結婚したいから!
幸せな気持ちと満たされない気持ち
夢みたいだ。
がちゃりと玄関から、よく聞き慣れた金属音がして。
「ただいま」
って、大好きな人の声がする。
「うわ!」
コーイチは、わたしがだだだっと走ってきて抱きついたから、ちょっとびっくりしたみたい。
「お、おかえり!!コーイチ」
ただいまとかおかえりとか、言い合えるなんて。やっぱり夢かも、って思いながら、見上げてみるけれど、やっぱりコーイチがにこにこ笑ってるみたいにしか見えない。
「まだ起きてたんだ。なんか、ミクがやけに素直なんだけど…、って、おい、酒飲んでた?」
「ん」
コーイチが身をかがめて、なぜか首筋に鼻を寄せてくるからくすぐったい。そんなところまでアルコール臭くなるくらい飲んだのかな。
「なんでひとりで飲んでたの?仲良い奴と一緒じゃないと飲まないんじゃなかった?」
そう。いつもはそうだけど。
「コーイチが、今日からわたしの家に住むって言ったからだよ」
くすくす笑いながら、コーイチの手を引いて、部屋の中に連れて行く。
「俺がミクの家に住むと、なんで飲みたくなるの?」
なんだかおかしくて、くすくす笑いが止まらない。ああ、そうだ、わたし、単純に嬉しいんだ、きっと。
「来なかったら、きっと悲しいだろうなと思って。来たら、緊張するだろうなと思って。どっちにしても、酔っ払っちゃえば、楽な気がしたから」
そう言うと、コーイチが、目を細めて優しい顔で、わたしを見下ろすから。
「来てくれて、嬉しいな。コーイチ、大好き」
そう言って、抱きついて、彼の背中で、ワイシャツの生地をぎゅっと握りしめてしまう。
「何、ミク。お酒飲むとそんなにかわいくなるのか。これから職場の飲み会では飲むなよ」
「ん?わかった」
コーイチのかわいいの基準って、なんか変だと思うけど、まあいいや。酔いが心地よくて、いい加減に返事をしておいた。
「無理だろ」
「車で帰るって言うんだぁ」
「車持ってないだろ」
「ふふふふ。細かいところは気にしない!」
「そうだな。ミクとこうしていられるなら、どうでもいいか」
適当な返事を続けていたわたしをぎゅうっと抱きしめて、コーイチがそんなことを言うから、危うく酔いが醒めそうになった。
「そりゃあ、わたしだって、そう思うけど。でも、どうして、コーイチって、お酒も飲んでないくせに、そんなこと言葉にして言えるんだろう…」
思ったことがぶつぶつと口から漏れていたらしい。
「さあ、よくわからないけど」
そう言われて、慌てて口をつぐんだ。
「ミクのことが、すごく好きなんだろ?」
ずきゅーん。あ、今、心臓に天使の矢が刺さったな、わたし。
「も、い、かい」
「ん?もういいかい?」
「違う!もう一回言って!!」
お酒の勢いで、そう言ってみると。
「ミク、好きだ。すごく好き。大好き。めちゃくちゃ好き」
途中から、コーイチの顔を見上げてみたけれど、最後にはぽかんとしてしまった。あまりにも惜しみなく、わたしの欲しい言葉をたくさんくれるから。
「もうわたし、死んでもいいな!!」
思わずそう叫んでいた。
「ばか、今死なれたら困る」って言って、コーイチが目を丸くしてるけれど、そんな表情にも、胸がきゅんきゅんする。
「すっごく幸せだもん。今死んだら、ずーっといい夢見てるみたいでいいだろうなあ。大好きなコーイチと一緒に暮らせるなんて、本当に夢みたい」
そこまでしか、記憶にない。
つまり、まあ、例のごとく、寝ちゃったんだな、わたし。
コーイチにくっついたままで。
夢みたい、…というよりも。
というよりも、だ。わたしは、ぼんやりした頭の中で、考える。
本当に、夢だったんじゃないだろうか、って。
ソファで目が覚めて、そのままの姿勢で部屋を見渡すけれど、コーイチの気配はない。姿もなければ、物音も聞えない。
少しずきずきするこめかみを押さえながら、ちょっと飲み過ぎたらしい、昨夜の自分を呪いながら、体を起こす。
コーイチって、本当にここにいたんだろうか。
喉がひりつくくらい乾いているけれど、寝室を覗いてみた。玄関も、洗面所も。その後で、いよいよ焦ってクローゼットを開けると、男物のスーツが何着かかけてあるのを見つけた。
いた、らしい。
ようやく少し気持ちが落ち着いたものの、時計を見た後に、カレンダーの日付を確認し、最後にため息をつくしかなくなった。
だって、今日は土曜日のはず。何回見たって、4月の中の土曜日。
時間はまだ、朝の7時より少し早い。
それなのに、コーイチはもういない。
