結婚したいから!
わたし自身も答えを知っている
「もう、ちょっと離れて」
「なんで」
「鬱陶しい」
「え」
ふたりのやりとりが、微笑ましくて、コーイチと一緒にくすくす笑ってしまった。
「何笑ってんのよ。だから連れてくるの、嫌だったのに」
紗彩が、心底気分が悪い、という顔をして、そっぽを向いた。
「こいつ、素直じゃないんだよね、人前では」
あはは、って笑ってるのが、早瀬賢悟さん。紗彩が結婚を決めた人だ。
それにしても、紗彩をこいつ呼ばわりできるなんて、すご過ぎる…。あ、でもグーで殴られた。
「もー、紗彩、優しくしてよ」
「できるか」
「できるはずだ」
「できない!!」
そう言いながらも、紗彩の顔はなんとなく、赤い。暗くて見えにくいけど、絶対に、赤い。
賢悟さんは、33歳には見えなかった。紗彩の言うように、年上だけどかわいい印象の人だった。
失礼かもしれないけど、犬に近いイメージ。人懐っこくて、紗彩に邪険に扱われても、懲りずにじゃれているから。
よかった。
ひそかに、胸をなでおろす。
もちろん、賢悟さんがいい人みたいで、紗彩を大事にしてくれそうだから、安心したって言う意味もある。
でも、それだけじゃない。
コーイチと、気まずい雰囲気の中で、会わずに済んだから、紗彩と賢悟さんに感謝している。
あれから、コーイチと話すのも、会うのも、初めてだったから。そう、ひとりで、むしゃくしゃして一方的に電話を切って以来。
ときどきコーイチから来るメールに、返信はするものの、悶々としながら日々を過ごしていた。
そんなとき、「ミニ花見しよう」って、紗彩からメールが来たのだった。
彼氏の賢悟さんも来るって聞いたから、嬉しくなって、行くと即答したけれど、当日来てみれば、コーイチもいた、というわけだ。
場所を取ってまで、お花見するのは大変だから、って言うことで、桜の真下じゃないけれど、川沿いの桜が意外によく見渡せる公園にいる。
とりあえず、落ち着こう。
そう思って、すでに水滴を纏った、カクテル入りの缶を口に運ぶ。
「ねえ、何怒ってんの」
ごほっ。
耳元でそう囁かれて、飲みかけていたアルコールがつっかえた。
…どうして、いちいち、そういうことを、訊いてくるのかな、コーイチは。
咳き込むわたしの背中を、少し撫でてたものの、「あ、ごめん」と言って、コーイチはすぐに手を離してしまう。いや、しまう、っていう表現はなんだ、わたし。
「気にしないで」
「気になるだろ」
「でも、忘れて」
「無理」
コーイチって、強情!!意外に、しつこい!!
ムッとした顔で、コーイチを見上げると、にこっと微笑まれてしまって、戦意ががくっと下がってしまう。
「やっと、こっち向いた」
ずるい、コーイチ。そんな顔で、そんなこと言われたら、もう怒れないじゃないか、って思う。
「海空ちゃんって、意外に紗彩と似てるね?」
賢悟さんが、いつの間にか、わたしとコーイチの話を聞いていたらしい。ちょっとびっくりした顔で、わたしを見ている。
「え、似てません!」
全然、似てないと思う。外も中も、どこから見ても。
「ほら、好きな男の前での態度が、そっくり。ぜーんぜん、素直じゃない」
す、好きな男とか、言わないでほしかった!この人も、わたしは苦手かも!!ごめん、紗彩!!
