結婚したいから!
「休暇に入ったら、俺の親に会いに行こう」
その一言に、わたしはいつの間にかぽかんとした。
「口、開いてるけど?」
くすり、と久しぶりにコーイチが笑うから、思わずドキリとしてしまった。
「いやいや、今のこの状況で?」と、口に出しそうになって、すんでのところで踏みとどまった。
あれから、つまり、コーイチとの仲がぎくしゃくし始めてから、1週間は過ぎた。だけど、相変わらずわたしたちは、すれ違いの毎日を過ごしている。
それだけじゃない。いまだになんとも表現しがたい微妙な空気の中、お互いにどうしたらいいのか模索してる、という状態だと、わたしは感じているのに。
「遊びに行くの?」
どうして、このタイミングで、コーイチの親に会うのかがいまいちわからずに、そう尋ねると、コーイチが噴き出した。
「結婚の報告をしに行く」
…まさか、だよね。コーイチって、やっぱり考えが足りない人なのかな。
わたしは呆気にとられて彼の顔を見つめるけど、逆に不思議そうに首をかしげられてしまう。
「俺、いつまでもこのままでいるつもりはないけど?」
かあっと顔がほてってきて、コーイチが結婚してって何度も言ってくれた時期のことをありありと思いだしてしまう。
そりゃあ、わたしだって、この状況を何とかしたいとは思っていたけれど。
だからって、急に親に結婚の報告って、どうなんだろう!荒療治すぎないだろうか。
「で、も。ゴールデンウィークだって、仕事があるでしょ?」
カレンダーを見ながら、そう言ってみる。長いお休みまで、あと2日。
これまでずっと、コーイチは、毎日仕事に出ていたから、当然ゴールデンウイークだってそうだろうと決めつけていた。
「いや、仕事はある程度、目途がついてきた。明日と明後日は、帰れないかもしれないけど、連休はなんとかして休む」
…それって、なおさら、どうなんだろう。
わたしは、再び沈黙してしまった。
だって、残りの2日間、コーイチが会社に缶づめで仕事を片付けたとしたら。わたしたちのこの微妙なすれ違いの気持ちは、どの時間を使って、修復すればいいんだろう。
ようやく、コーイチと過ごせる時間がまとまって取れそうだと言うのに、わたしは手放しでは喜べずにいた。
ほら、やっぱり。
わたしは、そう思って困惑しながら、席についているご両親をちらちら見ることしかできない。
結局、宣言通り、コーイチは二晩戻って来なかった。そして、三日目の夜に帰って来たと思ったら、「明日、俺の家に行こう」と言ったのだった。
いくら睡眠時間が短めでも平気なコーイチも、さすがに疲れ果てていたらしく、連休初日は昼まで眠っていた。
彼の寝顔を見つめるわたしは、複雑な気持ちで、何度もため息をついて。
それでも、無下にコーイチの誘いを断ることもできず、彼の実家にまで来てしまったのだ。
わたしには場違いな、豪奢なダイニングで、メイドさんだか給仕さんだかよくわからない人たちが、入れ替わり立ち替わり、料理や飲み物を運んで来てくれるけれど、味もよくわからないくらい緊張している。
救いを求めるような気持ちで、隣に座っているコーイチをちらりと見るけれど、彼は表情を隠したよそいきの顔をしているだけだ。
手を伸ばせば届きそうなその距離も、ずいぶん遠くに感じて、小さくため息をついてしまい、慌てて咳払いをして誤魔化した。
「嬉しいわ。わたくしはね、こうなるような気がしていましたから」
良く通る声に、慌てて、意識を向かい側のご両親に向け直す。にこにこと艶やかな笑みを浮かべて、わたしとコーイチを交互に見ているのは、わたしの向かいに座っているお母さん。
ああ、やっぱり、絶世の美女タイプ。コーイチの綺麗さとは種類が違う。
「海空さんは、一度遊びに来てくれたわね?」
首をかしげながら、じいっと見つめられると、こちらが隠れたくなるくらいに美しい人だ。
「は、い。友人とふたりで、お邪魔しました。突然で、すみませんでした」
確か、紗彩と、興味本位でコーイチの部屋を見に来たのは、事前連絡なしだったと思う。ふたりで買い物に出たついでに挨拶に寄ったら、コーイチは不在で、お母さんが出てきて下さって、恐縮したのを覚えている。
バカだなあ。今、思い出したら恥ずかしい。まさか、コーイチと付き合うようになるなんて、思ってもみなかったから。
それを別にしたって、一人暮らしならともかく、実家暮らしの男友達の家に、突然行くってどうなんだろう、わたしと紗彩。
まあ、そのくらい、気安い関係だと思っていた、っていうのはあるんだけれど。
「晃一さんはね、ここに人を呼んだりしないの。と言うよりも、家の場所を知らせるのも嫌みたい」
それ、は。
コーイチがしてくれた、学生時代の彼女の話を思い出した。きっと、家や財産を目当てに、女の人が近寄ってくるのが嫌だったんだろう。
「お母さん」
涼しい顔のままで、ようやくコーイチが、制するようにそう言葉を発した。お母さんは、ぺろっとかわいらしく舌を出して見せた。
「それだけ、海空さんに気を許してるって言いたかっただけよ」
にっこりと微笑まれて、わたしはやっぱり困ってしまった。
「まだ早いんじゃないか」
突然、お父さんがはっきりと力強い声でそう言ったから、何の話かと思った。顔を向けると、お父さんは、まっすぐにコーイチを見ていた。
コーイチが、わたしに気を許すのは、まだ早いって意味だろうか?
