったのに、わたし」
嫌な顔になるコーイチ。
「嫌な思い出なんだよな」
「コーイチにも、そんなのあるんだ?」
「あるに決まってるだろ。紗彩に言わせれば、カッコ悪くてモテないんだから。ミクだって、俺のこと、ただの能天気な奴だと思ってるんだろ?」
「うん」
「ちょっとは否定しろよ」
だって、縁談が駄目になるたびに、笑い話にする人なんか、コーイチくらいだと思う。少なくとも、わたしが仕事をしている中では、無理して自分で笑ってる人はともかく、そんなに人を笑わせてる人はいない。
黙って、コーイチが話すのを待っていると、諦めたように、彼は口を開いた。
「大学生の頃、サークルで知り合って、まあまあ長く続いた彼女がいたんだ」
「…うん」
彼女。彼女。
…彼女。
コーイチの口からその単語を聞くと、強い違和感を感じた。だって、わたしはコーイチに彼女がいるところを見たことがないから。
その違和感には、ほんのちょっぴり、嫉妬も混じってる、…かもしれない。
「でも、まあ、なんていうか、長く付き合ってると、お互い飽きてくることもあるだろ」
「…ううん。わたしは、飽きたことってない。飽きられることはあるけど」
「ぶっ。…うん。そうだな、ミクはそうかも」
「もう!わたしの話はいいんだった。で、それで?」
「うん。でも、俺たちの場合は、お互い飽きてた、と思う。別れようかって言うんだけど、なぜかなかなか彼女がうんって言わないんだ」
「コーイチのことが、まだ好きだったんじゃないの?」
「嫌いじゃなかったみたいだけどな。好きだったのは、俺よりも『結城家』だったらしい」
「え?」「俺と結婚したら社長夫人になれるから、別れたくないって言ったんだ」
「ええ!?」
「かっこ悪いだろ?」
そう言うと、自分でくすくす笑い出してしまうコーイチ。その表情に、翳りはない。
でも、わたしは笑えなかった。「金とか家とかじゃなくて、俺と結婚したいって女、もういないのかな?」って言って飲みまくってたコーイチを思い出したから。
あれは、そのときのお見合いだけの話だけじゃ、なかったんだ……。
「家に連れて行ったのがいけなかったんだろうな。あれも、どうせ俺んちじゃないし、俺の金じゃないんだけどさ。将来は自分のものになるんじゃないかって夢を見たらしいよ、彼女は」
確かに、コーイチの家は、立派な家だったけど。
「でさ、まだ悲劇は続くんだよ。そういう話は、いつの間にか、学内で広まるものらしくさ。せっかくその子と別れたのに、その後付き合う子はみんな、俺がどんな家の息子かってことを、俺が話す前からちゃんと知ってるんだ」
辛かったんじゃ、ないかな…。「養い親のネームバリューでモテてもしょうがねえな、ってわかってたんだけどさ。なんかむしゃくしゃするし、俺もちょっとやけになって、近づいてくる女の子を次々に食っちゃっ」
「うううう嘘!嘘!!嘘でしょ!?」
慌ててコーイチの言葉を遮った。香山くんの言いまわしそのまんまだってことに気がついて。
「…ほんと」
なのに、わざわざそう言うから、今度こそ、わたしは言葉を失った。
忘れたふりをしてるけど、わたしだって、コーイチのことを、女の子の扱いに慣れてそうだって、思ったことが、何度もあった。
「だから、本当はわかってるんだけど、さ」
コーイチが、そう言いながら、わたしへと伸ばしていた手を、ふいに下ろした。
「ちょっとくらい、強引な方が、ミクは俺に流されてくれるってこと」
ドッキン、とわかりやすく心臓が跳ねた。
いつの間にか、話の矛先が変わっている。
「でも、今はもう無理。ミクは、そういう軽い男、苦手そうだし。全然、手出しできない。早く『いいよ』って言って」
切なそうに、少し目を細めてわたしを見る表情が、珍しくて、彼から目が離せない。
「なんのことをいいよって言ってほしいの?」
さっきまでの打ち明け話の衝撃も、内容も、頭の中からすっかり消えてしまって、つい、優しい声でそう尋ねてしまった。
「キスしていいよって」
「い、言えるわけない!」
「お預けが長いんだけど。すっげえキスしたいんだけど」
「な、何言ってるの?なんで!?」
「結婚したいから」
結局また、いつもの展開。
困惑しているわたしを見て、コーイチはため息を吐いた。
「いつか結婚したいって思ってるから、ちょっと喧嘩になるくらいならいいけど、決定的に嫌われることは避けたいんだ。俺、ミクのことが大事すぎて、キスもできなくなった」
大事すぎて?