わたしの表情を、正確に読み取ったらしく、紗彩がよしよしとわたしの頭を撫でる。
「もー、機嫌直しなって、海空。賢悟は殴っとくからさ」
「えー」って、隣で賢悟さんがのどかな声を出しながら、ビールの缶を口に運ぶ。「賢悟さんは、紗彩が会社の面接に来た時の試験官だったんですよね?」
コーイチが、場を取り持つかのように、賢悟さんに話しかける。敬語が新鮮で、ちょっとどっきりした。
「うん。あがってたよ、紗彩。かわいいくらい」
「ええ!?」
わたしは、紗彩があがり症だって思ったことは一度もない。驚いて紗彩を見ると、相変わらず嫌そうな顔でわたしを見つめ返すだけだ。
「もっと落ち着けば、合格になりそうなのに、緊張し過ぎてまともに話せなかったんだよ」
「嘘!」
本気で、賢悟さんが冗談を言ってるんじゃないかって思った。
「…ほんとだよ」
紗彩が、暗い声でそう言う。
「海空は、あたしのこと過大評価してる。あたしの最大の欠点は、本番に弱いこと。受験でもいつも第3希望の学校にしか入れなかった」
「えええ!」
ま、まあ、紗彩が、第3希望の、わたしと同じ短大に来てくれなければ、こうして親友と言える関係にもなれなかった訳だけど。
「それで、なんで採用したんですか」
コーイチが、訊くと、賢悟さんは笑いだした。ますます、紗彩が不機嫌になる。
「君ってその程度のことしかできないの?って意地悪言ってみたら、むきになってさ。元気になったから」
ぶっ。
笑いをこらえきれず噴き出してしまったので、今度はコーイチが紗彩に小突かれてる。
まあ、確かに、緊張して話もできない紗彩よりも、負けず嫌い全開の紗彩の方が、彼女らしいけど。
上手に、紗彩らしさを引き出すんだろうなあ、賢悟さんは。
「ほんと、悔しかったぁ。このおっさんを、絶対、見返してやろうって思いながら、ずっと頑張ってたくらい」
「おっさんって言うな!」って賢悟さんが抗議してるけど、紗彩は全く気にする様子がない。
「でもまあ、そのおかげで、仕事でも順調に顧客がついたんだろ」
コーイチがくすくす笑いながらそう言うと、「まあね」って紗彩も答えてる。
「だろ!僕の見る目があったから、営業成績トップになったんじゃない?」
「え!!トップなの!?すごい!!紗彩!」
きっと、よくできるんだろうとは思ってたけど、まさか一番だとは。
「ありがと。でさ、この前、ご褒美だとか言って、社長が旅行券くれたんだよね」
「で、僕が、社員旅行のビンゴで、グアム旅行を当てたんだよね」
紗彩が言って、賢悟さんが続ける。
「だから、4人でグアム旅行に行こうよ」
しまいにはふたりで声をそろえてそう言った。
「え!!」
わたしは思わずコーイチと顔を見合わせたけど、慌てて目を逸らした。
「あたしたち、忙しいし、休日も合わないし、新婚旅行には行かないつもりだったんだけどさ、それも兼ねるから。一緒についてきてくれると嬉しい」
紗彩に、そんなことを言われて、なんとなく、断りづらくなってくる。
「何日も仕事を休まないといけないよね?」
「土日挟むし、前後2日休めば、行けるよ」
「あ、でも、お客さんからの予約とかも…」
なんとか、行かない方向にもって行こうとしてるのに。
「俺、あの石原って主任に電話してみようかなぁ」
コーイチが、独り言みたいに呟いた。
「ええっ!?だめだめ。理央さんに電話しちゃだめ!」
そうだ。コーイチの担当って、きっと理央さんだ。
コーイチから「俺と旅行に行くから休みを取らせてください」とか言われたら、恥ずかしくて会社に行けなくなる。
「じゃあ、自分で話すんだぞ」
いたずらっ子みたいな顔して、コーイチがわたしの顔を覗き込むから、もう何も言えなくなった。
