結婚したいから!
「も、無理!これ以上進めない!」
今更だけど、今更だけど!!やっぱり無理だった!
海の中で、叫んだわたしを振り返って、コーイチが不思議そうな顔をしてる。
「まさか…、泳げないくせに、グアムまでついてきたのか?来るのも2回目だって威張ってなかった?」
う。おっしゃる通りです。
もうつま先立ちでぴょんぴょんしながら、海面からなんとか顔を出しているしかないわたし。母親は水泳部だったっていうのに、どうして全然泳げないのかな。
「だ、だって、紗彩は、わたしがかなづちだってことも、知ってるし。一緒にどこかで待っててくれると思ってたんだもん…」実際には、こうして、放置されてるけどね!旦那様の魅力の前では、親友と過ごす時間なんて、軽いものらしいけどね!
どこに拉致されたのか、海まで来たって、紗彩と賢悟さんの姿は見つからないままだ。
「バカ。早く言えよ」
まだ余裕で底に足がつくらしいコーイチが、たやすく水をかきわけながら戻って来て、ほっとした。手を握って、引っ張ってくれる。
「どうする?浜辺に戻るか?それとも、もっと沖まで行ってみたい?」
そういう選択肢もあったのか、って驚く。
「その様子じゃ、海に入ったのも貴重な体験だろ?」
コーイチが、ちょっと笑って、わたしの答えを待っている。
「うん。もう少し沖まで行ってみたい。連れて行って」
つかまってろって言われて、コーイチの首に腕をまわしているけど、ドキドキしてしょうがない。
ときどき、香水なのか、髪の毛の匂いなのか、柑橘系のいい香りが漂ってきて、気が遠くなってくる。
ああ、どうなってるんだ、わたしの循環器!いつも通りの仕事をして!って念じてるけど、どうにもならない。
でも、不思議と、海は怖くない。もう足は底に全然届かないし、波が顔までかかることもあるのに、怖くない。
「すごいなぁ…。わたしが、海の中にいるなんて」
思わず呟く。コーイチと一緒じゃなかったら、こんなこと、一生経験できなかったんじゃないかって思う。
「おもしろい?」コーイチがそう訊くから、「うん」って答えて、コーイチの顔を見たときに、ようやく気がついた。
「ええっ?コーイチ、まだ眼鏡かけてるの?海の真ん中でも?」
近くには誰もいないのに。いや、その前に、海水に濡れちゃうのに。おかしくなって、くすくす笑ってしまう。
「さすがに、いらなかったな」
って、コーイチが自分でも笑いながら、濡れた手で眼鏡を外してる。
今更外したって、どこにも置くところなんかないのに。
どうするんだろうって思いながら見守ってると、「ポケットに入れてみよう」って言いながら、本当に海面の下の自分の海パンのポケットに何とか押し込もうとしている様子だから、笑える。
そして、ふと、チャンスだって、思う。
何のって。その。うん。
腕に少しだけ力を込めてみたら、予想以上にいい条件。
相変わらず、コーイチの両手は海面の下で。
すぐにいい距離になって。
そのままいい角度で。
ちゅっ、て。
…あ、ほんとにしちゃった、わたし。コーイチに、キス。
眼鏡越しじゃない、コーイチの綺麗な目が見開かれてるから、これが妄想ではなくて現実だってことが、よくわかる。何より、自分の唇に残る優しい感触が、証拠だ。
「好きになっちゃった、やっぱり」
心臓の音はドキドキどころか、ドッカンドッカンって感じで、あっという間に激しくなってしまった。
もうちょっと、気のきいた台詞とか、言えないんだろうかって、自分でも思うけど。今のわたしの気持ちって、まさにそんな感じだった。
「あっ、ご、ごめんね、今更」
ぽかんとして、綺麗な目を見開いているコーイチに、慌てて言う。かなり唐突な行動に、唐突な発言だった、はずだ。
恥ずかしくて取り消したくなったけど、当然取り消せるはずもない。
それに、コーイチにキスしたくなったことも、コーイチを好きになったことも、全部、本当のこと。
紗彩とコーイチが、結婚の話が実現するのは春頃だって話してたことを、わたしはちゃんと憶えていたはずなのに。この頃、社長令嬢の話を聞いてないけれど、もう話がまとまっているのかもしれないのに。
そんなことすら、きれいさっぱり、忘れてしまってた。
さっきは、頭の中が真っ白で、今ならコーイチにキスできそうだなってことしか考えてなかった。
わたしって、なんか不純?意外に肉食系?万事行き当たりばったりなお母さんのことも考えなしって、言えなくなりそう…。
「ひゃあ!」
突然、ぎゅうっと抱きしめられて、へんな悲鳴が出た。ただでさえ心臓バクバクなのに、刺激が強すぎる!