「本当は、友達の関係を壊すのだって、怖いくらいだったけど、もう待てなくなったし」
社長令嬢とのお見合い、のことを言ってるんだろうな。友達の関係を壊すのが怖いって、わたしと同じことを、考えてくれていた時期もあったんだ、ってことも、初めて知った。
いつも通りの、静かで柔らかい目で、わたしをまっすぐ見つめてるだけの、コーイチ。
「俺のこと、好きだろ?」
「……うん」
「俺が男だってこと、わかってるだろ?」
「…うん」
「じゃあ、ちゃんと俺のこと見て。俺の話を聞いて」
もう、見てるよ。もう、聞いてるよ。
だって、胸がドキドキする。一度も目をそらさないで、わたしに一生懸命話してくるコーイチを見てると、それだけで息が苦しい。
コーイチには、香山くんがわたしの気持ちを言い当てたことも、やっぱり聞かなかったことにするつもりはないみたい。
わたしが、コーイチのことを好きで、それは、性別の違いを忘れた上での気持ちではないってこと。
わたしも、もう、自分でも気がついている。香山くんと惟花さんの関係とは、違う。
「でも、わたし、怖い」
あと一歩、コーイチのところへ足を踏み出すことが、できない。
彼は、いつまで待っていてくれるだろう。もうすぐ、タイムリミットがやって来て、あの綺麗な女の人のところへ行かないといけなくなるのかもしれないのに。
「コーイチも、きっと、いなくなる」
わたしの胸に開いた穴が、いつまでもわたしを怯えさせている。大事な人が傍にいなくなることが、怖くてたまらない。
好きになればなるほど、その人を失った時の喪失感が大きいってことを、嫌というくらい思い知った。
祥くんが、「海空もそのうち、俺から離れるんだろうな、と思って」と、呟いた声が、今、わたしの頭の中で響いている。あれは、経験した人にしかわからない怖さなんだってこと、今ならわたしにも、少しはわかる。
恋が永遠に続くと言う、夢を見ることが、できなくなった。
「俺、そう簡単に消えたりしないから」
コーイチが、はっきりと言う。
「失うのが怖いなら、失わないように、先回りして考えておけばいいだろ。俺、もう、考えてるから…」
「……コーイチ?」
前半の台詞はすごくかっこよかったのに、最後には何を考えたのか、ひとりで赤くなって目を泳がせてるから、緊張が一気に解けた。
なんか、…かっこ悪いんだもん。
「ミクが、俺の子どもを5人くらい産むんだ。いっぱい仲良くすれば、そのくらいできるよな?たぶん」
「いっぱい仲良くするってなに!へ、変なこと想像しないで!!」
「ミクだって想像したくせに」
「コーイチのせいだから!」
「でも、悪くないだろ。そういう将来。子どもに囲まれて、死ぬまで夫婦として一緒に暮らすって、ありふれてるみたいだけど、実際は奇跡じゃない?」
「うん……。奇跡、だね」
プライベートでも、仕事でも、生涯の伴侶を得るってことの難しさをひしひしと感じている。誰かと一生を添い遂げるなんて、言葉で言うほど簡単なことじゃないんだろうってことに、今は気がついている。
「俺、ミクとだったら、それも現実にできるよ」
「…なんで、そんなに自信を持って、言い切れるの?」
「ミクのことが好きだから」
好きでも、どうにもならなかったことが、たくさんある。この人だって、それでのたうちまわってるわたしを見てたはずなのに、こんなふうに言えるのは、どうしてだろう。
「俺、絶対手放さないから」
絶対なんて、ないのに。好きだって気持ちすら、風化するのに。どうしてそんなこと言えるんだろう。
「考えすぎだよ、ミクは」
考えすぎ、だろうか。
「コーイチが、考えなさすぎるんだよ」
そう言ってはみるけれど、「そうか」って否定もしないコーイチが、本当に何も考えてないのかって言われてみると、そうじゃない気もする。
「過ぎたことは忘れろ。先のことを考えるのはいいけど、悪い想像だけするのはやめて、自分で計画を立ててみろよ。な?」
コーイチの言っていることは、わかる。わたしのことを、よくわかってるんだな、とも、思う。
「ま、今は、ミクに嫌われてなければ、それでいいか」
そう言って、コーイチは、自分だけはすっかり気持ちを切り替え、さっぱりした顔になって、わたしの目を覗き込んでくる。
きっと、ゆらゆら揺れているであろう瞳を。
「そのうち、そんなこと、どうでもいいくらい、好きになってくれればいいんだけどな」
ははっ、って笑う。ドキッとしてるのは、きっと、わたしだけなんだろう。
この人って、本当に、楽天家だと思う。紗彩じゃないけど、ときどきはわたしだって「バカなの?」って言いたくなるけど、多分そうじゃない。
そんなに思ったことをそのまま口に出して、傷つくことってないんだろうか。なかなかはっきりしない態度のわたしを見ても、イライラしないんだろうか。
わたしは、今までは怖かった。相手の気持ちに沿えない態度を取ることが。好きな人には絶対嫌われたくなかった。
コーイチも、わたしに嫌われたくないって言うけど、それはわたしの場合とはちょっと違う。だいたい、それを口に出せている時点で、違う気がする。
そこには遠慮はないし、自分の意思だけはちゃんと伝えられているのだから。
コーイチと、いつも一緒にいられたら、楽だろうな。
楽しいだろうなって思う。幸せだろうなって思う。
でもそれが、結婚につながる気持ちなのかどうかは、まだわからない。
「えへへ。遊びに来ちゃった」
帰ってきたら、窓から明かりがもれていて、そうなんじゃないかと思った。
私の住むアパートの部屋の中には、母がいた。ソファにちょこんと足まで抱え込んで座っている。
その姿はいつものものだけど、何やらピッピッと携帯電話を熱心に操作しているのが、珍しい。
「お父さんにメールしてるの?」
そう訊いてみると、案の定、母は「う、うん」と答えてかすかに赤くなった。
「どうして、そんなに長い時間、好きでいられるの?」
母が、父と出会ってから、27年近く経っているはずだ。今になっても、恋人のように気持ちが寄り添っている感じがするのは、どうしてだろう、って、純粋に疑問に思う。
「…残像かな」
「ええ?」
「余韻?残り香?うーん、いい表現が思いつかないけど。はじめに会った時の恋が、残ってるって感じがする」
「え?意外だな。今でも恋真っ最中って感じじゃないんだ?」
「ふふふふ。今も好きだけどね。あのときの大好きだった気持ちを、そっと掬いあげて楽しんでる、って感じかなぁ。嬉しいよ、何度でも追体験できて」
「ずーっと、ずーっと、大好きで、恋してる、っていうのが結婚の理想だと思うんだけどな」
わたしが思わず呟くと、母が笑いだした。
「そういう人もいるのかもしれないけどね。でも、そんな、恋しっぱなしの状態、あたしは疲れるよー。もう歳だし、これくらい穏やかな、信頼を確かめ合うような、関係がいいな」
なんか、大人なんだな、意外に。ときどき、そう思うけど。いや、年齢から言っても、立場から言っても、母が大人なのは当たり前なんだけど。
コーイチが、社長令嬢と一緒にいると、息が詰まるって言ったっけ。
あのときは、贅沢だって思ったけど、結婚に求めるものは人それぞれだし、きっと、人の組み合わせの数だけ、夫婦の形があるんだろうな。
「お母さん、お父さんと結婚しないの?」
気には、なっていた。
父も、何でもないような顔をして、何度も北海道土産を職場に持ってくる。絶対、母に会いに行ってるはずだ。一緒にいる時の様子からしても、父も母を大切に思っているに違いないのに。
「うーん。別に、結婚する理由もないしね。会いたいときは会えるし、あたしたちの間には、海空がいるから」
お、おかあさん。
「それに、あたし、大きな会社の社長の息子とか、無理だもん。平凡な家の出の女が、そういう家に入ると苦労するでしょ。今の仕事もやめなきゃいけないだろうし」
……ちょっと感動したのに。
「あれ?どうしたの、海空」
地味にわたしのハートを攻撃。一瞬でしっかり撃ち抜いてくれた。
ヘイボンナイエノデノオンナ?クロウスル?シゴトモヤメナキャイケナイ?