昨日の夜帰って来たときだって、12時近かった。あれから眠って、しかもわたしが起きる前にもう仕事に行ってしまったんだろう。
深夜にメールが来ることも、多かったっけ。
土日にスーツ姿を見ることも、多かったっけ。
彼の仕事が忙しいことは、それなりに知っていたはずなのに、一緒に暮らせたら、もっとふたりの時間が持てると思い込んでいた。
「でも、同棲開始の翌日も、仕事って、どうなんだろう」
思わず、独り言が口をついて出る。当然、今日くらいはふたりで休日を楽しめると思っていたから、どうやって過ごせばいいのかわからず、ひとりで途方に暮れた。
中途半端に、コーイチの痕跡がある部屋は、ほんの少し前なら一人の時間だって楽しめたのに、今はわたしを困惑させる空間になってしまっている。
「ただいま」
だから、その声を聞いた時には、腹が立った。勝手かもしれないけど、なんかムッときた。
「おかえり」
ただいま、の言葉は嬉しいから、ついおかえり、って返事はしてしまったけど、なんだかむしゃくしゃする気持ちは消えなくて、ソファに座ったまま、玄関に出向く気にもなれない。
その代わりに、今日一日で何度も何度も見た時計の針を、ちらりと確認する。
午後、7時。
多分、土曜日だから、コーイチにしては、早く帰れた方なんだろう。でも、この微妙な時間。
5時くらいから、夕飯を作った方がいいのか迷い始めて、6時くらいからは、自分だけで食べていいのか迷い続けて。結局何も選択できずに、今に至っている。
朝からずっと時間を持て余し、そのうち空腹も重なってきて、今となっては完全にイライラしてしまっている。
「ミク?」
当然、つんつんしているわたしに、コーイチが気が付かないはずもない。
一瞬目に入ったコーイチが、困惑顔だったけれど、すぐに目を伏せて見なかったことにした。膝に乗せた雑誌の内容なんか、ちっとも頭に入って来ないのに。
どさっと鞄を置いて、ソファに座っているわたしの足元に腰をおろして、わたしを見上げるコーイチ。眼鏡の向こうの瞳に、つい視線が捕まりそうになって、慌ててそっぽを向いた。
「ごめん。寂しかった?」
そう言われて、温かい指が優しく髪の間に差し込まれるのを感じたら、怒りが全部寂しさに変わった気がした。
そっか。わたし、寂しかったんだ。
髪をすくように撫でる、コーイチの腕を捕まえて、頬を寄せると、なおさらそれを自覚した。
「そう、みたい」コーイチが、膝をついて、わたしの頭を胸に引きよせた。その体温の中で、訊きたかったことを、吐きだしていく。
「今日も仕事だったの?」
「うん」
「明日も?」
「…うん」
「お休みは、ないの?」
「引き継ぎが済んだら、取れると思う」
「それは、いつ頃?」
「…まだわからない」
「そっか。大変なんだね」
コーイチは、わたしを置いて遊びに行っていたわけじゃない。仕事が忙しい。それを頭ではちゃんと理解できるのだから、彼を責めることはできない。
「できるだけ、早く片付ける」
そう言って、優しく髪を撫でてくれるから、なおさら何も言えなくなる。
コーイチは会社を継いだって、言ってた。その引き継ぎなら、わたしが休暇の前に理央さんや香山くんに、留守中の仕事を頼むのとはわけが違うに決まってる。
休日だってないくらいに仕事をして、その上で、もっと早く片付けようと思ったら、睡眠時間を削るしかない。あ、もうそれも削ってるな、コーイチは。
あのグアム旅行に行くのに、どれだけの無理をしたのだろうと、今更ながら思う。徹夜とか、してないだろうか。したかもしれない。いや、したにちがいない。
「ごはん、作ってないの」
気持ちを切り替えようと思って、そう打ち明けた。結局、あれこれ考えただけで、何もできないままだったのだ。腕前に自信もないことだしね…。
わたしは、お腹がすいて、なんだか弱ってるんだろうから、変なことを考えないうちに、早く晩ごはんを食べた方がいいとも思う。
「一緒に外に食べに行こうか。ミクは何が食べたい?」
コーイチが、少し体を離して、わたしの顔を見つめる。その顔は、本当に嬉しそうで、わたしはひとりぼっちでぐちぐちしていた自分が少し馬鹿らしいと思えた。
「ハンバーグ」
子どもっぽいって言われるかなあなんて思うけど、コーイチはにこっと笑ってこう言った。
「ここから歩いて行ける距離に、いい店がある。今から、デート、しよっか」
それから、口を開いたものの何も言葉が出てこないわたしを見て、くすりと笑う。そして、わたしの手を取って、指を絡めてくる。
で、デート!!