「コーイチこそ、仕事忙しいし、行けないでしょ。わたし、紗彩と賢悟さんの邪魔するの嫌だよ」
「何とかなると思う。決算の時期も終わったし」
「え!?行くつもりなの!?」
「なんだよ、来てほしいのか来てほしくないのか、よくわからないやつだな」
コーイチが、わたしを見て笑ってる。
わたしだって、よくわからないんだもの。こんな微妙な関係で、コーイチも一緒に、旅行だなんて。
行きたいような、行きたくないような。
口をつぐんで、少し離れたところで、ひらひらと散っている桜の花びらを目で追う。薄暗いせいか、散って行く花弁は、白く見える。
早いんだな、1年って。去年のこのくらいのときだったはずだ。コーイチと初めて会ったのは。
「うわ、降ってきた」
賢悟さんがそう言うと、たしかにぽつりぽつりと、滴が空から落ちて来た。
「天気予報では降らないって言ってたのにね。ま、そういうわけだから、ふたりともちゃんと休暇取っといてよ。じゃあ、今日は帰ろっか」
紗彩はそう言いながら、手に持っていた缶ビールを傾けて、全部飲み干した。「うん」
賢悟さんが、嬉しそうに紗彩にくっつくから、見てるだけなのにちょっとドキドキした。
「なによ」
「今日は泊めてよ」
「調子に乗るな」
「え、だって僕、婚約者でしょ」
「…」
「泊めて。歯ブラシも持って来たから」
「用意周到!!」
おかしくて、こみあげてくる笑いを、なんとか噛み殺した。あの紗彩が、誰かのペースに巻き込まれてるなんて。
きっと、賢悟さんって、初めて会ったときから、紗彩の性格をかなり正確に把握してたんだろうなあ。
わたしの知らない紗彩を知っている賢悟さんに、ちょっぴり嫉妬も感じる。でも、生き生きした表情の紗彩を見ていると、嬉しいから、許す。
きっと、ふたりは、結婚しても、上手くいくんだろうなって思える。
「俺たちも、帰ろう」
気がつくと、すでに紗彩と賢悟さんはなにやら言い合いながら、歩き始めていた。ふと横を向くと、コーイチも立ち上がるところだった。
「うん」
雨が、ぽつぽつと、道路にも、公園の砂地にも、模様を作っていく。
桜の花が、散るだろうか。少し、桜並木の方を振り返って、そう思った後、コーイチと肩を並べて歩き出した。
「ミク、走れる?」
そう言われて、コーイチに頷いて見せる。
あっという間に雨が本降りになって、前を歩いていたふたりも、走っているから。
ここから紗彩の家までは近い。きっと、ふたりは、このまままっすぐ帰るんだろう。
「俺たちのことなんか、完全に忘れてるな、紗彩のやつ。友達なんだから、雨宿りくらいさせてくれてもいいのに」
シャッターを下ろした小さな金物屋さんの軒下に入ったとき、コーイチがそう言って呆れた顔をしていた。
「ふふ。なんだかんだ言っても、賢悟さんに夢中なんだよね」
本当にそうなんだと思う。あの紗彩が、5年もの間、片思いしてたんだから。
「あれ?コーイチって、誕生日いつだっけ。4月だって言ってなかった?」
ふと、思い出す。
そんな話をしたことがあった。桜が咲いている年もあるし、まだだったり、散ってたりする年もある時期だって、コーイチが言ってたはずだ。
すると、ふっと柔らかく表情を崩して、コーイチが答えた。
「今日」
「ええっ!?今日なの!?おめ、おめでとう!!えっと、31歳?」
「うん」って、心底嬉しそうに笑う。わたし、何のプレゼントも持ってないのに。おめでとうって言っただけなのに。雨で髪が濡れて、無邪気な表情とは裏腹に、コーイチが色気を漂わせてる気がして、ドキドキする。そんな自分には、気がつかなかったことにして、話すべき言葉を、頭の中で探す。
「ごめん。あげられるものが、何もないんだけど…」
「何も要らないけど、この前の電話で、なんで怒ってたか教えてよ」
……また、その話?