なんだか、他人事とは思えない言葉がいっぱい並んでたけど!
「まさか、そういう人とお付き合いを…」
「し、してない!してないしてない!!」
あわてて母の言葉を否定する。付き合っているわけじゃないっていうことは、事実だ。
母は、わたしの顔をじいっと見つめて、少し黙りこんだ後、ゆっくりとこう言った。
「お互いが、相手のことを好きなら、大丈夫。他のことは、何も考えなくていいの。なるようになる。
若い時は、それが一番の強みだよ。」
そんなものかなぁ、って思うだけだ。
世代が違うからなのか、経験値が違うからなのか、母の言うことは、あまりピンとこなかった。
恋した時の気持ちは、そんなに長く残るのかな。
好き合ってたって、他にいろいろ考えてしまうものじゃないのかな。なるようにならないことだって、あるんじゃないのかな。
母は、キッチンに立って、何かの料理を温めようとしてる。わたしが仕事に行っている間に作ってくれたんだろうけど、上手にできたのかな。「東京って4月になったらあったかいんだね」とか呑気に言ってるだけだ。
その小さな後姿を見ながら、父と母の、長い長い恋について、思いを馳せていた。
「それにしても、香山慎ってヤツ、ミクに気があるだろ」
「へえっ?」
突然、電話でそう言われて驚いた。
「何言ってるの、コーイチ。わたしと香山くんは犬猿の仲だから。ライバルだから。
それより、まだ仕事中なんでしょ。切るよ」
時計を見ると、まだ6時だ。忙しいコーイチが、家に帰っている時間じゃない。
「ちょっと待て。気になって、仕事にならないんだから」
「はあ?」
「あいつに抱きしめられたってほんと?」
「…?」
この人、今更何言いだすんだろう。呆れて、声が答えにならない。
「ほんとなのか」
「なに?なんなの?もう、忘れたいのに!思い出させないで!」
新年会のとき、確かにそんなことはあったけど。あのときは、まだ仕事にも全然自信がなくて、いちいち香山くんの嫌味が堪えたっけ。
「ごめん」
しゅんとした声が、耳に届いて、はっとした。あ、ちょっと、言い方がきつかったかもしれない。
「ううん。わたし、香山くんのことが苦手なの。意地悪ばっかりするから。思い出すとイライラしちゃって。わたしこそ、ごめんね」
はあ、って電話越しでもわかるくらいの、ため息が聞こえた。
「いや。俺、どうかしてるな。じゃあ、切るよ」
そう言われると、逆にわたしの方が悪いことをしたんじゃないかって焦った。
「ちょ、ちょっと待って!何?なにが気になるって?仕事にならないんでしょ。ちょっとだけ話そう?」
「……うん」
…なんで引きとめたんだろう、わたし。
「何が気になるの?」
もう仕方ないから、話を聞いてみようと思う。
「香山慎って、会社でミクに会った時もいっしょにいただろ」
コーイチは、そう切り出した。
「ああ、紅茶飲んでたときね。たまたまだよ?」
「この前会った時のこと思い返してみても、自分からちょっかい掛けるのって、ミクだけみたいな気がして」
「そんなことない!フリーの女の人にはたいていセクハラ発言してるし!ひどいんだよ、ほんとに」
そう言えば、理央さんにだって、恐れ多くもセクハラ発言して「部長さん」にチクられてたっけ。
「発言、だけ?」
「ん?」
「触れたりしないんだろ?」
「……あ。…うん」
そう言われてみると、あれだけ飲み会の度に警戒して、香山くんの行動を監視してたはずなのに、女の人に触ったりしてた記憶はない。
「あいつ、見境ないってわけじゃないんだよ。女友達には全く手を出してないって言ってただろ」
惟花さんのことだ。確かに、そんな話をしていた。
「毎日、会社で顔合わせるんだから、ちょっとは警戒して、ミク。どのくらいの程度なのは分からないけど、あいつはミクに気がある」
警戒?警戒なら、十分してた、つもりなのに。
「…うん。わか、った」
意地悪されないように、って気をつけてるだけじゃ、足りないのかな。香山くんの言動を思い出して、わたしは、動揺している。
「ミクが受け入れる用意があるなら、うるさく言うつもりはなかったけど、そうじゃないだろ?」
胸に、複雑な思いが広がって、混じり合っていく。
動揺してぐらぐらしていた気持ちが、熱くなって、しまいにはまたイライラしてきた。
「もう!!コーイチのバカ!!」
「はあ?」って、コーイチの間抜けな声が、かすかに聞えた気がしたけど、電話を切ってやった。
もう一度、コーイチから電話がかかってきたけど、出なかった。出られなかった。
胸がズキズキする。
わたし、何を、考えた?なんで、怒ってる?
「うるさく言うつもりはない」って言われたことが、なんか、すごくむしゃくしゃしたんだ…。
諦めたらしく、もう鳴らない電話を見つめながら、わたしは自分の心の中を見つめている。
香山くんがわたしのことを好きだって仮定した上でのことだけど。
もし、香山くんから付き合ってって言われて、わたしがいいよって答えたとしても、コーイチは反対しないってこと?
あれだけ結婚してってうるさいくせに?
だいたい、大事すぎて手が出せないってどういうこと?
わたしが流されやすいってことも、わたしがコーイチに好意を持っていることも、もうわかってるのに、どうして強引に自分の方を向かせようとしないんだろう。
このまま、あの社長令嬢と結婚するつもり?
結局、コーイチの方が、その程度の気持ちってことじゃないの?
―――――それって、わたし、コーイチにもっと積極的になってほしいって、思ってる?