お父さんが発言する前の場面を思い返すけれど、よくわからずに、一見無表情に見えるコーイチの顔を見つめることしかできない。
「なぜですか」
コーイチが、無機質な声でそう言ったから、彼にはお父さんの言いたいことが伝わっているのだとわかり、驚いた。
すると、なぜかここで、お父さんがじいっと斜め向かいのわたしを見つめてくるから、背筋がちがちにこわばるほど緊張した。
「海空さんは、お前に気を許していない」
はっと息を呑んだのは、わたしだけだったように思う。
「たまたま、喧嘩したところなのです。ご心配なく」
コーイチがすらすらとそう述べたものの、冷たさを増した目が、少しムッとしたらしいと、わたしにもわかった。
「それなら、仲直りしてから出直してこい。海空さんが幸せいっぱいって顔で来られるようになってからだ」
どっちかっていうと、強面のお父さんが、そこまで言った後に、わたしをちらりとみて、にっと笑った。
危うく、涙が出そうになった。
「歳をとると、めっきり酒に弱くなってね。私はこれで失礼するけど、海空さんはゆっくりして行って下さい」
わたしが何と答えていいかとあたふたしているうちに、お父さんが、早々に席を立つ。それを見て、お母さんが、はあ、と大きなため息をついて見せた。
「さっさと籍だけ入れて、海空さんに逃げられないようにした方がいいのに」
ええっ!?
ぽつりと呟いたお母さんをまじまじと見上げてみるけれど、もうそこにさっきまでの笑顔はなく、さらにびっくりした。
「晃一さんが結婚しようと思った子は、あなたしかいないんだもの。逃がすわけにはいかないんだけどな」
お、お母さん。発言や視線が怖いんだけど。獲物を狙う美しい虎のように、わたしをじいっと見つめている。
「結婚さえしちゃえば、どうせすぐに仲直りするに決まってるのに」
そこで、いたずらした子どものように、にんまりと笑ってみせる、お母さん。
「わたくしはまだまだ飲み足りないんだけど。お父さんを一人にするのも心配だから、ね」
そう言って、席を立ったお母さん。
今ははっきりと、むすっとすねた顔になっているコーイチに気がついて、思わず噴き出しそうになった。
つまり、わたしたちは、結婚を反対されたことになる。
だけど、お父さんにはお父さんの、お母さんにはお母さんの、コーイチだけじゃなくて、わたしに対する愛情まで感じられて。
自分では、なんとか隠しているつもりだったけれど、コーイチとの付き合い方を模索してくよくよ悩んでいるのを、ふたりともとっくにお見通しだったんだろう。
でも、わたしには、申し訳ない気持ちの他に、ほっとする気持ちもあった。
「何、安心した顔してんだよ」
それに気がついてしまったらしい、コーイチの声に、慌てて顔を引き締めた。この、バカ正直な顔め!
