結婚したいから！

「ミク、美容院行くなら、メールくらいして。電話にも出ないし、心配した」

寂しい気持ちが、いつもなら、コーイチの顔を見たり、声を聞いたりしているうちに癒えるのに。

こうして、コーイチがわたしの帰りを待っていてくれたのは、この数週間で初めてなのに。

今は、こうして抱き締められる幸せのせいで、かえって一人の時の暗い思考が際立ってしまう。


「コーイチだって、黙っていなくなるのに？」


まして、今日は、あの皮肉屋の秘書の言葉や目付きが、頭から消えずに、わたしをイライラさせ続ける。

ごめんねの一言さえ言えずに、そんなふうに言い返してしまった。

「俺は仕事に行くくらいしかないだろ？」

落ち着いた声が、耳元で響く。それは、いつも通りの優しい声色なのに。
「わたしだって、はじめの日にはわからなくて、心配したんだよ。でも、もし仕事だったら、邪魔になるかもしれないと思って、電話もできなかった」

コーイチが初めて、この部屋に泊まった翌日の、もやもやした気持ちが、今でも胸の中に立ちこめているみたいで。

それが言葉に変換されて、次々に口からこぼれて行く。

「ごめん」

自分でも、今更何を言ってるんだろうって思うのに、コーイチは、静かな様子のままで謝罪の言葉を口にしてくれる。

そこで、やめておけばいいのに。


「今日だって、コーイチが誰もいないから、って言うから、会社まで行ったのに、秘書の人がいたでしょ。わたし、恥ずかしかった」

「あいつ、何か言ったのか？」

「わたしは正式な婚約者じゃないって。こんなところまで来てどういうつもりだって」

そこまで言うと、コーイチの声にわずかに苛立ちの色が生まれた。
「悪い、ちゃんと話す。だから、俺に会わないで帰ったのか」

「仕事の邪魔しに来たって思われてるのに、会わせてくれなんて言えないもん」

「好きなように思わせとけ。俺、一目でもミクに会いたかったから、用事を頼んだのに」

そんなこと、言われたら。わたしの頭は、溜め込んだ不満の中に、小さな満足感も混じって、混乱してくる。

熱い油の中に、水滴が落ちたみたいに。


「わたしだって、いつもいつも、会いたいのを我慢してる。わたしだって、こんな状態で、婚約者だなんて言えないってわかってる」

「…なにそれ」

体を離してわたしを見ているコーイチの声が、少し低くなったこと、気がついているのに、言葉が止まらずに溢れて来る。
「一緒に住んでるのかどうかどころか、付き合ってるのかどうかすら、わからなくなってきた」