イライラしながら、そんなことをぐるぐる考えているうちに、そこへたどり着いたら、自分に、赤面するしかなかった。
ベッドに寝転がって、枕に顔を埋めているけど、なかなか頬の熱が引かない。
わたし、何やってるんだろう。ほんとに。
すっかり常連になった居酒屋さんは、今日はまたとりわけ混んでいる。コーイチと並んで少し入口で待ってから、空いた席に通してもらった。
「俺、令嬢と会うの、もう疲れた…」
って、呟いて、机に頬をつけて甘えるみたいにわたしを見上げてくるコーイチに、ドキンとするくせに、上手い受け答えも思いつかない。
「そっか」
じゃあ、わたしと結婚すればいいかも、って、言うの?いやいやいやいや、言えない!!今更、そんなこと、言えない!!
言えないし、なんか、…それも違う気が、する。
「ミクー、なんか、反応薄いな」
そう言ったコーイチの視線が、ふと、わたしの頭上で止まる。
「くじょーさんじゃなーい?偶然だなぁ」
ああ、嫌な声だ。軽い声。頭をバンバンと遠慮なく叩くその手には、全く優しさが感じられない。
「もっ、叩かないで!触らないで!」
いつも通り、距離を置きつつ、後ろを振り返ると、やっぱり目に入ってきたのは、明るい色のふわふわ頭。
香山慎、なんでこんなところでまで、その顔を見なきゃいけないんだろう。
「あなたが、例の、慎の先輩なの?なんか、想像よりさらに可愛らしい人だな」
「え、ええっと?」
そう言って、香山くんの隣で、わたしを見ているのは、大きな目をぱちぱちさせて、魅力的ににまっと大きな口を微笑みの形に曲げた、女の子。
誰だろう。まさか、香山くんの彼女じゃないよね。
さらに、「例の」とか「想像より」とか、香山くんが勝手にわたしの話をした気配を色濃く感じる発言が、気にかかる。
「でしょ。いじめると面白い。抱きしめただけで、すっげー怒るんだよ」
「もう!ほんとに最低!軽すぎる!また部長さんにチクってやるからね!」
「いや、それ、マジでマズイ。あの人、やけにあんたに肩入れしてるし。実はデキてんじゃないのー?今度は俺、刺されるかも…、あは、それもおもしれー」
「デキ、デキてるはずないー!!頭おかしいよね、香山くんって」
あの人、お父さんだし!確かに、殴りたいって言ってたけど!全部、内緒だけど!
それに、香山くんに抱きしめられたことだって、せっかく忘れてたのに!こんなかわいい人の前で、わざわざ言わなくていいじゃないかって、思う。
わたしの視線を感じたらしく、どーも、って小首をかしげる彼女は、初対面だけど、あまり緊張感を与えない雰囲気の人だ。さすが、香山くんのお連れさんって言うべきなのか、わたしたちのやり取りを、ははははって笑い続けて見ている。
「こっちは、俺の友達で、本庄惟花(ゆいか)。九条さんのお隣は?俺、香山慎でーす」
「…結城晃一」
あれ、さらに武装がっちりバージョンなのかな?口数が少ないうえに、なんだか声が低いコーイチ。
「まさか、彼氏じゃないよね」
ん?香山くんが、わたしとコーイチとを見比べながらそう言う。
「ちょっと、『まさか』って何なの」
確かに彼氏じゃないけど!
わたしだって、さっき、「まさか、香山くんの彼女じゃないよね」って思いながら、惟花さんのことを見てたけど。せめて、口に出さないで、心の中だけで呟いてほしい。
「いや、すげーいい男だし。九条さん、あの偉そうなしゃべり方する男と別れたところだし」
どうせ、祥くんに振られた上に、コーイチとわたしじゃあ釣り合わないですよ、って膨れるしかない。あれ?香山くん、祥くんの電話を取ったこともあったんだ、なんて思ったときだった。
「いや、ミクは、俺の彼女だから」
大人しかったコーイチが、わたしの肩を抱いたから、一瞬で息が止まった。
「あんまりいじめると、それなりの対応を考えるよ」
固まったのは、香山くんと惟花さんだけじゃない。わたしだって、がちがちに体が硬直してしまった。
なんか…コーイチの話し方、丁寧なのに、威圧感がある。でも、距離が近すぎて、緊張のあまり、その表情をうかがうこともできない。
洋服越しに、ゆっくりと、コーイチの胸から指先までの熱が、伝わってくるのがわかる。
わたしが硬直してるって、ばれてないだろうか。脈が速いって、ばれてないだろうか。
「マジ…?」
香山くんが、信じられない、って顔で、ようやくそれだけ呟いた。
マジではない、マジでは。
でも、肩を掴んでいた手を離したコーイチの顔を、そっと見ると、眼鏡越しにもその顔はバツが悪そうに見えた。だいたい、親しくない人の前では、あまり表情が出ないから、香山くんと惟花さんにはわからないはずだ。でも、「話を合わせて」って目配せしてくるみたいだから、小さくうなずいてみた。
コーイチは、香山くんの意地悪をかわしてくれようとしてるんだろうけど、わたしだって、香山くんには、わたしとコーイチと付き合ってるって、思ってもらった方がいいから。
香山くんは、相手の女の子がフリーだったら何してもいいと思ってる節がある。裏を返せば、さすがに彼氏や旦那さんのいる子には手を出さない、とも言える。
だから、好きな人以外は一切受け付けない体質のわたしは、彼氏がいると思っていてもらいたい。
「あの、惟花さん、はじめまして。九条海空です」
気を取り直して、そう話しかけると、ようやく、固まっていた惟花さんが、再びぱちぱちと瞬きをした。
「あ、ああ、はじめまして。えっと、あたしはね、慎とは、高校が一緒だったの」
「へえ…。あんまり、想像したくない高校時代だけど…」
思わず呟くと、惟花さんが大笑いした。
「だね。楽しければいいって感じで、ところ構わず男友達と大騒ぎして、女はとっかえひっかえしてた。不良ってわけでもないのに、先生たちがかなり手を焼いてたよ」
「マジで楽しかったなー」
…会社と言う接点がなければ、永遠にわたしとは人生が交差しないはずだった人だ。わかってはいたけれど、そのことを再認識。なにが「楽しかったなー」だ、って思う。
「もう、勝手にくっつけないでよ」
香山くんが、ガツンと隣のテーブルをくっつけてくるから、焦る。
わたし、この人と飲むの、すごく嫌なんですけど!!