一気にげんなりした気分になった直後、コーイチがとんでもない一言を投げてくる。
「俺、ヤキモチ焼いた方がよかった?」
「は!?」
言われた言葉が、何度も頭の中で木霊のように響いている。
ヤキモチ焼いた方がよかったって、訊いてくるってことは…。わたしの抱いた感情の大部分を読まれてる、気がする。
いつの間にか、わたしの頬は上気して、なのに体は雨で冷えて指がふるふる震えていた。
「俺が、香山慎の気持ちをミクが受け入れるんだったら、うるさく言わないって言ったら、怒っただろ?」
確かに、その通り。
ぎゅっと両手のこぶしを握り締めて、震えを押さえようと躍起になっていると、コーイチがジャケットを脱いで、肩にかけてくれた。
寒いわけじゃないって言おうとしたけど、コーイチの体温が残るジャケットで、ずいぶん自分の体が冷えていたことに気がつかされた。
その直後、微かな煙草の匂いと、コーイチの香水の香りがして、頭がくらっとした。
な、なにやってるんだ、わたし。しっかりしなくては。
「黙秘かよ」
黙り込んでしまったわたしに、気を悪くした様子もなく、コーイチが少し笑みを浮かべる。
「俺、そのあたりの感情擦り切れてるんじゃないかなぁ」
そう言う彼の表情は、穏やかだ。
「前の彼氏と別れて、弱ってるミクを見てる間に」
表情とは違って、声音は痛々しい気がする。
「とにかく羨ましかったな、あんなにミクに一途に思われてるっていうのが。だから、今も、単純に羨ましい、香山って奴が。どんな状況にしても、ミクを抱き締めたなんて」
―――それって、ヤキモチっていうんじゃないの?
心の中だけで、そう呟いてみると、ようやく気持ちが落ち着いた。
わたしと香山くんがどうにかなったとしても、コーイチが平気ってわけじゃないんだってわかったら。
単純。わたしって。コーイチのこと言えない。
「だからさ。ちょっとだけ、抱き締めさせて」
「はあ?」
きょとんとして見上げると、予想外にコーイチが真っ赤な顔をしていて、びっくりした。こんなことは、珍しい。
いつもこちらがドキッとするような発言をするくせに、本人はいたって落ち着いた様子だったり、無邪気な顔をしてたりするから。
「それが誕生日プレゼントでいいから!」
31歳なのに?大人って言われる歳になって、10年以上も経ってるのに?
子どものわがままみたいなことを言って。頬だけじゃなくて、耳まで真っ赤に染めて。
…もうだめだぁ、わたし。
胸がきゅんきゅんする。
「わかった」
一瞬、びっくりして目を見開いたコーイチを、見なかったことにして、そっと一歩近づいた。
「お誕生日、おめでとう、コーイチ」
そう言って、おそるおそる、わたしは、自分の両手を彼の背中まで伸ばしてみる。
うわあ……。
いい匂いに加えて、コーイチの胸から伝わってくる温かい体温で、意識がぼんやりしてきた。
「あり、がと」
かすれた声で、珍しく言葉を詰まらせて、ようやくコーイチがそうっと、わたしの背中に腕を回す。
ひゃあああ。どっきんどっきんって心臓が暴れてる。背中に触れているコーイチの手にも、伝わりそうなくらい。
「夢見てんのかな、俺」
「大げさ、だよ」
「毎日、誕生日ならいいのに」
「子ども、みたいだね」
こんなに近くにいながら、上手く自分の気持ちが伝えられなくて、もどかしい。
わたしがこんなことをしたのは、誕生日プレゼントの代わり、ってはずはないから。ただの男友達に、こんなことできないはずだから。