「どういう意味だよ」

コーイチが、わたしの目をまっすぐ見つめてきているだろうに、しっかり顔をあげてその顔を見ることもできないままで、蓄積した不満だけが口から流れ出て行く。


「コーイチは仕事ばっかりで、わたしとすれ違ってばっかりじゃない。祥くんはもうちょっと早く帰ってきてくれたし、休みの日は一緒に過ごせ」

「それ以上言うな」


言っちゃいけないっていうことが、自分でもよくわかってるはずの一言が飛び出した瞬間、コーイチの手がわたしの口を塞いだ。
「聞きたくなかった」

わたし自身も、はっと我に帰って、コーイチの顔をまともに見てしまった。コーイチの目が、険しさと痛みを孕んで、わたしを捕らえている。

掴まれた肩や、押さえられた口も、痛いけど、もっともっと痛いのは、そこじゃない。

「そうやって、いつも元彼と俺を比較してたんだ？」

聞いたことがないような冷たい声。でも、そんな声を出させたのは、わたし。痛いのは、わたしの心。でも、それ以上に痛むのはきっと、コーイチの心。

わたしは、コーイチに口を塞がれたままで、なんとか首を横に振って見せるけれど、コーイチの表情は晴れない。

もちろん、わたしだって、四六時中、コーイチと祥くんを比べていたわけじゃない。

でも、帰って来ないコーイチを待ち切れずにひとりで眠る時、朝ごはんをひとりで食べる時、休日の時間を持て余す時。

そういう時にふと、祥くんと暮らしたときのことを思い出すことがあった。

戻りたいわけじゃない。祥くんともう一度恋人になりたいわけじゃない。
ただ、コーイチとも、もっと一緒にいたいと思うだけだったのに。


「セックスも、そいつの方が上手いの？今から比べてみる？」


息を呑んだときにはもう、硬い床の上に押し倒されていた。

そう言えばまだ、わたしは靴を脱いで玄関から廊下に入っただけで、部屋の中までたどり着いてもいなかったんだ。そんなどうでもいいことに、ここで気がつく。

ぶつけた背中が痛くて、床に押し付けられた手首が痛くて、でもそれは、わたしがコーイチを傷つけた代償なのかもしれない。

乱暴に唇を割って、舌を吸われるのに、それが嫌だという意思表示すら上手くできない。

その代わりに、目の奥が熱くなって、たくさんの涙が湧いてきた。


「嫌なのかよ」


コーイチは、唇を離して、ぽつりとそう言った。
「もっとミクに時間を割く男になら、抱かれるんだろ。これまでは求められたら、断らなかったんだよな。じゃあ、俺が仕事辞めれば、好きなときに抱かせてくれる？それで、ミクは満足か？」

返事をすることどころか、コーイチの表情を読むことすらできなくなった。

このとき、表情だけじゃなくて、きっと、コーイチの気持ちだって、分からなくなったんだと思う、わたしには。


再びの強引なキスは、わたしの心をぴしぴしとひび割れさせて行くみたいだ。いつものように、わたしの反応を慈しむような、コーイチの優しさが、そこには感じられない。

そっと指を絡めてくれるはずの手も、わたしの手首を床に強く縛り付けているだけ。抱きしめてくれるはずの腕は、肩を押さえつけて、わたしのありもしない抵抗を予防しているだけ。

