結婚したいから!


食べ損なった朝ごはんを、早くから開いているカフェで取る。

あ、ヤバい、昨日のコーイチを思い出すだけで、ニヤけそうだ。慌てて顔の筋肉を引き締めて、目の前のサンドイッチを味わうことに意識を集中する。

なんとか、サンドイッチをお腹に押し込んで、お店を出た時間はまだ出勤には早かったけれど、わたしは萩原コンサルティングサービスに向かった。



柴田さんに会わないように慌てて飛び出してきたから、早く着いたのだけど、たまには早く仕事を始めて、早く帰るのもいいな。

また、今日もコーイチと晩ご飯食べたいし。

彼と一緒に過ごす時間を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩んでくるのに気がついて、わたしは自分の頬をぺちぺち叩きながら、誰もいないオフィスに入った。

久しぶりにクリアになった頭の状態で、自分のデスクを見ると、新規のお客さんに関する記録が、端に山積みのまま放置されていることに気がついた。コーイチとぎくしゃくしていて、落ち込んでたし、目の前の接客のスケジュールをこなすだけが精いっぱいだったんだな、と改めて、不器用な自分を情けなく思う。

プライベートの不調が、即、仕事にも影響するという、相変わらず迷惑なこの気質。

はあ。誰もいない空間に、妙にため息は響いたけれど、まあいい、落ち込むのはこの辺までにして、この書類の山を片付けよう。

えっと、「あ、い、う、え、お」と頭の中で五十音を順に唱えながら、顧客の名前をファイルに分けて、綴じていく。


「あ、か、さ、……え?」


ふと、気がついて、今まさに、手に取っている一枚の紙を凝視した。


佐竹 真奈  29歳 秘書


うちの相談所は、最初の面談の時から、身分証を見せてもらう。今後のことを考えて、初めからお互いに信頼しあうために、そして、顧客同士の安全を確保するために。

だから、本名で。本当の職業で。

彼女は、わたしを「どこかで見かけた」のではなく、「直接わたしに会いに来た」のだ。

だって、わたしを知人からの紹介だと言って、わざわざ指名したのだから。

紹介者の欄には、簡単に鈴木さん、と書いてあっただけだ。きっと、その姓の人が顧客にいる可能性が高いと思って、彼女はそう記入したのだと思うけれど、わたしのお客さんの中には、たまたま鈴木という姓の人はいなかった。

一瞬不思議には思ったけれど、勘違いか憶え違いだろうと、勝手に信じたのは、わたしだ。
朝の涼しく心地よかったはずの空気が、ひんやりとわたしの背中を撫でたように、背筋が強張ってくる。

花粉症だから、と大きなマスクをしていたあの人は、わたしと話している間、一度もくしゃみをしなかった。

わたしの薬指にはまった指輪を、「彼氏からのプレゼントですか」と尋ねた声が低かった。大抵の人は、「結婚されてるんですね」というのに、「彼氏」と言ったのは、わたしがコーイチと結婚してはいないと知っていたからだ。

知られているのは、アパートだけだと思っていた。

無意識のうちに、会社は安全だと考えていたのが間違いだと、思い知った。

佐竹さんに関する記録がかさかさと音を立てると思ったら、自分の手が震えているのだった。

さっきまでの浮ついた気持ちが嘘みたいに、わたしは暗い気持ちで、落ち着きなくフロアを見渡している。

あの人が、今もどこかでわたしの様子をうかがっていたら、どうしよう。誰もいないときに、目の前に現れたら、どうしたらいい?

その恐怖は、徐々に出勤してきた人たちの、声や音に消されて、小さくはなったものの、常にわたしの心の真ん中に居座り続けた。



だから、コーイチからメールを受け取ったとき、今日は大人しく会社の中で、しかもできるだけ他の人がいる場所で待っていよう、と思った。

From 結城晃一
Sub 無題
本文 ごめん。5時には間に合いそうにないけど、6時ごろに迎えに行く。

きっと忙しいんだろう。無駄な言葉がなくて、これがコーイチの仕事バージョンなのかな、と思う。

でも、今日は柴田さんじゃなくて、コーイチが来てくれるのかもしれない。文面から、確実とは言えないけれど、その可能性もあると気がつくと、わたしはますます、ここで待っていようと強く思った。