どうにかなりそうなくらい、ドキドキしてるくせに、妙に気持ちが落ち着く。それが、何よりもわかりやすい答えに違いないのに。
気がついた今でも、まだ、素直になれない。
「なんで」
「鬱陶しい」
「え」
ふたりのやりとりが、微笑ましくて、コーイチと一緒にくすくす笑ってしまった。
「何笑ってんのよ。だから連れてくるの、嫌だったのに」
紗彩が、心底気分が悪い、という顔をして、そっぽを向いた。
「こいつ、素直じゃないんだよね、人前では」
あはは、って笑ってるのが、早瀬賢悟さん。紗彩が結婚を決めた人だ。
それにしても、紗彩をこいつ呼ばわりできるなんて、すご過ぎる…。あ、でもグーで殴られた。
「もー、紗彩、優しくしてよ」
「できるか」
「できるはずだ」
「できない!!」
そう言いながらも、紗彩の顔はなんとなく、赤い。暗くて見えにくいけど、絶対に、赤い。
賢悟さんは、33歳には見えなかった。紗彩の言うように、年上だけどかわいい印象の人だった。
失礼かもしれないけど、犬に近いイメージ。人懐っこくて、紗彩に邪険に扱われても、懲りずにじゃれているから。
よかった。
ひそかに、胸をなでおろす。
もちろん、賢悟さんがいい人みたいで、紗彩を大事にしてくれそうだから、安心したって言う意味もある。
でも、それだけじゃない。
コーイチと、気まずい雰囲気の中で、会わずに済んだから、紗彩と賢悟さんに感謝している。
あれから、コーイチと話すのも、会うのも、初めてだったから。そう、ひとりで、むしゃくしゃして一方的に電話を切って以来。
ときどきコーイチから来るメールに、返信はするものの、悶々としながら日々を過ごしていた。
そんなとき、「ミニ花見しよう」って、紗彩からメールが来たのだった。
彼氏の賢悟さんも来るって聞いたから、嬉しくなって、行くと即答したけれど、当日来てみれば、コーイチもいた、というわけだ。
場所を取ってまで、お花見するのは大変だから、って言うことで、桜の真下じゃないけれど、川沿いの桜が意外によく見渡せる公園にいる。
とりあえず、落ち着こう。
そう思って、すでに水滴を纏った、カクテル入りの缶を口に運ぶ。
「ねえ、何怒ってんの」
ごほっ。
耳元でそう囁かれて、飲みかけていたアルコールがつっかえた。
…どうして、いちいち、そういうことを、訊いてくるのかな、コーイチは。
咳き込むわたしの背中を、少し撫でてたものの、「あ、ごめん」と言って、コーイチはすぐに手を離してしまう。いや、しまう、っていう表現はなんだ、わたし。
「気にしないで」
「気になるだろ」
「でも、忘れて」
「無理」
コーイチって、強情!!意外に、しつこい!!
ムッとした顔で、コーイチを見上げると、にこっと微笑まれてしまって、戦意ががくっと下がってしまう。
「やっと、こっち向いた」
ずるい、コーイチ。そんな顔で、そんなこと言われたら、もう怒れないじゃないか、って思う。
「海空ちゃんって、意外に紗彩と似てるね?」
賢悟さんが、いつの間にか、わたしとコーイチの話を聞いていたらしい。ちょっとびっくりした顔で、わたしを見ている。
「え、似てません!」
全然、似てないと思う。外も中も、どこから見ても。
「ほら、好きな男の前での態度が、そっくり。ぜーんぜん、素直じゃない」
す、好きな男とか、言わないでほしかった!この人も、わたしは苦手かも!!ごめん、紗彩!!