「ミク、いい?恋人同士として出かけよう。付き合って初めてだよな」
こ、恋人!!付き合って初めて!!
一日中、コーイチに飢えていたので、シャワーのごとく甘い単語を耳に流し込まれて、ぽわんとしてしまった。
「こら、しっかりしろ」
コーイチのもう一方の手が伸びて来たから、頭でも叩かれるんだろうと思ってたら、違った。その手が首の後ろをそっと支えたのに気が付いた時には、キスされていた。
キ、キスで、しっかりできるはず、ないでしょ!ますます頭がぼんやりする!
そう言えるのは心の中ばかりで、一層真っ赤な顔になって、相変わらず言葉が出ないままのわたし。それを見て、コーイチがにこにこしてるから、わたしは寂しかった気持ちもすっかり忘れた。
「海空ちゃん、調子が出ない?疲れてる?」
理央さんに何気なくそう尋ねられた時、まずいって反射的に思った。
「いえ…、すみません」
片腹痛いところがあるから、先に謝ってしまう。
「いや、責めてるわけじゃないの。成績はゆっくりだけど、ずっと上がり続けてるし」
「はあ」
「でも、事務所に戻ってくると、暗い顔になるからね」
う。やっぱり、わたしの顔ってそんなにわかりやすいのか。わかってはいるけれど、がっくりくる。
「彼氏と上手くいってないの?」
ああ、嫌だ。自分で自分が嫌だ。
毎度毎度、恋愛が上手く行かない時期には、仕事に支障が出て、理央さんや「部長さん」に心配をかけて来たっけ。
いつになったら、成長するんだ、わたし。またしても、こうして理央さんに、私生活を心配されているではないか。
「いえ…、そう言うわけでも、ないんですよね」
昼間の仕事中には、努めて思い浮かべないようにしていた、コーイチの顔を思い描いてみた。
コーイチは、毎日家に帰ってくる。忙しくても、ときどき顔を合わせたときには、わたしを大事にしてくれてると思う。
「その割には、元気がないじゃない」
そう、なのだ。
単純なわたしなのに、彼氏と同棲してる今の状態に、浮かれることができないでいる。
「とにかく、彼の仕事が忙しいみたいで。すれ違ってばかりなんです。一緒にいる時が楽しい分、いないときの落差が大きくて。そのせいなのかどうかはわかりませんけど」
そこまで勢いで話してから、何かぴったりな表現はないだろうか、と探す。
「なんだか、お客さんが羨ましくって」
うん。仕事中になんだか暗い気持ちになるのは、どうもそういう感情があるせいだと思える。
「へえ?羨ましい?」
わたしの仕事も、以前ほど悩むことはあまりなくて、それなりに上手くいっていると思う。理央さんの言うように、お客さんの幸せそうな顔を見る機会にも、恵まれるようになってきた。
お見合い相手を気に入った人、初めてのデートが上手く行った人、結婚が決まった人。
そんなお客さんと一緒になって、喜べるのは、目の前に本人がいる時間だけになった。
いいな。羨ましい。
その気持ちが強くなりすぎて、お客さんがいない時間には、変に落ち込むようになってきた。
「ふーん。彼氏がいないときには、お客さんの幸せも自分のことみたいに喜んでたのにね。目の前につかめそうでつかめない幸せがあると、かえって人のことが羨ましいのかもね」
理央さんが、そう言って、こちらも見ないで、デスクの上の書類を整頓している。
つかめそうでつかめない、かあ。幸せっていう漠然としたものよりも、コーイチそのもののこと、みたいだな。
「そうなのかもしれません。彼がいるからこそ、幸せな時間もあるんですけど、とにかく、いない時間が長すぎて。その時間に溜めこんだ不平を上手く消化できていない、っていうのか」
「欲求不満」
「ぎゃあ!」
耳元で囁かれて、鳥肌が立った。
出た、ライバル、香山慎!