首筋を這う、唇の感触にも、涙しか出てこない。

わたしが悪いのだという思いが、コーイチに嫌われたくないという気持ちが、わたしから拒否する勇気を奪っていく。


「そんなに嫌なんだ」

詰まっていた呼吸は、いつの間にか嗚咽に変わり、体がかたかた震えていた。コーイチが、体を起こしてわたしを放すと、その震えは隠しようもないほどだった。

これだけ体が拒絶反応を示していながら、嫌じゃないと言うこともできない。

涙でよく見えない視界の中、一瞬捉えたコーイチの顔。それは、わたしが失言をしたとき以上に傷ついたような、痛みに耐えるような、表情で。

背中を向けたコーイチが、玄関の扉の向こうに消えて行くのを、そのままの姿勢で泣きながら見ているしかなかった。


わたしが、悪いんだ。

でも、コーイチだって、悪い。


原因は、わたしの言ったことにあるけれど、その後は言葉で、態度で、お互いに傷つけ合ったことになるだろう。


お互いに好きなはずなのに、どうして、こんなことになるんだろう。

翌朝は、月曜日。当然、わたしもコーイチも仕事がある。

目が覚めて、ずきずき痛むこめかみを押さえながら、一緒に暮らすようになって初めて、朝からコーイチと顔を合わせなくて良かった、と思ってしまった。

あれから、コーイチが家に帰って来たのかどうかははっきりしない。浅い眠りと覚醒を繰り返して一晩経ったけれど、その間にコーイチの気配を感じることはなかった。

完全な泣き過ぎと睡眠不足で、頭は朦朧とした状態だ。今朝はコーイチの痕跡を探す元気もない。



習慣とは、ときに、ありがたいものだ。

いつもの時間の、いつもの電車に、乗車。決まったルートで、会社に到着。

隣で、呆れ顔で、ライバルがこっちを見ていても、無視。お客さんにはなんとか、笑顔で接客。理央さんの心配そうな視線にも、気がつかないふり。

「部長さん」の部屋には近付かないことにした。スケジュールをチェックしておいて、避け倒した。あの人に感づかれたら、面倒な気がして。故郷の母親にも話が届きそうだし。

終業時刻が過ぎ、今日やるべきことが片づいたら、一気に気が重くなった。

わたしのアパートに帰ったところで、コーイチと顔を合わせる可能性はそれほど高くないけれど。会社にいる時のようにゼロではないからだ。

まあ、夜中にコーイチが帰って来たことに気がついても、寝たふりしていよう。

そう思いながら、電車に揺られていると、急激に悲しくなってきた。

好きな人と一緒に暮らしてるのに、その人と会えるかもしれない家に帰るのに、それが嬉しくない自分が。

それどころか、その人を避けようとまで考えている、自分が、悲しい。

わたしが放った不用意な一言は、コーイチだけじゃなくて、わたし自身の首もしっかりと締め付けている。



がちゃりと鍵を開けて、暗くなった部屋に入ると、やっぱり、しんと静かだった。

安堵と寂しさとが混じった暗い気持ちで、いつも通りに部屋に入ったけれど、突然、緊張が解けて、ぺたんと床に座り込んでしまった。
「おかえり」


予想外にそんな声が聞こえて、息が止まりそうになった。

こわごわ振り返ると、ソファにコーイチが座っているのがわかって、あっという間に緊張が戻ってきた。

「ただ、いま」

絞り出した声は、かすれていて、喉が震えた。


はあ。はっきりと大きく息をついて、コーイチは一瞬だけ、目を閉じた。


「昨日はごめん」

まっすぐにわたしを見て、コーイチはそう言った。何か返事をしようと思うけれど、喉に何かが詰まったみたいに声が出ない。

「まだ、俺が怖い？」

わたしの方へと伸ばしかけた手を下ろしながら、コーイチは、そう言った。
そう、だ。わたし、怖かったんだ。


目を逸らし続けていたその感情に気がつくと、目からぽろぽろ涙がこぼれて来た。

「悪かった」

コーイチだけが、悪かった、だろうか。涙の向こうで、コーイチが辛そうな顔をしていることは、わかっている。

「わたしも、ごめんなさい」

わたしだって、悪かった。ひどいことを、言った。


怖いのは、コーイチが強引だったから、だけじゃない。

まだ好きなのに、こうして傷つけ合っているうちに、いつの間にか心も離れて行くんじゃないかと、早くも考え始めていたからだ。

だからって、自分からコーイチに歩み寄る勇気もなくて、彼を失う怖さのあまり、むしろ避けようとすらしていた。
「仕事は？」

こんな時間に、暗い部屋でぼーっとしてる暇は、わたしならともかく、コーイチにはないはずだ。

「抜けて来た」

そっか。まだ仕事は残ってるんだ。

つまり、まだ帰れるわけじゃないけれど、わたしと顔を合わせるために、コーイチは一旦ここに戻ってきた、ということだ。すでに逃げ腰だったわたしとは大違い。

そう言えば、わたしと紗彩との3人で飲み歩いていた時期にも、飲んだ後に、コーイチだけ会社に向かう日も多かったっけ。

あのときよりも、ずっと、仕事上の責任が重くなっているに違いないのに。

そんなことをぼんやりと考えている時、コーイチがこう言った。


「俺、好き合ってるのに別れるとか、絶対納得いかないから」


胸がずきんと、甘く痛んで、涙の種類がはっきりと違うものになったことに、わたしは気がついている。
祥くんと別れて、ボロボロの状態だったわたしの前で、コーイチはこう言ったことがある。

『好きな女から離れること自体、理解できない。諦めたり引き離したりする努力をするよりも、一緒にいるための最善の策を考えるべきだろ』って。

あのとき、わたしだってそうだと、思ったはずだ。

まっすぐに向き合おうとするコーイチと、そうありたいと望みながらも、状況によってはそれを諦めてしまうわたし。

今まで、付き合った人に流されるように、恋愛を続けて来たわたしが、コーイチとなら、自分らしく向き合えると思っていたのに。

ちょっと不安になったり、傷ついたりすると、また、元のわたしに戻りそうになっている。

大人になってしまうと、そういう性格というか、恋愛の傾向っていうのか、それは、なかなか変えられないんだろうか。


「わたしも、そう思ってるよ」


これを、言葉にできたことで、少しでもわたし自身が変われるといい。そんな希望を抱きながら、わたしはようやくコーイチの目を見つめ返すことができた。
そのわたしの目は、まだ何かを恐れているのだろうか。何かを迷っているのだろうか。

コーイチは、小さくうなずいて、ようやく硬い表情をいくらか緩めはしたものの、もうわたしに手を伸ばそうとはしなかった。

そして、わたしも、彼に触れようとはしなかった。