わたしの表情を、正確に読み取ったらしく、紗彩がよしよしとわたしの頭を撫でる。
「もー、機嫌直しなって、海空。賢悟は殴っとくからさ」
「えー」って、隣で賢悟さんがのどかな声を出しながら、ビールの缶を口に運ぶ。「賢悟さんは、紗彩が会社の面接に来た時の試験官だったんですよね?」
コーイチが、場を取り持つかのように、賢悟さんに話しかける。敬語が新鮮で、ちょっとどっきりした。
「うん。あがってたよ、紗彩。かわいいくらい」
「ええ!?」
わたしは、紗彩があがり症だって思ったことは一度もない。驚いて紗彩を見ると、相変わらず嫌そうな顔でわたしを見つめ返すだけだ。
「もっと落ち着けば、合格になりそうなのに、緊張し過ぎてまともに話せなかったんだよ」
「嘘!」
本気で、賢悟さんが冗談を言ってるんじゃないかって思った。
「…ほんとだよ」
紗彩が、暗い声でそう言う。
「海空は、あたしのこと過大評価してる。あたしの最大の欠点は、本番に弱いこと。受験でもいつも第3希望の学校にしか入れなかった」
「えええ!」
ま、まあ、紗彩が、第3希望の、わたしと同じ短大に来てくれなければ、こうして親友と言える関係にもなれなかった訳だけど。
「それで、なんで採用したんですか」
コーイチが、訊くと、賢悟さんは笑いだした。ますます、紗彩が不機嫌になる。
「君ってその程度のことしかできないの?って意地悪言ってみたら、むきになってさ。元気になったから」
ぶっ。
笑いをこらえきれず噴き出してしまったので、今度はコーイチが紗彩に小突かれてる。
まあ、確かに、緊張して話もできない紗彩よりも、負けず嫌い全開の紗彩の方が、彼女らしいけど。
上手に、紗彩らしさを引き出すんだろうなあ、賢悟さんは。
「ほんと、悔しかったぁ。このおっさんを、絶対、見返してやろうって思いながら、ずっと頑張ってたくらい」
「おっさんって言うな!」って賢悟さんが抗議してるけど、紗彩は全く気にする様子がない。
「でもまあ、そのおかげで、仕事でも順調に顧客がついたんだろ」
コーイチがくすくす笑いながらそう言うと、「まあね」って紗彩も答えてる。
「だろ!僕の見る目があったから、営業成績トップになったんじゃない?」
「え!!トップなの!?すごい!!紗彩!」
きっと、よくできるんだろうとは思ってたけど、まさか一番だとは。
「ありがと。でさ、この前、ご褒美だとか言って、社長が旅行券くれたんだよね」
「で、僕が、社員旅行のビンゴで、グアム旅行を当てたんだよね」
紗彩が言って、賢悟さんが続ける。
「だから、4人でグアム旅行に行こうよ」
しまいにはふたりで声をそろえてそう言った。
「え!!」
わたしは思わずコーイチと顔を見合わせたけど、慌てて目を逸らした。
「あたしたち、忙しいし、休日も合わないし、新婚旅行には行かないつもりだったんだけどさ、それも兼ねるから。一緒についてきてくれると嬉しい」
紗彩に、そんなことを言われて、なんとなく、断りづらくなってくる。
「何日も仕事を休まないといけないよね?」
「土日挟むし、前後2日休めば、行けるよ」
「あ、でも、お客さんからの予約とかも…」
なんとか、行かない方向にもって行こうとしてるのに。
「俺、あの石原って主任に電話してみようかなぁ」
コーイチが、独り言みたいに呟いた。
「ええっ!?だめだめ。理央さんに電話しちゃだめ!」
そうだ。コーイチの担当って、きっと理央さんだ。
コーイチから「俺と旅行に行くから休みを取らせてください」とか言われたら、恥ずかしくて会社に行けなくなる。
「じゃあ、自分で話すんだぞ」
いたずらっ子みたいな顔して、コーイチがわたしの顔を覗き込むから、もう何も言えなくなった。