「いーじゃん」とか言いながら、コーイチの隣で、勝手にこっちのテーブルの枝豆に手まで伸ばしてくる。
「でも、結城さんも、そうでしょ」
「は?」
「モテたでしょ、その顔で、その雰囲気なら。女の子を次々食っちゃったりしてたでしょ」
オンナノコヲツギツギ??
コーイチは、意識的に、自分を地味に見せているはずだ。伊達眼鏡だって、その手段の一つだと思う。
今日だってそういう装いなのに、初対面の香山くんが、コーイチの魅力に気がついたことに、ちょっとびっくりした。
「……いや」
なに、その、間は。コーイチ。
「あははっ、ご謙遜を!」
香山くんは笑ってるけど、私は笑えなかった。
そう言えば、あんまり、コーイチの過去の恋愛話ってちゃんと聞いたことがない。
わたしが話を聞いてもらう一方で。コーイチから聞くのは、「やっぱり縁談だめになった」っていう笑い話ばっかり。
こうなる前は、どうだったんだろう。それこそ、高校時代とか、大学時代とか……。
考え始めて、コーイチの顔をまじまじと見つめてみると、明らかにわざと表情を消している感じがして、後でじっくり問い詰めてみよう、とひそかに決意した。
「どうして、惟花さんは、こんな人と友達なの?」
気を取り直して、小声でこっそり耳打ちしたはずなのに、「九条ちゃーん?」とむしろ恐ろしく聞こえる猫なで声がした。
「どうしてだろうねぇ。でも、友達になるのに、理由っている?」
惟花さんが、「こんなの」とわたしが表現したことは全く否定することなく、そう答えた。
つまり、理由はいらないのだ。
「…たしかにいらないかも」
コーイチだって、紗彩だって、そのほかのどの友達だって、理由があるから仲良くしてるって人はいないな。
「恋と一緒。気がついた時には、もう好きになってる」
ドキッとした。
惟花さんの顔は、当たり前、って言ってるだけだけど。そう言われた香山くんだって、さっぱりした顔で、ビールを飲んでる。
「惟花さ、いくら俺のこと好きでも、家に泊まるのはやめろよ」
「なんで」
「俺、さすがに彼氏にボコられるだろー」
「あんたなんかわたしの対象外だって、よく知ってるから、大丈夫」
「おー、そうか。…って、俺だって、いくらお前が目の前で寝てても、手出す気にならねーもんな!」
「あんたには、もったいないもんね、あたし」
「おー、そうそう。おい、あまりにも偉そうだぞ、お前。俺だっていっぱい彼女いるし」
「それ、彼女って言わないし」
わたしたちにちょっかいかけてきたことなんて、すっかり忘れたみたいに、惟花さんと話してる香山くん。
仲良いんだなぁ。
祥くんは、「男女間の友情なんか信じてない」って言ってたけど、香山くんと惟花さんの間には、ちゃんと友情があるみたいだ。
だから、ふたりの会話を聞いてると、わたしまで楽しくなってきて、くすくす笑ってしまった。紗彩とコーイチのやり取りにも良く似てる。
ふと、香山くんがこちらを向いているのに気がついて、慌てて気分を引き締める。
次はどんな意地悪を言われるかわからないから!警戒、警戒。
「彼女、結城さんの前で、よく笑います?」
わたしじゃなくて、コーイチに目を向ける香山くん。
「笑うよ」
何の話をしたいのか、さっぱりわからない。コーイチも簡潔に答えたものの、眼鏡の向こうの目が「?」って言ってるみたい。
「へー。じゃ、ほんとなのかも」
そう言うと、今度は無遠慮にわたしの顔をしげしげと眺めてくるから、警戒のあまり、ムッとしてくる。
「なに、どういうこと?なにがほんとなの?ちょっと、慎!海空さんが怖がってるから、あんまりじろじろ見ないの」
惟花さんが、そう言いながら、香山くんを軽く叩いてる。
「九条さんさ、俺の前でまともに笑ったことないんだよ。すげー嫌われてんの、俺。でも、結城さんがいると笑っただろ?
ふたりの雰囲気見ると、付き合ってるなんて嘘だって思ったけど、ひょっとしたら、ほんとなのかもなーって」
心臓が、ドキドキしている。
誰にも聞こえないはずなのに、それを聞かれないように、って息まで潜めている。
香山くんは、とっくに目をそらしたわたしの方を、まだ見ている。
ちくちくと視線を感じる。わたしの中まで見透かすような。
「九条さん、彼のこと好きなんだ?肩抱かれたのに、怒らないもんね?」
…だから、この人って、苦手。
まだ、頭がぼんやりして、働かない。
香山慎め!!あのふわふわ頭が!!変なこと言うから!!