「ミクはもう、俺と結婚したくなくなったの?」
「そ、その話は、また後で」
何人もの人が、まだこのダイニングルームにいるって言うのに、そんなことを言いだすから、わたしはひとりで真っ赤になった。「いや、わたしも結婚したい!」とか言えるはずもないだろう。
「誰も口外しないから」
「そ、そうかも、しれないけど」
さっきまでの、ご両親を前にした緊張もいまだに消えないうえに、人前で結婚だのなんだの言い出したコーイチと話すのも恥ずかしくてたまらず、慌てて目の前のお酒をあおった。
「あー、酔うぞ、ミク。それ、度数が高い」
ごほっ。そんなのわたしの手元に置かないでほしい。確かに、喉がひりつくのは、アルコール度数が高いせいだろう。
「もう飲んじゃったよ…。コーイチ、ちゃんと連れて帰ってくれるよね?…あれ?」
そう言いながら、コーイチを見ると、その口元で、ちょうど傾けられているのはワイングラス。
「無理。とっくに何杯も飲んだし。今日は泊まって行けよ」
「む、無理!何の準備もしてないし!」
「ゲスト用に何でもそろってる」
「こんな豪華な家じゃあ、落ち着いて眠れない!!」
「俺が抱いてやる」
そこで、明らかに誰かが咽た。このダイニングルームの中の、誰かが。
「ちょ、変な言い方しないで!」
「何が変なんだよ。いつものことだろ」
「いいいい、いつもじゃない!」
わたしが怖がったせいか、あれ以来、指一本触れて来ないくせに。人の目を意識して慌ててるわたしを、あえてからかってくるコーイチ。
でも、まだ、こうして、人前にいる方が、いいのかも。
かえって、以前のわたしたちみたいに、話すことができる気がするから。
「…無理だ」
何度めかの「無理」を、はっきりと言うコーイチの顔は、不機嫌そのもの。
次第におろおろしてきたわたしは、まだ別れの言葉もないままに、コーイチが通話中だった携帯電話を切って、電源まで落としてしまうのを、ただ見ていた。
「誰だった?」
状況が、読めない。終始、コーイチは、無理、と短く答えるだけで、ほとんど電話の相手が話している様子だったから。
「秘書」
ああ、あの意地悪なおじさん。…って、よくあの人に「無理」とか連呼できるね、コーイチ。
「仕事の電話?」
「まあね」
連休の二日目。
昨日は、仕方なくコーイチの家のゲストルームに泊まらせてもらった。広くてふかふかのベッドに興奮して、眠れるはずないって思ってたのに、あっさりと熟睡してしまったわたし。
お酒のせいか、緊張し過ぎて疲れたせいか、高級ベッドの寝心地が良いせいか、わからないけど。
とっくに目覚めていたコーイチに笑われながら、支度をして、わたしの粗末なアパートに戻ってきたところだった。
コーイチの携帯電話が鳴ったのは。
それからは、みるみるうちにコーイチの機嫌が悪くなった。
「切っちゃって、いいの?」
「いい」
仕事の電話なのに、大丈夫だろうか。
結城家の養子になってから、いくらかの葛藤を経て、仕事を始めたコーイチは、思いのほか仕事がおもしろかったって言ってたはずだ。
何年もかけて、新しい家や環境に慣れ、仕事を覚えたんだろう。
電話を切ったものの、口数が少ないままのコーイチは、きっと、仕事のことを考えているはずなのに。
それを口にしないのは、わたしに気を遣ってるんじゃないだろうか。
コーイチは仕事ばかりしてるって暴言を吐いた、過去の自分を呪うけれど、今更どうしようもない。
せっかくの貴重な休みを、コーイチとゆっくり過ごしたい、っていう気持ちと、コーイチの仕事を応援したいって言う気持ちが、わたしの中でせめぎ合っている。
「ちょっと、おでかけしよ」
そう言って、コーイチの前に立つのは、思いのほか緊張した。ほら、そうやって綺麗な目をちょっと開いてわたしを見る。
部屋の中では眼鏡をかけないコーイチに、まだ慣れない。
「どこへ?」
「ん、散歩」
そう言うものの、わたしは、コーイチの手を引いて、電車に乗った。コーイチは、不思議そうにわたしを見るけれど、まだ黙っている。
わたしはと言えば、正直なところ、手を繋ぐのだって、久しぶりで、体が強張っている。
別に、コーイチのことを嫌いになったわけじゃないのだから。
「どういうつもりだよ」
コーイチが、困惑した顔で、ようやく言葉を発した。
萩原コンサルティングサービスより、さらに背の高い社屋の前には、「結城不動産」の社名を刻んだ石のプレートが見える。
「わたし、待てるよ」
意を決して発した言葉は、思いのほか弱々しかったけど。
「仕事、好きでしょ」
そう。コーイチは、なんだかんだいって、仕事が好きなはずだ。だからこそ、腹が立った。イライラした。
仕事とわたしと、どっちが大事なの、って問い詰めるつもりは、さすがになかったけど。
でも、常に、わたしよりも仕事を優先してるんじゃないか、っていう疑いは晴れなくて。
コーイチは、わたしの問いに、バツの悪そうな顔で、頷いた。
「コーイチが気になってる仕事が、片づくまで、待てる気がしてきた」
まだ、それは、確証を得られるほど強い気持ちではないけれど。
とても結婚できる状態じゃないわたしを実家に連れて帰ったり。秘書からの仕事の電話を強引に切ったり。
コーイチなりに、なんとかわたしを大切にしようと、気持ちを表現してくれていることは、伝わってくる。…下手だけどね!ひとつも、上手くいってないけど。
「行って来て、いいよ」
きっと、あの秘書は、コーイチを、急な仕事のことで、呼び出したんだろうから。
まだ迷っている様子で、コーイチが口を開くから。その言葉を聞いて、わたしの決意が揺らぐ前に。
「わたし、忙しいの!今から晩ご飯作るから!」
「は?」
「料理は苦手だから、きっと、ずいぶん時間がかかると思うんだよね」
「……」
「できる頃に、帰ってきて。まずくても、ちょっとは食べてね」
「もちろん」
ようやく、コーイチは微かに笑った。それを見て、わたしも笑ったつもりだけど、ずいぶんみっともない笑顔になったことだろうと思う。