さっきまで、事務所にはわたしと理央さんしかいないはずだったのに、どこから現れたんだろう。いつもなら、定時に帰っちゃうくせに。理央さんだって、このふわふわ頭がいれば、こんな話を振ったりはしなかったはずだ。
「何なのよ、突然」
ムッとしながら、距離を置いて、香山くんの顔を睨むけれど、鼻で笑われた。
「どうせ、結城さんに相手にされてないんでしょーが。だいたい、九条さん、あの人とほんとに付き合ってんの?俺、いまだに信じられないけど」
ざっくりと、胸を斬られた気がした。
「こら、香山!さっさと帰れ!」って、理央さんがふわふわ頭を追い払ってるけど、わたしは致命傷を負ってしまったらしく、口が利けないままだ。
だから、香山くんは苦手。
思ってたんだ、わたしだって。
これで、付き合ってるって、言えるんだろうかって。
だからこそ、こうして人から、言葉にして言われると、いちいち胸が痛む。
「どういうつもりですか、こんなところにまで」
この人は、父よりは若いように見えるけれど、コーイチよりはずいぶん年上のはずだ。40歳代かな。
そんな年上の、かつ初対面の人から、値踏みでのするかのように、つま先から頭のてっぺんまで見られると、それだけでもいい気がするはずがない。
「頼まれて書類を届けに来ただけです。渡していただけますか」
我ながら、つっけんどんな物言いだと思うけれど、こんな状況で、わたしみたいなバカ正直な顔を持つ人間に、愛想良くしろって言うのが無理な話だ。
「なるほど。正式な婚約者でもありませんしね。お会いになる気はないと?」
皮肉な物言いをしてわたしを見下ろしてくるこの人の、後ろにあるそのドアの中に、コーイチがいるに違いないのに。
歯噛みしたいような気持ちを押し殺したまま、その人に封筒を押し付けながら、こう答えた。
「もちろんです。これで失礼します」
会えるなら会いたいに決まってる!!
心の中でだけ、そう叫びながら、わたしは彼に背を向けて、ついさっき乗ってきたエレベーターに向かった。もちろん、鼻息荒く。
あの人が、料理とお菓子作りが趣味だっていう秘書!?嘘でしょ!!
エレベーターのボタンを連打して、1階のフロアに降りる。今日は日曜日だから、社員はいないって、コーイチは言っていた。その通りの1階を通り抜けて、通用口から外へ出ると、街路樹の緑が濃くなっていることに気が付いた。
あ、もうすぐゴールデンウィークか。
…って言っても、この様子じゃあ、コーイチとの時間も望めないだろうな。だって、相変わらず忙しいコーイチは、わたしが寝てから帰ってきて、起きる前に出て行くことも多い。
ただ寝に帰ってきてるだけだから、コーイチの荷物もあまり増えなくて、本当に一緒に暮らしているんだろうかって、思い続けている。
少なからず、感傷的な気分になったから、まっすぐ自分の部屋に帰るのが嫌になった。
かといって、事前のアポもなく、新婚の紗彩の家に転がり込む勇気もない。でも、日が落ちて夜が近づくこの時間に、ひとりで街をうろうろするのも好きではない。
「あ、の。予約はしてないんですけど…」
おそるおそる開けたドアの中は、当然混雑している。でも、この1年で見慣れた店内の中に、同じく見慣れた派手なピンク色を見つけると、ようやくほっと息がつけた。
「あらぁ、海空ちゃんだぁ。時間かかるけど、待てるぅ?」
忙しそうに、鋏を動かしながら、ピンクさんがわたしに声をかけてくれるから、「はい」と返事をした。
むしろ、時間がかかった方が、いい。
アパートの部屋にひとりきりでコーイチを待っているよりも、ここで髪の毛を切ってもらう順番を待っている方が、いい。
アシスタントさんから、退屈しのぎに渡された雑誌の中に、恋だとか、彼氏だとか、結婚だとか、そういう単語を見つけるたびに、今までとは違う種類のため息が漏れる。
「ごめんねぇ、遅くなってぇ。今日は、どうするぅ?」
ピンクさんの甘ったるい話し方に、ようやく意識が現実に引き戻される。急に来た上に、待ち時間もいろいろ考えていて、髪のことはすっかり忘れていた。
「あー…、何も考えてなかったんですけど」
そうして、ふと、コーイチが好んで首筋にキスをすることを思い出して、一瞬顔が熱くなりそうになったけど、ぶるぶると首を横に振って、その映像も振り払った。
「もう一度、髪を伸ばしてみようかな」
もう、自棄だ。首なんて、隠してやるんだ。
「へえ?もったいないけど、出し惜しみもいいわねぇ」
ピンクさんが、楽しそうにくすりくすりと笑う。出し惜しみって言うのは、完全にピンクさんの勘違いだけど、まあいいか、とわたしも笑った。
丁寧に髪を切ってもらって、頭皮を綺麗にして髪をトリートメントしてもらうことになった。
コーイチの彼女になれたって浮かれてるのは、わたし一人だけだ。
ふと、鏡に映る自分の姿を見てそう思った。