なんで、男の人は、上半身裸で泳ぐんだろうね!?熱くて硬くて、自分のものとは全然違う、その腕の中の感触に、くらくらしてしまう。
「今更じゃない。俺、いつまででも待つつもりだったから。すげー嬉しい」
耳元でそう囁いて、そのまま耳にキスするから、頭の中に「ちゅっ!!」って音が響き渡ってる。
あ、駄目。
やっぱり、この人は危険だ。
もう頭がおかしくなりそう。
それにしても、いつまででも待つって、どこかで聞いた台詞だ。わたしは実行できなかったのに、コーイチは待ち続けていてくれたのかな。
「俺、もうミクにキスしてもいいんだ」
「え、それが嬉しいの!?」
せ、せっかく勇気を出して「好き」って、言ったのに!?コーイチは一体、今どんな顔してるんだろうって、体を離して見てみる。
「そっちも。全部!ミク、結婚しような」
って、にこにこして見つめてくるから、性懲りもなくわたしはドキドキするけど。
「コーイチ、日本の法律では、重婚は認められてないんだよ?」
そう諭してはみたものの、不倫って関係もどうかと思うし…、と考え込んでいたら、「バカ」って言われた。
「令嬢とは結婚しない。好きな女がいるからって断った」
……断っ、た……?
「え!!」
大事な縁談、だったはずだ。コーイチだって、その利点を考えれば無下に反故にできないくらいに。
「だから、責任とって結婚しろよな、ミク」
やっぱり、何にも考えてないみたいな顔して、笑ってるけど。
「ごめん…ごめん、コーイチ」
会社にとって、不利なことがたくさんあるんじゃないだろうか。さらには、コーイチが面倒な立場に立たされてる可能性だって、あるのに。
「ほんとに責任感じるてのか?冗談だって。気にすんな。俺の意思だから」
コーイチは、心底、そんなことはどうでもいいって顔をして、
「それより、返事は?」
そう言うと、いたずらな目をキラキラさせながら、わたしの腰をぎゅっと抱く。
「え?」
その仕草だけで、なんの話をしていたのか忘れてしまうくらい、心臓がドキドキ言う音が大きくなって、頭の中まで響いてくる。
「ミクのことが好きだ。だから、結婚しよう」
何回でも、言ってくれるんだね。でも、こうして返事を求められることは、初めてだってことにも、今、気がついた。返事を聞かずに、わたしが考える時間を、たくさんくれたんだろうな。
「結婚、する。わたしも、コーイチが好きだから」
言い終わるかどうかっていうタイミングで、ちゅっと唇を吸われた。
「これ、俺の妄想じゃないだろうな」
どこか不安げな目になって、わたしの目を見つめてくるから、再びドキドキの音が大きくなってしまう。うわ、耳の奥まで鼓動が響いてる。
眼鏡越しじゃないコーイチの目は、確かに感情が読み取りやすい。
一般的には、つき合ってもいないのに、結婚の話をするなんて、変だと思うのに。彼氏でもない人のプロポーズを、受け入れたわたし。
嬉しそうに目を輝かせてるコーイチを見ると、まあ、いっかって思えてくるから不思議だ。
「もう、俺がミクの傍にいなくなるんじゃないかって、心配はなくなった?」
コーイチが、ふいに静かな瞳に戻って、真剣な声音で問いかけた。
「えっと…。たとえ、将来、離れることになったとしても、今、一緒にいたくなった」
自分の心の中の変化を拾って、たどたどしく、言葉にしてみる。
コーイチは、もう一度、わたしをぎゅっと抱きしめて「よかった。嬉しい。離れないけど」って呟いた。
きっと、わたしのことをずっと心配してくれていて、漠然とした不安が消えるのを、待ち続けていたんだろう。
胸まで、きゅっと締め付けられるみたいに、感じた。
「わっ」
突然、波を頭からかぶってもがくと、コーイチが笑いながら海面に抱きあげてくれる。
「ごめん。かなり深いとこまで来てた」
「ええっ!?コーイチも、足がつかない?」
「ぎりぎりつくかな。…でも、ちょうどいい高さ」
何が、っていう言葉が出てくる前に、それが何を指していたのかってことが、わかる。目を伏せながら、コーイチがわたしの頬にキスしたから。
海の深さが怖いやら、ドキドキするやらで、いつの間にか遠慮もなく、彼の首にぎゅっとしがみついていたらしい。
そのせいで、いつもはふたりの間にあった身長差も、距離も、さっきよりもさらになくなって、確かに、キスするのにちょうどいい。
なんか、余計に恥ずかしい…、顔が近くて。下から見上げる機会は多いけど、まっすぐ向い合せになると、その引力の強い目から、視線を逸らしにくくて。
眼鏡をかけていない、コーイチの顔を、もう少し見つめていたいとも思うのに。どうしたらいいかわからず、わずかに俯いた。
「ほっぺだと、物足りない?」
そう意地悪く言って、くすっとコーイチが笑う気配。