とりあえず強張ったままの体をほぐそうかと、せめてもの息抜きに、熱いものを飲もうと思い立って、ドリンクコーナーに紅茶を買いに行くことにした。

今日はノー残業デーの上に、定時を過ぎているので、事務所はともかく廊下には人気がなく、わたしはどことなく落ち着かない気持ちになってきた。

こんなふうに不安になるなら、わざわざ紅茶を買いに来ることもなかったのに、と思いながら、急かされるように自販機の紅茶のボタンを押した。

そのとき、女の人の、細い悲鳴が聞こえた気がした。こんな時間に、お客さんと面談をすることはないはずなのに、奥のブースから。

手に持っていたカップの紅茶を椅子の上にそっと置いて、ごくりと唾を飲むと、そのささやかな音がやけに廊下に響く気がして、ますます怖くなる。

でも、もし、誰かがブースの中に閉じ込められてたりしたら、大変だ。一日の最後の面談予定が終わったら、全てのブースに施錠する決まりになっている。

ちょっと確認したら、すぐに事務所に戻ればいい。自分にそう言い聞かせて、わたしはそうっと一番奥のブースの扉の前で、深呼吸をした。

部屋の照明は、点いていない。ドアのガラスから透けて、薄明かりが見えるのは、たぶん、ブースとブースの間にある給湯室の明かりだろう。とにかく、給湯室の明かりは消さなければいけない。

がちゃり。

あああ開いてしまった…。かかっていてほしかった鍵が、開いている。心臓がどっくんどっくんと嫌な音をたてて、わたしを一層怯えさせる。

「誰か、いますか」

中を覗きながら、こわごわ発したその声に、はっとこちらを見る目が4つ。わたしは、一瞬、状況が飲み込めずにそれらをじいっと見つめ返してしまった。


「そっか。鍵、かけてなかったっけ」


くすりと笑ったのは、まさかの香山慎。しかも、彼の腕の中には、見慣れない女の人がいて。
ぼんやりした表情の彼女をソファに横たわらせる、その手つきが嫌に慣れている。

「歩けるようになったら、帰ってね」

そう言われて、小さくうなずいた彼女の頬が、わずかに上気している。


まさか。

ひとつの可能性に思い至って、わたしは頭がガンガンしてきた。

『キスのひとつくらいしてやればよかったのに。で、次々に見合いの相手を紹介して、自分の駒にしておくと便利だよー』って、香山くんは言ったことがある。

まさか、その「駒」とやらの、役割を、香山くんは彼女に負わせているんじゃないか。

「九条さん。何の用事?明日の面談の準備とか?」

わたしの思考に気付く様子もなく、平然とそう言いながら部屋を出ていくから、慌てて後を追う。

ブースの境に設けられた給湯室に入ると、香山くんは部屋との間にあったドアに鍵をかけた。そこで手を洗ったかと思うと、素知らぬ顔で隣のブースに進む香山くんに、わたしは信じられない思いだった。

「違うけど。それより、あの人、お客様?この時間、面談のスケジュールは入ってなかったはずだよね」

わたしが、彼を追いかけながらそう言うと、ふっと愉快そうに笑われた。
「一応、お客様だけど、面談じゃないしね」

そう言いながら、がちゃりと、今度は給湯室のドアの鍵を閉めた。

「…悲鳴が聞こえたよ。だからわたし、見に行ったんだもん」

あの、女の人の表情。まさか、無理矢理キスしたところだったとか…。


「ああ、あれね、いっちゃったんでしょ」

……。

どういう意味、かな?

「何ー?処女でもあるまいし」

あはははっ、と心底楽しそうに笑うこの人、頭がおかしいんじゃなかろうか。

「あの人、欲求不満なんだよ。まあ、下手クソな男と結婚させたのは俺だしさ。責任とってあげてんの。ときどきね」

想像以上の内容に、上手く頭がついて行かない。

つまり、あの女の人は、元お客様ってこと?香山くんが紹介した人と、めでたく結婚したはずの人?