香山くんも信じられないって言うし、コーイチの会社の秘書だって、正式な婚約者でもないって言うし。
自分でも、あらゆる角度から見て、コーイチとは釣り合わないってわかってる。
だいたい、コーイチだって、わたしのこと好きだっていうけれど、全然一緒にいてくれない。
当然、結婚の話なんて、ちっとも進んでいない。
焦る気持ちは、なかったはずなのに、周りにあれこれ言われることで、コーイチを歯がゆく思うようになってくる。
そんな自分も、嫌で。
早く早く、にょろにょろと髪が伸びて、こんな首なんて隠れちゃえばいいのに。
トリートメントをしてもらう、その間にも、そんなふうに屈折したことを考えていた。
がちゃりと玄関から、よく聞き慣れた金属音がして。
「ただいま」
って、大好きな人の声がする。
「うわ!」
コーイチは、わたしがだだだっと走ってきて抱きついたから、ちょっとびっくりしたみたい。
「お、おかえり!!コーイチ」
ただいまとかおかえりとか、言い合えるなんて。やっぱり夢かも、って思いながら、見上げてみるけれど、やっぱりコーイチがにこにこ笑ってるみたいにしか見えない。
「まだ起きてたんだ。なんか、ミクがやけに素直なんだけど…、って、おい、酒飲んでた?」
「ん」
コーイチが身をかがめて、なぜか首筋に鼻を寄せてくるからくすぐったい。そんなところまでアルコール臭くなるくらい飲んだのかな。
「なんでひとりで飲んでたの?仲良い奴と一緒じゃないと飲まないんじゃなかった?」
そう。いつもはそうだけど。
「コーイチが、今日からわたしの家に住むって言ったからだよ」
くすくす笑いながら、コーイチの手を引いて、部屋の中に連れて行く。
「俺がミクの家に住むと、なんで飲みたくなるの?」
なんだかおかしくて、くすくす笑いが止まらない。ああ、そうだ、わたし、単純に嬉しいんだ、きっと。
「来なかったら、きっと悲しいだろうなと思って。来たら、緊張するだろうなと思って。どっちにしても、酔っ払っちゃえば、楽な気がしたから」
そう言うと、コーイチが、目を細めて優しい顔で、わたしを見下ろすから。
「来てくれて、嬉しいな。コーイチ、大好き」
そう言って、抱きついて、彼の背中で、ワイシャツの生地をぎゅっと握りしめてしまう。
「何、ミク。お酒飲むとそんなにかわいくなるのか。これから職場の飲み会では飲むなよ」
「ん?わかった」
コーイチのかわいいの基準って、なんか変だと思うけど、まあいいや。酔いが心地よくて、いい加減に返事をしておいた。
「無理だろ」
「車で帰るって言うんだぁ」
「車持ってないだろ」
「ふふふふ。細かいところは気にしない!」
「そうだな。ミクとこうしていられるなら、どうでもいいか」
適当な返事を続けていたわたしをぎゅうっと抱きしめて、コーイチがそんなことを言うから、危うく酔いが醒めそうになった。
「そりゃあ、わたしだって、そう思うけど。でも、どうして、コーイチって、お酒も飲んでないくせに、そんなこと言葉にして言えるんだろう…」
思ったことがぶつぶつと口から漏れていたらしい。
「さあ、よくわからないけど」
そう言われて、慌てて口をつぐんだ。
「ミクのことが、すごく好きなんだろ?」
ずきゅーん。あ、今、心臓に天使の矢が刺さったな、わたし。
「も、い、かい」
「ん?もういいかい?」
「違う!もう一回言って!!」
お酒の勢いで、そう言ってみると。
「ミク、好きだ。すごく好き。大好き。めちゃくちゃ好き」
途中から、コーイチの顔を見上げてみたけれど、最後にはぽかんとしてしまった。あまりにも惜しみなく、わたしの欲しい言葉をたくさんくれるから。
「もうわたし、死んでもいいな!!」
思わずそう叫んでいた。
「ばか、今死なれたら困る」って言って、コーイチが目を丸くしてるけれど、そんな表情にも、胸がきゅんきゅんする。
「すっごく幸せだもん。今死んだら、ずーっといい夢見てるみたいでいいだろうなあ。大好きなコーイチと一緒に暮らせるなんて、本当に夢みたい」
そこまでしか、記憶にない。
つまり、まあ、例のごとく、寝ちゃったんだな、わたし。
コーイチにくっついたままで。
夢みたい、…というよりも。
というよりも、だ。わたしは、ぼんやりした頭の中で、考える。
本当に、夢だったんじゃないだろうか、って。
ソファで目が覚めて、そのままの姿勢で部屋を見渡すけれど、コーイチの気配はない。姿もなければ、物音も聞えない。
少しずきずきするこめかみを押さえながら、ちょっと飲み過ぎたらしい、昨夜の自分を呪いながら、体を起こす。
コーイチって、本当にここにいたんだろうか。
喉がひりつくくらい乾いているけれど、寝室を覗いてみた。玄関も、洗面所も。その後で、いよいよ焦ってクローゼットを開けると、男物のスーツが何着かかけてあるのを見つけた。
いた、らしい。
ようやく少し気持ちが落ち着いたものの、時計を見た後に、カレンダーの日付を確認し、最後にため息をつくしかなくなった。