「モテたの?」
「は?」
「コーイチって、そんなにモテたの?」
「急に何の話だよ」
香山くんと惟花さんが帰ってしまって、何か話さなくちゃ、って慌てて引っ張りだしたのも、なんだか微妙な話題だった。
でもいいや、この際、何でもいい。とにかく、今は黙っていたくないから。
「香山くんが言ってたでしょ。女の子を次々…って」
「……」
「何その沈黙!!」
わかりやすい。コーイチって、ほんとにわかりやすい。
「何、気になるの?俺のこと」
「へへ変な言い方しないで!そうなのかなって思っただけだから!」
「素直じゃねーなあ、ミクは」
って、コーイチが笑ってる。わたし、よく素直だって言われるのに、なんでコーイチには素直じゃないって言われんだろう。
「聞いても、笑わない?」
って前置きをして、わたしの方をちらっと見るコーイチ。かっこ悪い話なのかな。
「たぶん」
「たぶんかよ」
だって、笑うかもしれないから。それでも、コーイチは、話してくれる。
「結論から言えば、たいしてモテない」
「うん」
「でも、大学に入って、社長の養子になってから、自分でもびっくりするぐらい、モテた」
「へえ」
「以上」
「え、なに、もう終わり?笑いたかったのに、わたし」
嫌な顔になるコーイチ。
「嫌な思い出なんだよな」
「コーイチにも、そんなのあるんだ?」
「あるに決まってるだろ。紗彩に言わせれば、カッコ悪くてモテないんだから。ミクだって、俺のこと、ただの能天気な奴だと思ってるんだろ?」
「うん」
「ちょっとは否定しろよ」
だって、縁談が駄目になるたびに、笑い話にする人なんか、コーイチくらいだと思う。少なくとも、わたしが仕事をしている中では、無理して自分で笑ってる人はともかく、そんなに人を笑わせてる人はいない。
黙って、コーイチが話すのを待っていると、諦めたように、彼は口を開いた。
「大学生の頃、サークルで知り合って、まあまあ長く続いた彼女がいたんだ」
「…うん」
彼女。彼女。
…彼女。
コーイチの口からその単語を聞くと、強い違和感を感じた。だって、わたしはコーイチに彼女がいるところを見たことがないから。
その違和感には、ほんのちょっぴり、嫉妬も混じってる、…かもしれない。
「でも、まあ、なんていうか、長く付き合ってると、お互い飽きてくることもあるだろ」
「…ううん。わたしは、飽きたことってない。飽きられることはあるけど」
「ぶっ。…うん。そうだな、ミクはそうかも」
「もう!わたしの話はいいんだった。で、それで?」
「うん。でも、俺たちの場合は、お互い飽きてた、と思う。別れようかって言うんだけど、なぜかなかなか彼女がうんって言わないんだ」
「コーイチのことが、まだ好きだったんじゃないの?」
「嫌いじゃなかったみたいだけどな。好きだったのは、俺よりも『結城家』だったらしい」
「え?」「俺と結婚したら社長夫人になれるから、別れたくないって言ったんだ」
「ええ!?」
「かっこ悪いだろ?」
そう言うと、自分でくすくす笑い出してしまうコーイチ。その表情に、翳りはない。
でも、わたしは笑えなかった。「金とか家とかじゃなくて、俺と結婚したいって女、もういないのかな?」って言って飲みまくってたコーイチを思い出したから。
あれは、そのときのお見合いだけの話だけじゃ、なかったんだ……。
「家に連れて行ったのがいけなかったんだろうな。あれも、どうせ俺んちじゃないし、俺の金じゃないんだけどさ。将来は自分のものになるんじゃないかって夢を見たらしいよ、彼女は」
確かに、コーイチの家は、立派な家だったけど。
「でさ、まだ悲劇は続くんだよ。そういう話は、いつの間にか、学内で広まるものらしくさ。せっかくその子と別れたのに、その後付き合う子はみんな、俺がどんな家の息子かってことを、俺が話す前からちゃんと知ってるんだ」
辛かったんじゃ、ないかな…。「養い親のネームバリューでモテてもしょうがねえな、ってわかってたんだけどさ。なんかむしゃくしゃするし、俺もちょっとやけになって、近づいてくる女の子を次々に食っちゃっ」
「うううう嘘!嘘!!嘘でしょ!?」
慌ててコーイチの言葉を遮った。香山くんの言いまわしそのまんまだってことに気がついて。
「…ほんと」
なのに、わざわざそう言うから、今度こそ、わたしは言葉を失った。
忘れたふりをしてるけど、わたしだって、コーイチのことを、女の子の扱いに慣れてそうだって、思ったことが、何度もあった。
「だから、本当はわかってるんだけど、さ」
コーイチが、そう言いながら、わたしへと伸ばしていた手を、ふいに下ろした。
「ちょっとくらい、強引な方が、ミクは俺に流されてくれるってこと」
ドッキン、とわかりやすく心臓が跳ねた。
いつの間にか、話の矛先が変わっている。
「でも、今はもう無理。ミクは、そういう軽い男、苦手そうだし。全然、手出しできない。早く『いいよ』って言って」
切なそうに、少し目を細めてわたしを見る表情が、珍しくて、彼から目が離せない。
「なんのことをいいよって言ってほしいの?」
さっきまでの打ち明け話の衝撃も、内容も、頭の中からすっかり消えてしまって、つい、優しい声でそう尋ねてしまった。
「キスしていいよって」
「い、言えるわけない!」
「お預けが長いんだけど。すっげえキスしたいんだけど」
「な、何言ってるの?なんで!?」
「結婚したいから」
結局また、いつもの展開。
困惑しているわたしを見て、コーイチはため息を吐いた。
「いつか結婚したいって思ってるから、ちょっと喧嘩になるくらいならいいけど、決定的に嫌われることは避けたいんだ。俺、ミクのことが大事すぎて、キスもできなくなった」
大事すぎて?