わたしが口を開いて何か言おうとすると、すぐに、軟らかい唇の感触を、感じた。しょっぱい、海の味がする。
優しく、何度も触れてくるその、角度を、温度を、湿度を、わたしの唇の皮膚が思い出していく。
忘れたふりをしていた記憶も、ありありと蘇って来て、ああ、コーイチのキスって、こういう風だった、って思う。
唇の感触を楽しむみたいに、わたしの反応が嬉しいみたいに、毎回丁寧に口づける。
あのときは、自棄になっていたらしいコーイチが、無理矢理押さえこんでいた私の腕が、今は自由なのに、彼の首に絡んでいる。それに気が付くと、ますます顔が赤くなってくる気がする。
ほら、やっぱり危ない人だったんだって、思う。
だって、中毒性が高いもん。コーイチのキス。
コーイチが、少し離れて、くすくす笑う。うっとりと眼を閉じて、ぼんやりと唇を開いて、すっかり腑抜け顔のわたしを見て。
「ミク、かわいい。まさか、まだ満足したわけじゃないだろ?」
そう言うと、今度はしっかりと唇を合わせて、わたしの舌を探しに来る。すっかり脱力しているわたしは、されるがまま、コーイチの舌の感触を、動きを、体の芯で感じているだけ。
「ん、…うぅ」
次第に呼吸が乱れてくるのに、恥ずかしいって気持ちは、いつの間にか、海に溶けて消えた。
だって、ずっと、こうしていたいから。
夢中でキスしていたら、するっと自分の腕が解けて、海に落ちそうになった。
はっとしたコーイチが、腰と背中にまわしていた腕で支えてくれたけど、まだわたしの意識は朦朧としていた。
「気持ちいい」
同じ台詞が、同時に口をついて出た。コーイチの台詞には、かすかに疑問符がついてたけど、わたしのには、全くない。
溺れたわけでもないのに、呼吸の間隔が短くて、動悸がする。
「もっと」
「え?」
「もっとして」
勝手にこぼれていくわたしの言葉を受け入れて、コーイチが長めの前髪の向こうで、綺麗な目を伏せると、それだけでわたしは脳が芯から蕩けていくみたい。
どれくらいの時間、わたしたちは唇を合わせていたんだろう。
「もう、俺、限界」
「ん…」
唐突に離れて、息を吐きながら、そう言ったコーイチの顔を見る余裕もない。首に力が入らなくて、そのまま彼の肩に顎を乗せた。
「何が、限界?」
唇が腫れそう?海水で体がふやけそう?いよいよ足がつかなくなった?
まだ、全身に甘い痺れが残っていて、うっとりした頭のままで何とか言葉を絞り出す。このままゆらゆらと、体が波に漂って行ってしまいそうだ。
「今すぐ抱きたくなってきた」
耳元で、囁き声が響いて、背筋がぞくぞくした。そそそそそういう意味かぁ。
「ご、ごめんね。へ、変なことばかり言って」
もっと、って何回も言った気がする。いや、間違いなく言った。
はあ、ってまだ甘さの残るため息をついているコーイチ。
「俺ももっとしたかったし。ところで、なんでミクは海の中でもパーカー着てんの?」
「え?あ、水着着てるのが恥ずかしくて」
「白いパーカーの下に、黒い水着が透けるって、逆に恥ずかしいと思うけど。なんか、エロい」
「ちょ、変なこと言わないで!海から出にくくなった!」
「ちょうどいい、俺も今は出にくいし」
「…えっと……?」
「変な意味だよ」
「バカ!コーイチのバカ。正直過ぎる!」
もう、コーイチがいなくなるんじゃないかって、怖い気持ちなんか、どうでもよくなるくらい、彼のことを好きになってしまったんだと思う。以前の彼の言葉を借りるなら。
こんな感情を、わたしがもう一度抱くことができるようになるなんて。
コーイチは、上辺の顔だけは涼しげでさっぱり小奇麗にしてるけど、カッコ悪いところもいっぱいあるのに。その欠点さえ、わたしを惹きつけるみたいだ。
ずっと、ずっと、一緒にいたい。
コーイチの前でなら、わたしらしいわたしでいられる。
必要以上に、緊張することもなく。素直なふりして、嫌われないように気を遣うこともなく。言いたいことが言えて、訊きたいことが訊ける。
初めてこの人と結婚したいって思った、玲音さん。結婚したら、こんなふうになるんだろうな、って幸せを教えてくれた祥くん。ずっと一緒にいたくなって、結婚しようと思ったコーイチ。
結婚は、コーイチと、ずうっと一緒にいるための、手段。
いつでも、寂しい気持ちを埋めるために、結婚相手を探してきたわたしがたどり着いたのは、そういう結論。
ビーチから帰るバスに乗り、昨日から宿泊してるホテルに向かう。
コーイチと恋人繋ぎしてる、まだ慣れない指先を、強く意識しながら。
「俺、紗彩と部屋替わってもらおうかな」
真剣に悩んでいる顔で、コーイチがそう呟く。
「な、何考えてるの」
「何って、セック」
「うわあああ!」
あれだけキスをせがんで煽っておいて、なんだけど!はっきり口に出さないでほしい!