だって、今日は土曜日のはず。何回見たって、4月の中の土曜日。
時間はまだ、朝の7時より少し早い。
それなのに、コーイチはもういない。
昨日の夜帰って来たときだって、12時近かった。あれから眠って、しかもわたしが起きる前にもう仕事に行ってしまったんだろう。
深夜にメールが来ることも、多かったっけ。
土日にスーツ姿を見ることも、多かったっけ。
彼の仕事が忙しいことは、それなりに知っていたはずなのに、一緒に暮らせたら、もっとふたりの時間が持てると思い込んでいた。
「でも、同棲開始の翌日も、仕事って、どうなんだろう」
思わず、独り言が口をついて出る。当然、今日くらいはふたりで休日を楽しめると思っていたから、どうやって過ごせばいいのかわからず、ひとりで途方に暮れた。
中途半端に、コーイチの痕跡がある部屋は、ほんの少し前なら一人の時間だって楽しめたのに、今はわたしを困惑させる空間になってしまっている。
「ただいま」
だから、その声を聞いた時には、腹が立った。勝手かもしれないけど、なんかムッときた。
「おかえり」
ただいま、の言葉は嬉しいから、ついおかえり、って返事はしてしまったけど、なんだかむしゃくしゃする気持ちは消えなくて、ソファに座ったまま、玄関に出向く気にもなれない。
その代わりに、今日一日で何度も何度も見た時計の針を、ちらりと確認する。
午後、7時。
多分、土曜日だから、コーイチにしては、早く帰れた方なんだろう。でも、この微妙な時間。
5時くらいから、夕飯を作った方がいいのか迷い始めて、6時くらいからは、自分だけで食べていいのか迷い続けて。結局何も選択できずに、今に至っている。
朝からずっと時間を持て余し、そのうち空腹も重なってきて、今となっては完全にイライラしてしまっている。
「ミク?」
当然、つんつんしているわたしに、コーイチが気が付かないはずもない。
一瞬目に入ったコーイチが、困惑顔だったけれど、すぐに目を伏せて見なかったことにした。膝に乗せた雑誌の内容なんか、ちっとも頭に入って来ないのに。
どさっと鞄を置いて、ソファに座っているわたしの足元に腰をおろして、わたしを見上げるコーイチ。眼鏡の向こうの瞳に、つい視線が捕まりそうになって、慌ててそっぽを向いた。
「ごめん。寂しかった?」
そう言われて、温かい指が優しく髪の間に差し込まれるのを感じたら、怒りが全部寂しさに変わった気がした。
そっか。わたし、寂しかったんだ。
髪をすくように撫でる、コーイチの腕を捕まえて、頬を寄せると、なおさらそれを自覚した。
「そう、みたい」コーイチが、膝をついて、わたしの頭を胸に引きよせた。その体温の中で、訊きたかったことを、吐きだしていく。
「今日も仕事だったの?」
「うん」
「明日も?」
「…うん」
「お休みは、ないの?」
「引き継ぎが済んだら、取れると思う」
「それは、いつ頃?」
「…まだわからない」
「そっか。大変なんだね」
コーイチは、わたしを置いて遊びに行っていたわけじゃない。仕事が忙しい。それを頭ではちゃんと理解できるのだから、彼を責めることはできない。
「できるだけ、早く片付ける」
そう言って、優しく髪を撫でてくれるから、なおさら何も言えなくなる。
コーイチは会社を継いだって、言ってた。その引き継ぎなら、わたしが休暇の前に理央さんや香山くんに、留守中の仕事を頼むのとはわけが違うに決まってる。
休日だってないくらいに仕事をして、その上で、もっと早く片付けようと思ったら、睡眠時間を削るしかない。あ、もうそれも削ってるな、コーイチは。
あのグアム旅行に行くのに、どれだけの無理をしたのだろうと、今更ながら思う。徹夜とか、してないだろうか。したかもしれない。いや、したにちがいない。
「ごはん、作ってないの」
気持ちを切り替えようと思って、そう打ち明けた。結局、あれこれ考えただけで、何もできないままだったのだ。腕前に自信もないことだしね…。
わたしは、お腹がすいて、なんだか弱ってるんだろうから、変なことを考えないうちに、早く晩ごはんを食べた方がいいとも思う。
「一緒に外に食べに行こうか。ミクは何が食べたい?」
コーイチが、少し体を離して、わたしの顔を見つめる。その顔は、本当に嬉しそうで、わたしはひとりぼっちでぐちぐちしていた自分が少し馬鹿らしいと思えた。
「ハンバーグ」
子どもっぽいって言われるかなあなんて思うけど、コーイチはにこっと笑ってこう言った。
「ここから歩いて行ける距離に、いい店がある。今から、デート、しよっか」
それから、口を開いたものの何も言葉が出てこないわたしを見て、くすりと笑う。そして、わたしの手を取って、指を絡めてくる。
で、デート!!
「ミク、いい?恋人同士として出かけよう。付き合って初めてだよな」
こ、恋人!!付き合って初めて!!