「本当は、友達の関係を壊すのだって、怖いくらいだったけど、もう待てなくなったし」
社長令嬢とのお見合い、のことを言ってるんだろうな。友達の関係を壊すのが怖いって、わたしと同じことを、考えてくれていた時期もあったんだ、ってことも、初めて知った。
いつも通りの、静かで柔らかい目で、わたしをまっすぐ見つめてるだけの、コーイチ。
「俺のこと、好きだろ?」
「……うん」
「俺が男だってこと、わかってるだろ?」
「…うん」
「じゃあ、ちゃんと俺のこと見て。俺の話を聞いて」
もう、見てるよ。もう、聞いてるよ。
だって、胸がドキドキする。一度も目をそらさないで、わたしに一生懸命話してくるコーイチを見てると、それだけで息が苦しい。
コーイチには、香山くんがわたしの気持ちを言い当てたことも、やっぱり聞かなかったことにするつもりはないみたい。
わたしが、コーイチのことを好きで、それは、性別の違いを忘れた上での気持ちではないってこと。
わたしも、もう、自分でも気がついている。香山くんと惟花さんの関係とは、違う。
「でも、わたし、怖い」
あと一歩、コーイチのところへ足を踏み出すことが、できない。
彼は、いつまで待っていてくれるだろう。もうすぐ、タイムリミットがやって来て、あの綺麗な女の人のところへ行かないといけなくなるのかもしれないのに。
「コーイチも、きっと、いなくなる」
わたしの胸に開いた穴が、いつまでもわたしを怯えさせている。大事な人が傍にいなくなることが、怖くてたまらない。
好きになればなるほど、その人を失った時の喪失感が大きいってことを、嫌というくらい思い知った。
祥くんが、「海空もそのうち、俺から離れるんだろうな、と思って」と、呟いた声が、今、わたしの頭の中で響いている。あれは、経験した人にしかわからない怖さなんだってこと、今ならわたしにも、少しはわかる。
恋が永遠に続くと言う、夢を見ることが、できなくなった。
「俺、そう簡単に消えたりしないから」
コーイチが、はっきりと言う。
「失うのが怖いなら、失わないように、先回りして考えておけばいいだろ。俺、もう、考えてるから…」
「……コーイチ?」
前半の台詞はすごくかっこよかったのに、最後には何を考えたのか、ひとりで赤くなって目を泳がせてるから、緊張が一気に解けた。
なんか、…かっこ悪いんだもん。
「ミクが、俺の子どもを5人くらい産むんだ。いっぱい仲良くすれば、そのくらいできるよな?たぶん」
「いっぱい仲良くするってなに!へ、変なこと想像しないで!!」
「ミクだって想像したくせに」
「コーイチのせいだから!」
「でも、悪くないだろ。そういう将来。子どもに囲まれて、死ぬまで夫婦として一緒に暮らすって、ありふれてるみたいだけど、実際は奇跡じゃない?」
「うん……。奇跡、だね」
プライベートでも、仕事でも、生涯の伴侶を得るってことの難しさをひしひしと感じている。誰かと一生を添い遂げるなんて、言葉で言うほど簡単なことじゃないんだろうってことに、今は気がついている。
「俺、ミクとだったら、それも現実にできるよ」
「…なんで、そんなに自信を持って、言い切れるの?」
「ミクのことが好きだから」
好きでも、どうにもならなかったことが、たくさんある。この人だって、それでのたうちまわってるわたしを見てたはずなのに、こんなふうに言えるのは、どうしてだろう。
「俺、絶対手放さないから」
絶対なんて、ないのに。好きだって気持ちすら、風化するのに。どうしてそんなこと言えるんだろう。
「考えすぎだよ、ミクは」
考えすぎ、だろうか。
「コーイチが、考えなさすぎるんだよ」
そう言ってはみるけれど、「そうか」って否定もしないコーイチが、本当に何も考えてないのかって言われてみると、そうじゃない気もする。
「過ぎたことは忘れろ。先のことを考えるのはいいけど、悪い想像だけするのはやめて、自分で計画を立ててみろよ。な?」
コーイチの言っていることは、わかる。わたしのことを、よくわかってるんだな、とも、思う。
「ま、今は、ミクに嫌われてなければ、それでいいか」
そう言って、コーイチは、自分だけはすっかり気持ちを切り替え、さっぱりした顔になって、わたしの目を覗き込んでくる。
きっと、ゆらゆら揺れているであろう瞳を。
「そのうち、そんなこと、どうでもいいくらい、好きになってくれればいいんだけどな」
ははっ、って笑う。ドキッとしてるのは、きっと、わたしだけなんだろう。
この人って、本当に、楽天家だと思う。紗彩じゃないけど、ときどきはわたしだって「バカなの?」って言いたくなるけど、多分そうじゃない。
そんなに思ったことをそのまま口に出して、傷つくことってないんだろうか。なかなかはっきりしない態度のわたしを見ても、イライラしないんだろうか。
わたしは、今までは怖かった。相手の気持ちに沿えない態度を取ることが。好きな人には絶対嫌われたくなかった。
コーイチも、わたしに嫌われたくないって言うけど、それはわたしの場合とはちょっと違う。だいたい、それを口に出せている時点で、違う気がする。
そこには遠慮はないし、自分の意思だけはちゃんと伝えられているのだから。
コーイチと、いつも一緒にいられたら、楽だろうな。
楽しいだろうなって思う。幸せだろうなって思う。
でもそれが、結婚につながる気持ちなのかどうかは、まだわからない。
「えへへ。遊びに来ちゃった」
帰ってきたら、窓から明かりがもれていて、そうなんじゃないかと思った。
私の住むアパートの部屋の中には、母がいた。ソファにちょこんと足まで抱え込んで座っている。
その姿はいつものものだけど、何やらピッピッと携帯電話を熱心に操作しているのが、珍しい。
「お父さんにメールしてるの?」
そう訊いてみると、案の定、母は「う、うん」と答えてかすかに赤くなった。
「どうして、そんなに長い時間、好きでいられるの?」
母が、父と出会ってから、27年近く経っているはずだ。今になっても、恋人のように気持ちが寄り添っている感じがするのは、どうしてだろう、って、純粋に疑問に思う。
「…残像かな」
「ええ?」
「余韻?残り香?うーん、いい表現が思いつかないけど。はじめに会った時の恋が、残ってるって感じがする」
「え?意外だな。今でも恋真っ最中って感じじゃないんだ?」
「ふふふふ。今も好きだけどね。あのときの大好きだった気持ちを、そっと掬いあげて楽しんでる、って感じかなぁ。嬉しいよ、何度でも追体験できて」
「ずーっと、ずーっと、大好きで、恋してる、っていうのが結婚の理想だと思うんだけどな」
わたしが思わず呟くと、母が笑いだした。
「そういう人もいるのかもしれないけどね。でも、そんな、恋しっぱなしの状態、あたしは疲れるよー。もう歳だし、これくらい穏やかな、信頼を確かめ合うような、関係がいいな」
なんか、大人なんだな、意外に。ときどき、そう思うけど。いや、年齢から言っても、立場から言っても、母が大人なのは当たり前なんだけど。
コーイチが、社長令嬢と一緒にいると、息が詰まるって言ったっけ。
あのときは、贅沢だって思ったけど、結婚に求めるものは人それぞれだし、きっと、人の組み合わせの数だけ、夫婦の形があるんだろうな。
「お母さん、お父さんと結婚しないの?」
気には、なっていた。
父も、何でもないような顔をして、何度も北海道土産を職場に持ってくる。絶対、母に会いに行ってるはずだ。一緒にいる時の様子からしても、父も母を大切に思っているに違いないのに。
「うーん。別に、結婚する理由もないしね。会いたいときは会えるし、あたしたちの間には、海空がいるから」
お、おかあさん。
「それに、あたし、大きな会社の社長の息子とか、無理だもん。平凡な家の出の女が、そういう家に入ると苦労するでしょ。今の仕事もやめなきゃいけないだろうし」
……ちょっと感動したのに。
「あれ?どうしたの、海空」
地味にわたしのハートを攻撃。一瞬でしっかり撃ち抜いてくれた。
ヘイボンナイエノデノオンナ?クロウスル?シゴトモヤメナキャイケナイ?
