結婚したいから!

戻ってきた、コーイチの会社の仮眠室で、買って来たものの包装を解きながら、わたしは意を決して切り出した。


「コーイチ、ごめんね」


「ん、なに?」

コーイチがはっとして顔を上げる。

「その…、祥くんと比べたりして」

わたしたちは、あの日のことを、お互い謝罪はしたものの、わだかまりを溶かすまでには至っていないはずだから。

「ああ、びっくりした。俺、振られるのかと思った」

ため息をついて、かすかに笑みを漏らすコーイチに、「そんなわけないでしょ」って、赤い顔して小さく呟いた。


「コーイチと別れて、祥くんとまた付き合いたいなんて、考えたこともないの。ただ、もっと、コーイチと一緒にいたかった。こんなふうに、ごはん食べたり、買い物したりするだけでも、いいから」

わたし、もうちょっと辛抱強かったはずなんだけどな、とも思う。遊び回っていて捕まらないならともかく、仕事で忙しいなら待てるはずなのに、と。

「うん。わかってる」

コーイチは、静かにそう言うと、手を休めてわたしの話を聞いてくれている。

そう、まるで、「親友」だったときみたいに。

「だけど、我慢しなくちゃいけないって思うから、それを上手く言葉にできないうちに、イライラがいっぱい溜まっちゃって。ただ、祥くんと一緒に過ごせた時間と、コーイチと一緒に過ごせた時間の長さを比べてただけなのに、祥くんとコーイチを比較したみたいな言い方になったんだと思う」

だいたい、共有する時間の短さに不満を言うより前に、一緒にいたいって言うべきだったのに。


「わかってる、つもり、だった」

いくらか「つもり」の部分を強調して、コーイチがため息をついた。

「ミクの気持ちが俺にあるってことは。でも、ミクにとってその幼馴染は、一生特別な位置にあり続けることだって、確かなことだろ?だから、たとえ比較されたって構わないと思ってたのに」

お酒を飲んで、紗彩と3人であれこれ愚痴をこぼしていた「独身同盟」時代に、話したことを、ちゃんと憶えてくれているんだろう。わたしのことを、これまでのことを、よく理解してくれていたんだと思う。
確かに、ひどく傷ついて、二度と会えなくなっても、祥くんが私の記憶から抹消されることはない。

「それなのに、いざ、ミクの口からミクの言葉で聞いたら、想像以上にキツかった」

比較されてもいいと覚悟してくれていたコーイチでも、ショックを受けるような言い方をしたのはわたしだ。

「ごめんなさい」

コーイチの気持ちを想像して泣きそうになるけれど、堪える。

わたしなんて、コーイチに一方的に好意を寄せているらしい深雪さんや佐竹さんにさえ、こんなにイライラさせられているのに。


「いや、俺の方こそ」

気まずい顔になって、コーイチが視線を下げる。

「怖い思いをさせて、悪かった」

廊下で押し倒したことを言っているのだと思う。堅い床が痛くなかったわけじゃない。いつもと違って、険しいコーイチの目に、驚かなかったわけでもない。

でも、一番怖かったのは。

「怖いのは、コーイチじゃなかった」


わたしがそう言うと、ようやくコーイチがそっとわたしの目を覗く。

「また、好きな人を失うんじゃないかって怖かった。コーイチのことが大好きなのに、傷つけ合って、いつの間にか離れてしまうんじゃないかって」

だめだ、今度こそ、耐えきれなくなって、涙がぽたぽた頬に落ちる。


「もう、コーイチがいないと、困る。コーイチを失ったら、今度こそ、立ち直れない」


絶対に、その穴は埋められないと思う。

「俺、ミクから離れる気なんて、全くないけど」

「一緒に過ごせる時間が短いと、イライラしてくるのに?」

「うん」

「安心して仕事に専念できないよ?」

「する気ないし」

「え?」

「仕事もミクも大事にしたい。どっちかひとつ選ぶとか、もう無理だから。このところ、すいぶんミクを我慢させたのはわかってるから、これからは一緒にいられるように時間を作る」