一日中、コーイチに飢えていたので、シャワーのごとく甘い単語を耳に流し込まれて、ぽわんとしてしまった。
「こら、しっかりしろ」
コーイチのもう一方の手が伸びて来たから、頭でも叩かれるんだろうと思ってたら、違った。その手が首の後ろをそっと支えたのに気が付いた時には、キスされていた。
キ、キスで、しっかりできるはず、ないでしょ!ますます頭がぼんやりする!
そう言えるのは心の中ばかりで、一層真っ赤な顔になって、相変わらず言葉が出ないままのわたし。それを見て、コーイチがにこにこしてるから、わたしは寂しかった気持ちもすっかり忘れた。
「海空ちゃん、調子が出ない?疲れてる?」
理央さんに何気なくそう尋ねられた時、まずいって反射的に思った。
「いえ…、すみません」
片腹痛いところがあるから、先に謝ってしまう。
「いや、責めてるわけじゃないの。成績はゆっくりだけど、ずっと上がり続けてるし」
「はあ」
「でも、事務所に戻ってくると、暗い顔になるからね」
う。やっぱり、わたしの顔ってそんなにわかりやすいのか。わかってはいるけれど、がっくりくる。
「彼氏と上手くいってないの?」
ああ、嫌だ。自分で自分が嫌だ。
毎度毎度、恋愛が上手く行かない時期には、仕事に支障が出て、理央さんや「部長さん」に心配をかけて来たっけ。
いつになったら、成長するんだ、わたし。またしても、こうして理央さんに、私生活を心配されているではないか。
「いえ…、そう言うわけでも、ないんですよね」
昼間の仕事中には、努めて思い浮かべないようにしていた、コーイチの顔を思い描いてみた。
コーイチは、毎日家に帰ってくる。忙しくても、ときどき顔を合わせたときには、わたしを大事にしてくれてると思う。
「その割には、元気がないじゃない」
そう、なのだ。
単純なわたしなのに、彼氏と同棲してる今の状態に、浮かれることができないでいる。
「とにかく、彼の仕事が忙しいみたいで。すれ違ってばかりなんです。一緒にいる時が楽しい分、いないときの落差が大きくて。そのせいなのかどうかはわかりませんけど」
そこまで勢いで話してから、何かぴったりな表現はないだろうか、と探す。
「なんだか、お客さんが羨ましくって」
うん。仕事中になんだか暗い気持ちになるのは、どうもそういう感情があるせいだと思える。
「へえ?羨ましい?」
わたしの仕事も、以前ほど悩むことはあまりなくて、それなりに上手くいっていると思う。理央さんの言うように、お客さんの幸せそうな顔を見る機会にも、恵まれるようになってきた。
お見合い相手を気に入った人、初めてのデートが上手く行った人、結婚が決まった人。
そんなお客さんと一緒になって、喜べるのは、目の前に本人がいる時間だけになった。
いいな。羨ましい。
その気持ちが強くなりすぎて、お客さんがいない時間には、変に落ち込むようになってきた。
「ふーん。彼氏がいないときには、お客さんの幸せも自分のことみたいに喜んでたのにね。目の前につかめそうでつかめない幸せがあると、かえって人のことが羨ましいのかもね」
理央さんが、そう言って、こちらも見ないで、デスクの上の書類を整頓している。
つかめそうでつかめない、かあ。幸せっていう漠然としたものよりも、コーイチそのもののこと、みたいだな。
「そうなのかもしれません。彼がいるからこそ、幸せな時間もあるんですけど、とにかく、いない時間が長すぎて。その時間に溜めこんだ不平を上手く消化できていない、っていうのか」
「欲求不満」
「ぎゃあ!」
耳元で囁かれて、鳥肌が立った。
出た、ライバル、香山慎!
さっきまで、事務所にはわたしと理央さんしかいないはずだったのに、どこから現れたんだろう。いつもなら、定時に帰っちゃうくせに。理央さんだって、このふわふわ頭がいれば、こんな話を振ったりはしなかったはずだ。
「何なのよ、突然」
ムッとしながら、距離を置いて、香山くんの顔を睨むけれど、鼻で笑われた。
「どうせ、結城さんに相手にされてないんでしょーが。だいたい、九条さん、あの人とほんとに付き合ってんの?俺、いまだに信じられないけど」
ざっくりと、胸を斬られた気がした。
「こら、香山!さっさと帰れ!」って、理央さんがふわふわ頭を追い払ってるけど、わたしは致命傷を負ってしまったらしく、口が利けないままだ。
だから、香山くんは苦手。
思ってたんだ、わたしだって。
これで、付き合ってるって、言えるんだろうかって。
だからこそ、こうして人から、言葉にして言われると、いちいち胸が痛む。
「どういうつもりですか、こんなところにまで」
この人は、父よりは若いように見えるけれど、コーイチよりはずいぶん年上のはずだ。40歳代かな。
そんな年上の、かつ初対面の人から、値踏みでのするかのように、つま先から頭のてっぺんまで見られると、それだけでもいい気がするはずがない。
「頼まれて書類を届けに来ただけです。渡していただけますか」
我ながら、つっけんどんな物言いだと思うけれど、こんな状況で、わたしみたいなバカ正直な顔を持つ人間に、愛想良くしろって言うのが無理な話だ。
「なるほど。正式な婚約者でもありませんしね。お会いになる気はないと?」
皮肉な物言いをしてわたしを見下ろしてくるこの人の、後ろにあるそのドアの中に、コーイチがいるに違いないのに。
歯噛みしたいような気持ちを押し殺したまま、その人に封筒を押し付けながら、こう答えた。
「もちろんです。これで失礼します」
会えるなら会いたいに決まってる!!