「ちょ、ちょっと待って。わたしは、もう少しゆっくり、恋人らしくなりたい」
「そっか。俺たち、まだ付き合ってもないんだっけ。先にプロポーズしちゃったな」
コーイチが、今頃気がついたようで、笑いだす。「早く結婚しないとだめだって、社長さんに言われてたんだもんね」
確か、会社を継ぐための条件だって、聞いた気がする。
「いや、実は、もう会社は継いだ。前社長も、俺の結婚は諦めるって言ってたんだ」
「……」
あ、れ?
「家に彼女も連れてこないし、お見合いしてもまとまらないし、過去の慣例は無視するって。もう疲れたから、とにかく早く引退したいんだってさ」
え、っと?
「意味が、わからない」
何とか、それだけを声にしたけれど。コーイチも「意味がわからない」って顔になっただけだ。
「結婚を急いでたんじゃないってこと?じゃあなんで、あんなに結婚結婚って焦ってたの?」
そう、なんか変だよ、コーイチ。
「焦ってないって、何度も言っただろ」
そりゃあ、焦ってないって口では言ってたけど。あんなに結婚って連呼してたのに。
「俺は、ミクと早く結婚したかったから。ただそれだけ」
そう言われたら、わたしだって、もう直ちにコーイチと結婚するしかないって強く思う。我ながら、単純だけど、単純なままでいいや、ってさえ思う。
「やっぱり、わたし、賢悟さんに部屋を替わってもらう」
「…俺、鼻血出てない?」
「今のところは」
ぬるい空気の中、宿泊先に帰るわたしたちの手は、恋人繋ぎでくっついている。
この状態でも、心臓がドキドキしてるのに、同じ部屋に帰ることになったら、わたし、呼吸困難でも起こしちゃうんじゃないだろうか。景色がやけにキラキラと綺麗に見える。
「俺、早く、ミクと同じ家に帰れるようになりたい。こんなふうに」
ぼんやりと、前を見たまま呟くコーイチを見上げる。心の中の願望が漏れて来た、って感じが微笑ましくて、つい繋いだ手に力が入ってしまった。
それに気がついて、コーイチが澄んだ目をこちらに向けると、それこそわたしの口が勝手に動いた。
「わたしのアパートで一緒に暮らす?」
ああ!何を口走ってるんだろう、わたし!!
「お前、変わってるな。普通、俺の家に住みたいって言うと思うんだけど」
コーイチが、笑いながらそう言ったから、あっという間に頭の中が冷えて冷静になった。
「そんなふうに、誰かに言われたことがあるんだ?」
前に彼の話に出て来た、大学時代の彼女のことだろうか。
「あ、え、」
「ふーん、あるんだ」
「えっと、ミク?」
コーイチは、上手く誤魔化す、ってことができないんだな。どうやって、今まで人付き合いをしてきたんだろうって、心配になるくらいだ。
「…ヤキモチ焼いただけだから!」
困ってるコーイチを見かねて、自分からそんな台詞を言う羽目になる。恥ずかしいなあ、かなり。
コーイチだって、そんな簡単なこと、気がついてもいいはずなのに、どうして自分の失言におたおたしてるだけなんだろう。
「じゃあ、俺、ほんとに、ミクのアパートに行ってもいいの?」
コーイチが、あっという間に嬉しそうな顔になって、わたしの目を覗き込んでくるから、わたしまで笑ってしまう。
「ふふ。ほんとに来るの?」
「うん。行く」
「コーイチの方が、よっぽど変わってる。うち、狭いけど、いいの?」
「ミクがいるところなら、狭い方がいい」
そう言って、にこにこするから、胸がきゅんきゅんする。
「そんなかわいいこと言うなら、すぐ来てね」
「すぐ行っていいの?」
「うん。すぐ来ないとだめ」
「じゃあ、すぐ行く」
あんな狭いアパートで、どうやってふたりで暮らそうか。
それを考えているだけで、わたしの胸は膨らんでいく。コーイチもそうだといいな。
お母さん。
わたし、初めて結婚しようって言ってくれた人と、結婚することにした。
最初に結婚したいって言われたときには、こんな人だってことは知らなかったけど。知れば知るほど、好きになって。
お互いの抱えてた、恋愛の古傷も、癒えて。本来の自分らしい振る舞いが、できるようになって。
そう言えば、お母さんは「お互いが、相手のことを好きなら、大丈夫。他のことは、何も考えなくていいの」って、言ってくれたよね。
結局、いつの間にか、自然に、何も考えられなくなっちゃった。ただただ、彼のことが好きになって行くばかりで。
ずっとずっと、一緒にいたい、と思った。
その気持ちが強いからか、ずっと一緒にいられるような気が、するんだ。今は。
今度、お母さんも、彼に会ってくれるといいな。
そう言えば、お父さんは、何て言うだろう?コーイチと結婚するって言ったら。まず、会社でお客さんだったってこと、憶えてるかな?
…予測が、つかない。お母さんのいるところで話した方がいいかもしれない。
両親のことを思い出しながらも、コーイチの手の温度を、肌触りを、感じながら、ゆっくりと歩く。
こうして、わたしの手を大切そうに取ってくれる彼となら、いつまでもこうして一緒にいられるんじゃないかっていう、確かな希望を、初めて、胸に抱きながら。
完
今更だけど、今更だけど!!やっぱり無理だった!