なんだか、他人事とは思えない言葉がいっぱい並んでたけど!
「まさか、そういう人とお付き合いを…」
「し、してない!してないしてない!!」
あわてて母の言葉を否定する。付き合っているわけじゃないっていうことは、事実だ。
母は、わたしの顔をじいっと見つめて、少し黙りこんだ後、ゆっくりとこう言った。
「お互いが、相手のことを好きなら、大丈夫。他のことは、何も考えなくていいの。なるようになる。
若い時は、それが一番の強みだよ。」
そんなものかなぁ、って思うだけだ。
世代が違うからなのか、経験値が違うからなのか、母の言うことは、あまりピンとこなかった。
恋した時の気持ちは、そんなに長く残るのかな。
好き合ってたって、他にいろいろ考えてしまうものじゃないのかな。なるようにならないことだって、あるんじゃないのかな。
母は、キッチンに立って、何かの料理を温めようとしてる。わたしが仕事に行っている間に作ってくれたんだろうけど、上手にできたのかな。「東京って4月になったらあったかいんだね」とか呑気に言ってるだけだ。
その小さな後姿を見ながら、父と母の、長い長い恋について、思いを馳せていた。
「それにしても、香山慎ってヤツ、ミクに気があるだろ」
「へえっ?」
突然、電話でそう言われて驚いた。
「何言ってるの、コーイチ。わたしと香山くんは犬猿の仲だから。ライバルだから。
それより、まだ仕事中なんでしょ。切るよ」
時計を見ると、まだ6時だ。忙しいコーイチが、家に帰っている時間じゃない。
「ちょっと待て。気になって、仕事にならないんだから」
「はあ?」
「あいつに抱きしめられたってほんと?」
「…?」
この人、今更何言いだすんだろう。呆れて、声が答えにならない。
「ほんとなのか」
「なに?なんなの?もう、忘れたいのに!思い出させないで!」
新年会のとき、確かにそんなことはあったけど。あのときは、まだ仕事にも全然自信がなくて、いちいち香山くんの嫌味が堪えたっけ。
「ごめん」
しゅんとした声が、耳に届いて、はっとした。あ、ちょっと、言い方がきつかったかもしれない。
「ううん。わたし、香山くんのことが苦手なの。意地悪ばっかりするから。思い出すとイライラしちゃって。わたしこそ、ごめんね」
はあ、って電話越しでもわかるくらいの、ため息が聞こえた。
「いや。俺、どうかしてるな。じゃあ、切るよ」
そう言われると、逆にわたしの方が悪いことをしたんじゃないかって焦った。
「ちょ、ちょっと待って!何?なにが気になるって?仕事にならないんでしょ。ちょっとだけ話そう?」
「……うん」
…なんで引きとめたんだろう、わたし。
「何が気になるの?」
もう仕方ないから、話を聞いてみようと思う。
「香山慎って、会社でミクに会った時もいっしょにいただろ」
コーイチは、そう切り出した。
「ああ、紅茶飲んでたときね。たまたまだよ?」
「この前会った時のこと思い返してみても、自分からちょっかい掛けるのって、ミクだけみたいな気がして」
「そんなことない!フリーの女の人にはたいていセクハラ発言してるし!ひどいんだよ、ほんとに」
そう言えば、理央さんにだって、恐れ多くもセクハラ発言して「部長さん」にチクられてたっけ。
「発言、だけ?」
「ん?」
「触れたりしないんだろ?」
「……あ。…うん」
そう言われてみると、あれだけ飲み会の度に警戒して、香山くんの行動を監視してたはずなのに、女の人に触ったりしてた記憶はない。
「あいつ、見境ないってわけじゃないんだよ。女友達には全く手を出してないって言ってただろ」
惟花さんのことだ。確かに、そんな話をしていた。
「毎日、会社で顔合わせるんだから、ちょっとは警戒して、ミク。どのくらいの程度なのは分からないけど、あいつはミクに気がある」
警戒?警戒なら、十分してた、つもりなのに。
「…うん。わか、った」
意地悪されないように、って気をつけてるだけじゃ、足りないのかな。香山くんの言動を思い出して、わたしは、動揺している。
「ミクが受け入れる用意があるなら、うるさく言うつもりはなかったけど、そうじゃないだろ?」
胸に、複雑な思いが広がって、混じり合っていく。
動揺してぐらぐらしていた気持ちが、熱くなって、しまいにはまたイライラしてきた。
「もう!!コーイチのバカ!!」
「はあ?」って、コーイチの間抜けな声が、かすかに聞えた気がしたけど、電話を切ってやった。
もう一度、コーイチから電話がかかってきたけど、出なかった。出られなかった。
胸がズキズキする。
わたし、何を、考えた?なんで、怒ってる?
「うるさく言うつもりはない」って言われたことが、なんか、すごくむしゃくしゃしたんだ…。
諦めたらしく、もう鳴らない電話を見つめながら、わたしは自分の心の中を見つめている。
香山くんがわたしのことを好きだって仮定した上でのことだけど。
もし、香山くんから付き合ってって言われて、わたしがいいよって答えたとしても、コーイチは反対しないってこと?
あれだけ結婚してってうるさいくせに?
だいたい、大事すぎて手が出せないってどういうこと?
わたしが流されやすいってことも、わたしがコーイチに好意を持っていることも、もうわかってるのに、どうして強引に自分の方を向かせようとしないんだろう。
このまま、あの社長令嬢と結婚するつもり?
結局、コーイチの方が、その程度の気持ちってことじゃないの?
―――――それって、わたし、コーイチにもっと積極的になってほしいって、思ってる?
イライラしながら、そんなことをぐるぐる考えているうちに、そこへたどり着いたら、自分に、赤面するしかなかった。
ベッドに寝転がって、枕に顔を埋めているけど、なかなか頬の熱が引かない。
わたし、何やってるんだろう。ほんとに。