「それも面倒だね?一緒に暮らしてても、もっと一緒にいたいってごねるよ?」

「困ることはあるけど、面倒だと思ったことはない。拗ねてても落ち込んでても、ミクの顔が見れるなら、嬉しい。悪いけど、俺は毎日浮かれて暮らしてるよ」

そう答えたコーイチが、どうやら本当に幸せそうだと、わたしにも伝わってくるような笑みを見せるから、わたしの中のわだかまりはあっという間に、今度こそ、完全に溶けた。いや、溶けるどころか蒸発したのかも。

わたしが悩んでる間も、コーイチってこうやって楽観的に考えてたんだろうなあって思う。コーイチといると、わたしも前向きになれそう。

わたしも、浮かれて暮らせばいいんだ、なんて思えてくる。


「触ってもいい?」

コーイチが律儀にそう訊いて、わたしが頷くのを確認してから、濡れた頬を指でそっと拭ってくれる。

さっき「怖くない」って伝えたはずなのに、まだ遠慮してるらしい。だいたい、このフロアにわたしが到着した時、抱き締めたくせに、と思うと少し笑えた。


「わたし、コーイチになら、何されても平気」


安心させるつもりでそう言うと、コーイチが真っ赤になった。…あれ?

躊躇いがちに触れていた指のかわりに、コーイチが両手でわたしの頬を包んで、そっとキスをした。


「この状況で、そういう言い方されると、勘違いするけど?」


息がかかる距離でそう囁かれて、事態を飲み込んたわたしの顔もかあっと熱くなったことは言うまでもない。

そう言えば、誰も来ないフロアの、一室に、二人きりだった!正確に自分の気持ちを伝えたくて、話をすることに集中し過ぎていたらしい。

でも。
久しぶりに味わったコーイチの唇の感触に、反応した心臓がどくどくとうるさい。全身が、彼のことを好きだと叫んでいるみたいだ。


「勘違いじゃ、ないかも。何しても、いいよ」


ちっとも赤みが引かないコーイチの頬に、そっと触れてみると、やっぱり熱かった。


「コーイチ、大好き」

考えるより前に、コーイチの目を見ていると、自然に言葉がこぼれた。

「久しぶりに、飴がいっぱいだな」

ふっとコーイチが微笑む。優しい表情に、何かが胸にじわじわ沁みてくるみたいだ。

「あ、め?だ、だから、飴とか鞭とか考えてないってば」

前に、コーイチから飴と鞭のバランスが絶妙、と言われたことを思い出して、なんだか恥ずかしくなってきた。自分ではそんなつもりはない。ってことは、愛情表現にムラがあって、ただの情緒不安定だよね…。

「わかったけど。俺、ずいぶんミク不足だから、刺激が強過ぎる」

「わたしも、コーイチ不足だもん」

縺れていた糸は、解けた。

言うべき言葉ももう見当たらない。


長めの前髪と、伊達眼鏡の向こうに、ようやく見えるコーイチの目が、甘く色気を漂わせている気がする。

吸い寄せられるみたいに抱き合って、唇を合わせたら、あっという間に心の距離も体の距離も消えた。



「…ク。ミク、起きろ」

ゆらゆらと肩を揺さぶられて、薄く目を開けると、すでに部屋の中は明るくなっていた。

「んー…、今何時?」

ああ、まだ頭がぼーっとする。全然寝足りない。きっとまだ明け方なのだろうと思って、そう呟いた。

「6時半」

「もうそんな時間かぁ…、う」

まだ、下腹部が鈍く痛みを帯びたままだった。思わずそこを両手で押さえると、コーイチが顔を赤くしたから、ようやくわたしも目が覚めた。

「ごめんな、ミク。俺…、えっと…、まだ痛む?」

コーイチが言葉を濁す上に、お互いの肩がまだ裸だってことにも気がついて、わたしは顔中が火照り出してきた。

「だ、大丈夫!」

慌てて掛け布団を顔まで引き上げる。

当たり前だけど、コーイチが悪いわけでもない。お互いに「不足」だったのだから。わたしだって、眠ってしまうまで、嫌だともやめてとも言わなかった。

次の日仕事だってことなんて、すっかり頭から消えてしまっていた。

「疲れてるところ悪いんだけど…。柴田さ、朝早いから、7時くらいには来ると思うんだよな」


意地悪な秘書の顔を思い出した途端、わたしが慌てて着替え、あっという間に支度を終えたのは、言う間でもない。

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