結婚したいから!
目が覚めたら、すでに昼だった。


カーテンの隙間から、強い日差しが一直線に差し込んでいるのを見て、しばらく呆然としていた。

部屋の中を見回したけれど、どこにも紗彩の姿がなくて、さらに焦った。


慌てて廊下に出ようとドアを開けると、何か紙を踏んだ。

拾い上げた紙切れには、「目が覚めたら507号室においで」と書かれていて、まだあまり働かない頭のままで、廊下に出て507号室を探すと、すぐ隣にあった。

呼び鈴を鳴らすと、なぜかコーイチが出て、わたしの姿を見るなり噴き出した。


「ときどきだけど、びっくりするくらい、よく眠るよな」


あ。


あっという間に頬が熱くなる。

わたしは、握りしめていた紙切れを、もう一度読み返す。そこでようやく、それが紗彩の字じゃないってことに気がついた。

コーイチが、書いたんだ。さらさらして、癖のない、読みやすい字。コーイチの字も、まともに見たのって、初めてかもしれない。

そのことにもちょっとドキドキするのに。

びっくりするくらいよく眠るって、今のことだけど、ついでに、…たぶん、コーイチとお見合いした後、初めて晩ご飯を食べた日のことを言ってるんじゃないかって、思う。


あのときは、翌朝、コーイチがアパートまで来て、寝起きのままドアを開けてしまったんだった。

今日のわたしときたら、そのときから全く成長してない。いや、もっとひどいかも。自分からわざわざ寝ぼけ顔で、外に出て来るんだもん。


ああ、恥ずかしい。


「さ、紗彩は」


なんとか、出てくるのは、頼れそうな親友の名前だけ。

「せめて昼間だけでも、新婚旅行の気分を味わいたいって言って、賢悟さんが拉致してたけど」

「ええっ」

し、しそうだ、拉致。賢悟さんは、紗彩との接点が少なくて、かなり不満そうだったから。


「ミクは、まだ眠い?」

そう優しい声で問いかけるコーイチは、ちっとも意地悪な顔じゃない。だから、素直に首を横に振った。

「じゃあ、せっかくだから、海まで行こう」


そんな優しい声で、にっこり笑顔で言われたら、わたしは海に行くしかなくなった。
ビーチに着いたバスを降りる時、コーイチとはぐれてしまった。

座席の間の通路で、人に押し出されるように、コーイチは先に降りてしまったけど、外で待っててくれるだろう。

通路で並んでいると、前に立っていた地元の人らしい、男の人が、話しかけてきた。

英語かぁ、ところどころしかわからない。

うーん、どこから来たのかって訊いてるのかな。ええっと?一緒に泳ごうって言ったような気もするけど、…ん、ひょっとしたら、まさかの、ナンパかなぁ。海外では日本の女の子が無条件にモテるって、友達から聞いたことがある。

あ、誰と来たのかって訊いてる。ああ、そうか。そうだ、ええっと。

「my husband!」

面倒だったので、思いついた単語を言って、ステップの上から見えたコーイチに手を振ってみる。首をかしげながらも、手を振り返してくれて、ほっとした。

前を降りていた、その男の人も、その様子を見て、「旅行、楽しんでね」っていう風なことを言って、握手してくれた。

お、どうやら、うまく乗り切れたらしいぞ、わたし。ほとんどしゃべってないけど。
「どこからきたんですかぁ?」

バスから降りると、甘ったるい声の日本語が聞こえてきた。ふと顔を上げると、その声の主は、明らかにコーイチに話しかけていた。

「日本から」

「それはわかってますから」

って、大笑いしてるまわりの友達。男の子も女の子もいる。学生さんかな。

「かっこいい~」

って、なぜか、最初に話しかけた子だけは目をハートにしてる。…コーイチ、眼鏡かけて武装してるのに。綺麗な目を隠してるのに。

「よかったら、こいつの相手してやってもらえません?失恋してへこんでるんで」

隣にいた男の子が、そう言うと、彼女は真っ赤になった。


「悪いけど、妻と旅行中だから」


つ、妻?

そう言って、わたしの方を初めて見る、コーイチ。人だかりに、少し隙間ができて、長い腕が伸びてくると、わたしの手を絡め取った。
うわ、心臓がドキドキする。指が震えてないだろうか。


落ちつけ、ただの演技だ、演技。夫婦の、ふり。

「すみませんでしたぁ」

さっき話していた男の子がわたしにぺこっと頭を下げるけど、隣にいる女の子は、まだ少し残念そう。よっぽどコーイチを気に入ってたのかな。

「い、いえ」

なんて言えばいいんだ!どうしろっていうんだ!心の中でだけ、コーイチに叫ぶ。

彼らが皆、ビーチへ泳ぎに行ってしまってから、ようやくコーイチの顔を見上げると、にこにこしてるから、ドキッとした。楽しそうで、子どもみたいで。


「ほんとに新婚旅行みたいじゃない?」


「ば、バカだね、コーイチは」

何考えてるんだろう!仲間ぐるみでナンパされかけてたくせに!
「せっかく家柄や財産目当てじゃない女の子が見つかったのに、断ってよかったの?…っていうか、わたしを理由に使わないでよ」

妻ってなによ、って思い出して、文句を言うのに、コーイチはまだ笑ってる。

ん?でも今はニヤニヤ笑い。

「ミクの方が先だろ」

「はあ?」

「ナンパ男に、俺のこと夫だって言ってたしな」

「き、聞こえてたの!?」

「あ、あれは、ごまかすため!それに「彼氏」って単語も分からなかったから!」って慌てて言うのに、「はいはい」とか言って全然取り合ってくれない。
「彼氏でも旦那でもいいや。声掛けられると面倒だしな、お互い」

そう言って、きゅっと、繋いだままだった手に力を入れられると、何も言い返せなくなった。

恋人つなぎ、だ。

自動的に、心臓がどきどきしてしまう、とっても体に悪い、繋ぎ方だ。


「ふりでも、俺は、楽しい」


って言って、屈託なく笑う。わたしとは、こうも違うんだなぁ、って新鮮に思った。

さっきは短時間限定で、仕方なくそんなふりをしたけど。

そうじゃなかったら、祥くんのことを思い出してしまうから、恋人や夫婦のふりなんて、もう絶対したくないって思う。

それなのに、コーイチは、恋人のふりだけでも、楽しんじゃうのか、って。

それと同時に、まだまだどんどんコーイチに惹かれていく自分を、はっきりと自覚する。

硬くなっている心を、コーイチの明るさが無邪気さが、軟らかくしていくみたいに。

温かくて、大きな手が、わたしの心まで、包み込んでいるみたいに。ずっとこの人といられたら、楽しいだろうな…。

ぼんやりと考えながら、借りたロッカーの前で、水着に着替える。

…この姿、コーイチに見られるって、かなり恥ずかしいな。ふとそう思って、羽織ったロングパーカーの前のジッパーをしっかり閉めた。

海なんて、近付くつもりもなかったのに。窓の向こうでキラキラ光る水面に、そう思う。

日に焼けるし、体が濡れるし、メイクは落ちるし、疲れるし。去年の6月に、短大時代からの友達と来たときだって、おしゃべりするばかりで、海で遊んだりしなかった。

あのときだって、友達はマリンスポーツも楽しむつもりだったのに、わたしが嫌がったんだった。

なのに、今日のわたしときたら、文句ひとつ言わず、ここまで来てしまっている。

我ながら、単純だって思う。コーイチに誘われたら、海にだって来れてしまう。

どこにいても、楽しいんじゃないかって、思えてしまう。
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