海の中で、叫んだわたしを振り返って、コーイチが不思議そうな顔をしてる。
「まさか…、泳げないくせに、グアムまでついてきたのか?来るのも2回目だって威張ってなかった?」
う。おっしゃる通りです。
もうつま先立ちでぴょんぴょんしながら、海面からなんとか顔を出しているしかないわたし。母親は水泳部だったっていうのに、どうして全然泳げないのかな。
「だ、だって、紗彩は、わたしがかなづちだってことも、知ってるし。一緒にどこかで待っててくれると思ってたんだもん…」実際には、こうして、放置されてるけどね!旦那様の魅力の前では、親友と過ごす時間なんて、軽いものらしいけどね!
どこに拉致されたのか、海まで来たって、紗彩と賢悟さんの姿は見つからないままだ。
「バカ。早く言えよ」
まだ余裕で底に足がつくらしいコーイチが、たやすく水をかきわけながら戻って来て、ほっとした。手を握って、引っ張ってくれる。
「どうする?浜辺に戻るか?それとも、もっと沖まで行ってみたい?」
そういう選択肢もあったのか、って驚く。
「その様子じゃ、海に入ったのも貴重な体験だろ?」
コーイチが、ちょっと笑って、わたしの答えを待っている。
「うん。もう少し沖まで行ってみたい。連れて行って」
つかまってろって言われて、コーイチの首に腕をまわしているけど、ドキドキしてしょうがない。
ときどき、香水なのか、髪の毛の匂いなのか、柑橘系のいい香りが漂ってきて、気が遠くなってくる。
ああ、どうなってるんだ、わたしの循環器!いつも通りの仕事をして!って念じてるけど、どうにもならない。
でも、不思議と、海は怖くない。もう足は底に全然届かないし、波が顔までかかることもあるのに、怖くない。
「すごいなぁ…。わたしが、海の中にいるなんて」
思わず呟く。コーイチと一緒じゃなかったら、こんなこと、一生経験できなかったんじゃないかって思う。
「おもしろい?」コーイチがそう訊くから、「うん」って答えて、コーイチの顔を見たときに、ようやく気がついた。
「ええっ?コーイチ、まだ眼鏡かけてるの?海の真ん中でも?」
近くには誰もいないのに。いや、その前に、海水に濡れちゃうのに。おかしくなって、くすくす笑ってしまう。
「さすがに、いらなかったな」
って、コーイチが自分でも笑いながら、濡れた手で眼鏡を外してる。
今更外したって、どこにも置くところなんかないのに。
どうするんだろうって思いながら見守ってると、「ポケットに入れてみよう」って言いながら、本当に海面の下の自分の海パンのポケットに何とか押し込もうとしている様子だから、笑える。
そして、ふと、チャンスだって、思う。
何のって。その。うん。
腕に少しだけ力を込めてみたら、予想以上にいい条件。
相変わらず、コーイチの両手は海面の下で。
すぐにいい距離になって。
そのままいい角度で。
ちゅっ、て。
…あ、ほんとにしちゃった、わたし。コーイチに、キス。
眼鏡越しじゃない、コーイチの綺麗な目が見開かれてるから、これが妄想ではなくて現実だってことが、よくわかる。何より、自分の唇に残る優しい感触が、証拠だ。
「好きになっちゃった、やっぱり」
心臓の音はドキドキどころか、ドッカンドッカンって感じで、あっという間に激しくなってしまった。
もうちょっと、気のきいた台詞とか、言えないんだろうかって、自分でも思うけど。今のわたしの気持ちって、まさにそんな感じだった。
「あっ、ご、ごめんね、今更」
ぽかんとして、綺麗な目を見開いているコーイチに、慌てて言う。かなり唐突な行動に、唐突な発言だった、はずだ。
恥ずかしくて取り消したくなったけど、当然取り消せるはずもない。
それに、コーイチにキスしたくなったことも、コーイチを好きになったことも、全部、本当のこと。
紗彩とコーイチが、結婚の話が実現するのは春頃だって話してたことを、わたしはちゃんと憶えていたはずなのに。この頃、社長令嬢の話を聞いてないけれど、もう話がまとまっているのかもしれないのに。
そんなことすら、きれいさっぱり、忘れてしまってた。
さっきは、頭の中が真っ白で、今ならコーイチにキスできそうだなってことしか考えてなかった。
わたしって、なんか不純?意外に肉食系?万事行き当たりばったりなお母さんのことも考えなしって、言えなくなりそう…。
「ひゃあ!」
突然、ぎゅうっと抱きしめられて、へんな悲鳴が出た。ただでさえ心臓バクバクなのに、刺激が強すぎる!