心の中でだけ、そう叫びながら、わたしは彼に背を向けて、ついさっき乗ってきたエレベーターに向かった。もちろん、鼻息荒く。
あの人が、料理とお菓子作りが趣味だっていう秘書!?嘘でしょ!!
エレベーターのボタンを連打して、1階のフロアに降りる。今日は日曜日だから、社員はいないって、コーイチは言っていた。その通りの1階を通り抜けて、通用口から外へ出ると、街路樹の緑が濃くなっていることに気が付いた。
あ、もうすぐゴールデンウィークか。
…って言っても、この様子じゃあ、コーイチとの時間も望めないだろうな。だって、相変わらず忙しいコーイチは、わたしが寝てから帰ってきて、起きる前に出て行くことも多い。
ただ寝に帰ってきてるだけだから、コーイチの荷物もあまり増えなくて、本当に一緒に暮らしているんだろうかって、思い続けている。
少なからず、感傷的な気分になったから、まっすぐ自分の部屋に帰るのが嫌になった。
かといって、事前のアポもなく、新婚の紗彩の家に転がり込む勇気もない。でも、日が落ちて夜が近づくこの時間に、ひとりで街をうろうろするのも好きではない。
「あ、の。予約はしてないんですけど…」
おそるおそる開けたドアの中は、当然混雑している。でも、この1年で見慣れた店内の中に、同じく見慣れた派手なピンク色を見つけると、ようやくほっと息がつけた。
「あらぁ、海空ちゃんだぁ。時間かかるけど、待てるぅ?」
忙しそうに、鋏を動かしながら、ピンクさんがわたしに声をかけてくれるから、「はい」と返事をした。
むしろ、時間がかかった方が、いい。
アパートの部屋にひとりきりでコーイチを待っているよりも、ここで髪の毛を切ってもらう順番を待っている方が、いい。
アシスタントさんから、退屈しのぎに渡された雑誌の中に、恋だとか、彼氏だとか、結婚だとか、そういう単語を見つけるたびに、今までとは違う種類のため息が漏れる。
「ごめんねぇ、遅くなってぇ。今日は、どうするぅ?」
ピンクさんの甘ったるい話し方に、ようやく意識が現実に引き戻される。急に来た上に、待ち時間もいろいろ考えていて、髪のことはすっかり忘れていた。
「あー…、何も考えてなかったんですけど」
そうして、ふと、コーイチが好んで首筋にキスをすることを思い出して、一瞬顔が熱くなりそうになったけど、ぶるぶると首を横に振って、その映像も振り払った。
「もう一度、髪を伸ばしてみようかな」
もう、自棄だ。首なんて、隠してやるんだ。
「へえ?もったいないけど、出し惜しみもいいわねぇ」
ピンクさんが、楽しそうにくすりくすりと笑う。出し惜しみって言うのは、完全にピンクさんの勘違いだけど、まあいいか、とわたしも笑った。
丁寧に髪を切ってもらって、頭皮を綺麗にして髪をトリートメントしてもらうことになった。
コーイチの彼女になれたって浮かれてるのは、わたし一人だけだ。
ふと、鏡に映る自分の姿を見てそう思った。
香山くんも信じられないって言うし、コーイチの会社の秘書だって、正式な婚約者でもないって言うし。
自分でも、あらゆる角度から見て、コーイチとは釣り合わないってわかってる。
だいたい、コーイチだって、わたしのこと好きだっていうけれど、全然一緒にいてくれない。
当然、結婚の話なんて、ちっとも進んでいない。
焦る気持ちは、なかったはずなのに、周りにあれこれ言われることで、コーイチを歯がゆく思うようになってくる。
そんな自分も、嫌で。
早く早く、にょろにょろと髪が伸びて、こんな首なんて隠れちゃえばいいのに。
トリートメントをしてもらう、その間にも、そんなふうに屈折したことを考えていた。