「コーイチこそ、仕事忙しいし、行けないでしょ。わたし、紗彩と賢悟さんの邪魔するの嫌だよ」
「何とかなると思う。決算の時期も終わったし」
「え!?行くつもりなの!?」
「なんだよ、来てほしいのか来てほしくないのか、よくわからないやつだな」
コーイチが、わたしを見て笑ってる。
わたしだって、よくわからないんだもの。こんな微妙な関係で、コーイチも一緒に、旅行だなんて。
行きたいような、行きたくないような。
口をつぐんで、少し離れたところで、ひらひらと散っている桜の花びらを目で追う。薄暗いせいか、散って行く花弁は、白く見える。
早いんだな、1年って。去年のこのくらいのときだったはずだ。コーイチと初めて会ったのは。
「うわ、降ってきた」
賢悟さんがそう言うと、たしかにぽつりぽつりと、滴が空から落ちて来た。
「天気予報では降らないって言ってたのにね。ま、そういうわけだから、ふたりともちゃんと休暇取っといてよ。じゃあ、今日は帰ろっか」
紗彩はそう言いながら、手に持っていた缶ビールを傾けて、全部飲み干した。「うん」
賢悟さんが、嬉しそうに紗彩にくっつくから、見てるだけなのにちょっとドキドキした。
「なによ」
「今日は泊めてよ」
「調子に乗るな」
「え、だって僕、婚約者でしょ」
「…」
「泊めて。歯ブラシも持って来たから」
「用意周到!!」
おかしくて、こみあげてくる笑いを、なんとか噛み殺した。あの紗彩が、誰かのペースに巻き込まれてるなんて。
きっと、賢悟さんって、初めて会ったときから、紗彩の性格をかなり正確に把握してたんだろうなあ。
わたしの知らない紗彩を知っている賢悟さんに、ちょっぴり嫉妬も感じる。でも、生き生きした表情の紗彩を見ていると、嬉しいから、許す。
きっと、ふたりは、結婚しても、上手くいくんだろうなって思える。
「俺たちも、帰ろう」
気がつくと、すでに紗彩と賢悟さんはなにやら言い合いながら、歩き始めていた。ふと横を向くと、コーイチも立ち上がるところだった。
「うん」
雨が、ぽつぽつと、道路にも、公園の砂地にも、模様を作っていく。
桜の花が、散るだろうか。少し、桜並木の方を振り返って、そう思った後、コーイチと肩を並べて歩き出した。
「ミク、走れる?」
そう言われて、コーイチに頷いて見せる。
あっという間に雨が本降りになって、前を歩いていたふたりも、走っているから。
ここから紗彩の家までは近い。きっと、ふたりは、このまままっすぐ帰るんだろう。
「俺たちのことなんか、完全に忘れてるな、紗彩のやつ。友達なんだから、雨宿りくらいさせてくれてもいいのに」
シャッターを下ろした小さな金物屋さんの軒下に入ったとき、コーイチがそう言って呆れた顔をしていた。
「ふふ。なんだかんだ言っても、賢悟さんに夢中なんだよね」
本当にそうなんだと思う。あの紗彩が、5年もの間、片思いしてたんだから。
「あれ?コーイチって、誕生日いつだっけ。4月だって言ってなかった?」
ふと、思い出す。
そんな話をしたことがあった。桜が咲いている年もあるし、まだだったり、散ってたりする年もある時期だって、コーイチが言ってたはずだ。
すると、ふっと柔らかく表情を崩して、コーイチが答えた。
「今日」
「ええっ!?今日なの!?おめ、おめでとう!!えっと、31歳?」
「うん」って、心底嬉しそうに笑う。わたし、何のプレゼントも持ってないのに。おめでとうって言っただけなのに。雨で髪が濡れて、無邪気な表情とは裏腹に、コーイチが色気を漂わせてる気がして、ドキドキする。そんな自分には、気がつかなかったことにして、話すべき言葉を、頭の中で探す。
「ごめん。あげられるものが、何もないんだけど…」
「何も要らないけど、この前の電話で、なんで怒ってたか教えてよ」
……また、その話?