なんで、男の人は、上半身裸で泳ぐんだろうね!?熱くて硬くて、自分のものとは全然違う、その腕の中の感触に、くらくらしてしまう。
「今更じゃない。俺、いつまででも待つつもりだったから。すげー嬉しい」
耳元でそう囁いて、そのまま耳にキスするから、頭の中に「ちゅっ!!」って音が響き渡ってる。
あ、駄目。
やっぱり、この人は危険だ。
もう頭がおかしくなりそう。
それにしても、いつまででも待つって、どこかで聞いた台詞だ。わたしは実行できなかったのに、コーイチは待ち続けていてくれたのかな。
「俺、もうミクにキスしてもいいんだ」
「え、それが嬉しいの!?」
せ、せっかく勇気を出して「好き」って、言ったのに!?コーイチは一体、今どんな顔してるんだろうって、体を離して見てみる。
「そっちも。全部!ミク、結婚しような」
って、にこにこして見つめてくるから、性懲りもなくわたしはドキドキするけど。
「コーイチ、日本の法律では、重婚は認められてないんだよ?」
そう諭してはみたものの、不倫って関係もどうかと思うし…、と考え込んでいたら、「バカ」って言われた。
「令嬢とは結婚しない。好きな女がいるからって断った」
……断っ、た……?
「え!!」
大事な縁談、だったはずだ。コーイチだって、その利点を考えれば無下に反故にできないくらいに。
「だから、責任とって結婚しろよな、ミク」
やっぱり、何にも考えてないみたいな顔して、笑ってるけど。
「ごめん…ごめん、コーイチ」
会社にとって、不利なことがたくさんあるんじゃないだろうか。さらには、コーイチが面倒な立場に立たされてる可能性だって、あるのに。
「ほんとに責任感じるてのか?冗談だって。気にすんな。俺の意思だから」
コーイチは、心底、そんなことはどうでもいいって顔をして、
「それより、返事は?」
そう言うと、いたずらな目をキラキラさせながら、わたしの腰をぎゅっと抱く。
「え?」
その仕草だけで、なんの話をしていたのか忘れてしまうくらい、心臓がドキドキ言う音が大きくなって、頭の中まで響いてくる。
「ミクのことが好きだ。だから、結婚しよう」
何回でも、言ってくれるんだね。でも、こうして返事を求められることは、初めてだってことにも、今、気がついた。返事を聞かずに、わたしが考える時間を、たくさんくれたんだろうな。
「結婚、する。わたしも、コーイチが好きだから」
言い終わるかどうかっていうタイミングで、ちゅっと唇を吸われた。
「これ、俺の妄想じゃないだろうな」
どこか不安げな目になって、わたしの目を見つめてくるから、再びドキドキの音が大きくなってしまう。うわ、耳の奥まで鼓動が響いてる。
眼鏡越しじゃないコーイチの目は、確かに感情が読み取りやすい。
一般的には、つき合ってもいないのに、結婚の話をするなんて、変だと思うのに。彼氏でもない人のプロポーズを、受け入れたわたし。
嬉しそうに目を輝かせてるコーイチを見ると、まあ、いっかって思えてくるから不思議だ。
「もう、俺がミクの傍にいなくなるんじゃないかって、心配はなくなった?」
コーイチが、ふいに静かな瞳に戻って、真剣な声音で問いかけた。
「えっと…。たとえ、将来、離れることになったとしても、今、一緒にいたくなった」
自分の心の中の変化を拾って、たどたどしく、言葉にしてみる。
コーイチは、もう一度、わたしをぎゅっと抱きしめて「よかった。嬉しい。離れないけど」って呟いた。
きっと、わたしのことをずっと心配してくれていて、漠然とした不安が消えるのを、待ち続けていたんだろう。
胸まで、きゅっと締め付けられるみたいに、感じた。
「わっ」
突然、波を頭からかぶってもがくと、コーイチが笑いながら海面に抱きあげてくれる。
「ごめん。かなり深いとこまで来てた」
「ええっ!?コーイチも、足がつかない?」
「ぎりぎりつくかな。…でも、ちょうどいい高さ」
何が、っていう言葉が出てくる前に、それが何を指していたのかってことが、わかる。目を伏せながら、コーイチがわたしの頬にキスしたから。
海の深さが怖いやら、ドキドキするやらで、いつの間にか遠慮もなく、彼の首にぎゅっとしがみついていたらしい。
そのせいで、いつもはふたりの間にあった身長差も、距離も、さっきよりもさらになくなって、確かに、キスするのにちょうどいい。
なんか、余計に恥ずかしい…、顔が近くて。下から見上げる機会は多いけど、まっすぐ向い合せになると、その引力の強い目から、視線を逸らしにくくて。
眼鏡をかけていない、コーイチの顔を、もう少し見つめていたいとも思うのに。どうしたらいいかわからず、わずかに俯いた。
「ほっぺだと、物足りない?」
そう意地悪く言って、くすっとコーイチが笑う気配。
わたしが口を開いて何か言おうとすると、すぐに、軟らかい唇の感触を、感じた。しょっぱい、海の味がする。
優しく、何度も触れてくるその、角度を、温度を、湿度を、わたしの唇の皮膚が思い出していく。
忘れたふりをしていた記憶も、ありありと蘇って来て、ああ、コーイチのキスって、こういう風だった、って思う。
唇の感触を楽しむみたいに、わたしの反応が嬉しいみたいに、毎回丁寧に口づける。
あのときは、自棄になっていたらしいコーイチが、無理矢理押さえこんでいた私の腕が、今は自由なのに、彼の首に絡んでいる。それに気が付くと、ますます顔が赤くなってくる気がする。
ほら、やっぱり危ない人だったんだって、思う。
だって、中毒性が高いもん。コーイチのキス。
コーイチが、少し離れて、くすくす笑う。うっとりと眼を閉じて、ぼんやりと唇を開いて、すっかり腑抜け顔のわたしを見て。
「ミク、かわいい。まさか、まだ満足したわけじゃないだろ?」
そう言うと、今度はしっかりと唇を合わせて、わたしの舌を探しに来る。すっかり脱力しているわたしは、されるがまま、コーイチの舌の感触を、動きを、体の芯で感じているだけ。
「ん、…うぅ」
次第に呼吸が乱れてくるのに、恥ずかしいって気持ちは、いつの間にか、海に溶けて消えた。
だって、ずっと、こうしていたいから。
夢中でキスしていたら、するっと自分の腕が解けて、海に落ちそうになった。
はっとしたコーイチが、腰と背中にまわしていた腕で支えてくれたけど、まだわたしの意識は朦朧としていた。
「気持ちいい」
同じ台詞が、同時に口をついて出た。コーイチの台詞には、かすかに疑問符がついてたけど、わたしのには、全くない。
溺れたわけでもないのに、呼吸の間隔が短くて、動悸がする。
「もっと」
「え?」
「もっとして」
勝手にこぼれていくわたしの言葉を受け入れて、コーイチが長めの前髪の向こうで、綺麗な目を伏せると、それだけでわたしは脳が芯から蕩けていくみたい。
どれくらいの時間、わたしたちは唇を合わせていたんだろう。
「もう、俺、限界」
「ん…」
唐突に離れて、息を吐きながら、そう言ったコーイチの顔を見る余裕もない。首に力が入らなくて、そのまま彼の肩に顎を乗せた。
「何が、限界?」
唇が腫れそう?海水で体がふやけそう?いよいよ足がつかなくなった?
まだ、全身に甘い痺れが残っていて、うっとりした頭のままで何とか言葉を絞り出す。このままゆらゆらと、体が波に漂って行ってしまいそうだ。
「今すぐ抱きたくなってきた」
耳元で、囁き声が響いて、背筋がぞくぞくした。そそそそそういう意味かぁ。
「ご、ごめんね。へ、変なことばかり言って」
もっと、って何回も言った気がする。いや、間違いなく言った。
はあ、ってまだ甘さの残るため息をついているコーイチ。
「俺ももっとしたかったし。ところで、なんでミクは海の中でもパーカー着てんの?」
「え?あ、水着着てるのが恥ずかしくて」
「白いパーカーの下に、黒い水着が透けるって、逆に恥ずかしいと思うけど。なんか、エロい」
「ちょ、変なこと言わないで!海から出にくくなった!」
「ちょうどいい、俺も今は出にくいし」
「…えっと……?」
「変な意味だよ」
「バカ!コーイチのバカ。正直過ぎる!」
もう、コーイチがいなくなるんじゃないかって、怖い気持ちなんか、どうでもよくなるくらい、彼のことを好きになってしまったんだと思う。以前の彼の言葉を借りるなら。
こんな感情を、わたしがもう一度抱くことができるようになるなんて。
コーイチは、上辺の顔だけは涼しげでさっぱり小奇麗にしてるけど、カッコ悪いところもいっぱいあるのに。その欠点さえ、わたしを惹きつけるみたいだ。
ずっと、ずっと、一緒にいたい。
コーイチの前でなら、わたしらしいわたしでいられる。
必要以上に、緊張することもなく。素直なふりして、嫌われないように気を遣うこともなく。言いたいことが言えて、訊きたいことが訊ける。
初めてこの人と結婚したいって思った、玲音さん。結婚したら、こんなふうになるんだろうな、って幸せを教えてくれた祥くん。ずっと一緒にいたくなって、結婚しようと思ったコーイチ。
結婚は、コーイチと、ずうっと一緒にいるための、手段。
いつでも、寂しい気持ちを埋めるために、結婚相手を探してきたわたしがたどり着いたのは、そういう結論。
ビーチから帰るバスに乗り、昨日から宿泊してるホテルに向かう。
コーイチと恋人繋ぎしてる、まだ慣れない指先を、強く意識しながら。
「俺、紗彩と部屋替わってもらおうかな」
真剣に悩んでいる顔で、コーイチがそう呟く。
「な、何考えてるの」
「何って、セック」
「うわあああ!」
あれだけキスをせがんで煽っておいて、なんだけど!はっきり口に出さないでほしい!