一気にげんなりした気分になった直後、コーイチがとんでもない一言を投げてくる。
「俺、ヤキモチ焼いた方がよかった?」
「は!?」
言われた言葉が、何度も頭の中で木霊のように響いている。
ヤキモチ焼いた方がよかったって、訊いてくるってことは…。わたしの抱いた感情の大部分を読まれてる、気がする。
いつの間にか、わたしの頬は上気して、なのに体は雨で冷えて指がふるふる震えていた。
「俺が、香山慎の気持ちをミクが受け入れるんだったら、うるさく言わないって言ったら、怒っただろ?」
確かに、その通り。
ぎゅっと両手のこぶしを握り締めて、震えを押さえようと躍起になっていると、コーイチがジャケットを脱いで、肩にかけてくれた。
寒いわけじゃないって言おうとしたけど、コーイチの体温が残るジャケットで、ずいぶん自分の体が冷えていたことに気がつかされた。
その直後、微かな煙草の匂いと、コーイチの香水の香りがして、頭がくらっとした。
な、なにやってるんだ、わたし。しっかりしなくては。
「黙秘かよ」
黙り込んでしまったわたしに、気を悪くした様子もなく、コーイチが少し笑みを浮かべる。
「俺、そのあたりの感情擦り切れてるんじゃないかなぁ」
そう言う彼の表情は、穏やかだ。
「前の彼氏と別れて、弱ってるミクを見てる間に」
表情とは違って、声音は痛々しい気がする。
「とにかく羨ましかったな、あんなにミクに一途に思われてるっていうのが。だから、今も、単純に羨ましい、香山って奴が。どんな状況にしても、ミクを抱き締めたなんて」
―――それって、ヤキモチっていうんじゃないの?
心の中だけで、そう呟いてみると、ようやく気持ちが落ち着いた。
わたしと香山くんがどうにかなったとしても、コーイチが平気ってわけじゃないんだってわかったら。
単純。わたしって。コーイチのこと言えない。
「だからさ。ちょっとだけ、抱き締めさせて」
「はあ?」
きょとんとして見上げると、予想外にコーイチが真っ赤な顔をしていて、びっくりした。こんなことは、珍しい。
いつもこちらがドキッとするような発言をするくせに、本人はいたって落ち着いた様子だったり、無邪気な顔をしてたりするから。
「それが誕生日プレゼントでいいから!」
31歳なのに?大人って言われる歳になって、10年以上も経ってるのに?
子どものわがままみたいなことを言って。頬だけじゃなくて、耳まで真っ赤に染めて。
…もうだめだぁ、わたし。
胸がきゅんきゅんする。
「わかった」
一瞬、びっくりして目を見開いたコーイチを、見なかったことにして、そっと一歩近づいた。
「お誕生日、おめでとう、コーイチ」
そう言って、おそるおそる、わたしは、自分の両手を彼の背中まで伸ばしてみる。
うわあ……。
いい匂いに加えて、コーイチの胸から伝わってくる温かい体温で、意識がぼんやりしてきた。
「あり、がと」
かすれた声で、珍しく言葉を詰まらせて、ようやくコーイチがそうっと、わたしの背中に腕を回す。
ひゃあああ。どっきんどっきんって心臓が暴れてる。背中に触れているコーイチの手にも、伝わりそうなくらい。
「夢見てんのかな、俺」
「大げさ、だよ」
「毎日、誕生日ならいいのに」
「子ども、みたいだね」
こんなに近くにいながら、上手く自分の気持ちが伝えられなくて、もどかしい。
わたしがこんなことをしたのは、誕生日プレゼントの代わり、ってはずはないから。ただの男友達に、こんなことできないはずだから。
どうにかなりそうなくらい、ドキドキしてるくせに、妙に気持ちが落ち着く。それが、何よりもわかりやすい答えに違いないのに。
気がついた今でも、まだ、素直になれない。