「ちょ、ちょっと待って。わたしは、もう少しゆっくり、恋人らしくなりたい」
「そっか。俺たち、まだ付き合ってもないんだっけ。先にプロポーズしちゃったな」
コーイチが、今頃気がついたようで、笑いだす。「早く結婚しないとだめだって、社長さんに言われてたんだもんね」
確か、会社を継ぐための条件だって、聞いた気がする。
「いや、実は、もう会社は継いだ。前社長も、俺の結婚は諦めるって言ってたんだ」
「……」
あ、れ?
「家に彼女も連れてこないし、お見合いしてもまとまらないし、過去の慣例は無視するって。もう疲れたから、とにかく早く引退したいんだってさ」
え、っと?
「意味が、わからない」
何とか、それだけを声にしたけれど。コーイチも「意味がわからない」って顔になっただけだ。
「結婚を急いでたんじゃないってこと?じゃあなんで、あんなに結婚結婚って焦ってたの?」
そう、なんか変だよ、コーイチ。
「焦ってないって、何度も言っただろ」
そりゃあ、焦ってないって口では言ってたけど。あんなに結婚って連呼してたのに。
「俺は、ミクと早く結婚したかったから。ただそれだけ」
そう言われたら、わたしだって、もう直ちにコーイチと結婚するしかないって強く思う。我ながら、単純だけど、単純なままでいいや、ってさえ思う。
「やっぱり、わたし、賢悟さんに部屋を替わってもらう」
「…俺、鼻血出てない?」
「今のところは」
ぬるい空気の中、宿泊先に帰るわたしたちの手は、恋人繋ぎでくっついている。
この状態でも、心臓がドキドキしてるのに、同じ部屋に帰ることになったら、わたし、呼吸困難でも起こしちゃうんじゃないだろうか。景色がやけにキラキラと綺麗に見える。
「俺、早く、ミクと同じ家に帰れるようになりたい。こんなふうに」
ぼんやりと、前を見たまま呟くコーイチを見上げる。心の中の願望が漏れて来た、って感じが微笑ましくて、つい繋いだ手に力が入ってしまった。
それに気がついて、コーイチが澄んだ目をこちらに向けると、それこそわたしの口が勝手に動いた。
「わたしのアパートで一緒に暮らす?」
ああ!何を口走ってるんだろう、わたし!!
「お前、変わってるな。普通、俺の家に住みたいって言うと思うんだけど」
コーイチが、笑いながらそう言ったから、あっという間に頭の中が冷えて冷静になった。
「そんなふうに、誰かに言われたことがあるんだ?」
前に彼の話に出て来た、大学時代の彼女のことだろうか。
「あ、え、」
「ふーん、あるんだ」
「えっと、ミク?」
コーイチは、上手く誤魔化す、ってことができないんだな。どうやって、今まで人付き合いをしてきたんだろうって、心配になるくらいだ。
「…ヤキモチ焼いただけだから!」
困ってるコーイチを見かねて、自分からそんな台詞を言う羽目になる。恥ずかしいなあ、かなり。
コーイチだって、そんな簡単なこと、気がついてもいいはずなのに、どうして自分の失言におたおたしてるだけなんだろう。
「じゃあ、俺、ほんとに、ミクのアパートに行ってもいいの?」
コーイチが、あっという間に嬉しそうな顔になって、わたしの目を覗き込んでくるから、わたしまで笑ってしまう。
「ふふ。ほんとに来るの?」
「うん。行く」
「コーイチの方が、よっぽど変わってる。うち、狭いけど、いいの?」
「ミクがいるところなら、狭い方がいい」
そう言って、にこにこするから、胸がきゅんきゅんする。
「そんなかわいいこと言うなら、すぐ来てね」
「すぐ行っていいの?」
「うん。すぐ来ないとだめ」
「じゃあ、すぐ行く」
あんな狭いアパートで、どうやってふたりで暮らそうか。
それを考えているだけで、わたしの胸は膨らんでいく。コーイチもそうだといいな。
お母さん。
わたし、初めて結婚しようって言ってくれた人と、結婚することにした。
最初に結婚したいって言われたときには、こんな人だってことは知らなかったけど。知れば知るほど、好きになって。
お互いの抱えてた、恋愛の古傷も、癒えて。本来の自分らしい振る舞いが、できるようになって。
そう言えば、お母さんは「お互いが、相手のことを好きなら、大丈夫。他のことは、何も考えなくていいの」って、言ってくれたよね。
結局、いつの間にか、自然に、何も考えられなくなっちゃった。ただただ、彼のことが好きになって行くばかりで。
ずっとずっと、一緒にいたい、と思った。
その気持ちが強いからか、ずっと一緒にいられるような気が、するんだ。今は。
今度、お母さんも、彼に会ってくれるといいな。
そう言えば、お父さんは、何て言うだろう?コーイチと結婚するって言ったら。まず、会社でお客さんだったってこと、憶えてるかな?
…予測が、つかない。お母さんのいるところで話した方がいいかもしれない。
両親のことを思い出しながらも、コーイチの手の温度を、肌触りを、感じながら、ゆっくりと歩く。
こうして、わたしの手を大切そうに取ってくれる彼となら、いつまでもこうして一緒にいられるんじゃないかっていう、確かな希望を、初めて、胸に抱きながら。
完