「大丈夫、手でしかやってないし。そのくらいのことで、旦那に罪悪感持たなくていいでしょ」

かあっと頭に、顔に、血が昇っていく。同時に、なんだか念入りに手を洗ってるなってさっき感じたことも思い出した。

あの女の人の罪悪感を量るよりも前に、香山くん自身は、全く罪悪感を感じないんだろうか。

「ひ、どい」

そう呟くと、香山くんが、すうっとヘラヘラ笑いを消した。


「ひどいのは、どっち?」


すっと伸びた手が、わたしの手首を掴んだ。

「欲求不満って丸出しの顔で、仕事すんの、やめてくれないかなぁ」

「は?」

何かが、あっという間にすり替えられた。

さっきまで、わたしが香山くんを問い詰めていたはずなのに、なんだかわたしが責められるような視線を向けられているように感じるのは、気のせいだろうか。

いつもなら、簡単に解けた手が、解けない。そのことに気がついたら、わたしはさっきまでのひりつくような怒りを忘れて、ようやく焦りを感じ始めた。

「すげぇ、イラつくんだよねー」

ふわふわの前髪の奥で、いつもなら覇気のない両目がぎらっと光るみたいで。
「わたしの、こと?」

なんとかそう訊いてみるものの。

「あんた以外いないでしょーが」

即座にそう言い返されて、黙り込んでしまった。

「上手くいってないんでしょ、結城さんと」

どきり。一度だけとはいえ、コーイチと面識のある香山くんに、そう言われると、いちいち堪える。「まさか、彼氏じゃないよね」って言われた。

どうせ、今だって、わたしじゃコーイチとは不釣り合いだって思ってるんだろう。


「そ、んなことは、ない」

縺れていた糸は、昨日、解けたはずだ。

でも、佐竹さんがここに来ていたとわかってしまってから、わたしはすっかり怯えている。それを、まだ落ち込んでいると勘違いされているのかもしれない。

たしかに、昨日まで、わたしは、コーイチとの間がぎくしゃくしていて元気がなかったのだから。彼との仲が上手くいっていないと思われても、仕方ないのかもしれない。


「ひっ」

突然、スカートの中の太股をするりと撫であげられて、変な声が出た。
何か言い返そうとあれこれ考えていたはずなのに、頭の中は真っ白になってしまって、がんがんしてきた。


「俺、その不満を解消させてあげられるかもしれないけど?さっきの彼女みたいに」

香山くんの顔が近付いたから、慌てて顔をそむけたら、むき出しになった耳をぺろりと舐められた。

「や、だ!やめて!意地悪も、度が過ぎるよ」

今までだって、むやみに距離を詰めてきたり、触ってきたりすることはあったけど、たいてい簡単に離れてくれたのに。

「意地悪ぅ?まあ、たしかに、意地悪な気持ちもあるなー。なんか、気になるんだよね、九条さんって。幸せそうなアホ面してるなら、まだ我慢してるんだけどさ」

掴まれたままの手首が、一層力を込めて握られる。

「そういう不満そうな顔してるんなら、いっそ俺が、とか思っちゃうよね」

そう言って、ちらりとわたしを見た、香山くんの表情で、『あいつはミクに気がある』と言ったコーイチの声をはっきりと思い出す。気があるにしても、そのありようが、なんか違うような気はするけれど。


「む、り。コーイチ以外は、無理」


考えるより前に、言葉に気持ちが出ている。
「知ってるよ?あんた、結城さんにべた惚れだもんね。でも、満たされてない」

太股を這っていた手が、するするあがって行く。

「たぶん、心も体も、両方」

後ずさりしたら、机にぶつかって後ろに倒れそうになった。バランスを取ろうとしたのに、そのまま香山くんは、掴んだままだったわたしの手首を、机に押し付けた。

「か、からかうのは、やめて」

いつの間にか押し倒された格好になって、つま先がすでに床から浮いているから、焦りは最高潮になっていた。

「ん?からかってないけどー。ちゃんと、気持ちよくさせてあげるよ?少なくとも、体の方は満たされるんじゃないかなぁ」

そう言って、顔を近づけてくるから、今度は耳を見せないで、どう避けようかとおろおろする。そんなわたしを楽しそうに笑いながら、ふわふわ頭はわたしの服の襟もとに、顔を埋めた。

ちゅうって音がして、一瞬だけ、皮膚に痛みを感じた。

「い、いらない、何もしないで!放っておいて!」

まさか、今日は心身ともに満たされてますとも言えない。
ちらりともわたしの顔を見ることなく、香山くんがわたしの片足を持ち上げるから、もしかして、からかってるだけじゃなくて本当になにかされるのかもしれないと感じたら、背筋がぞわっとした。

とっさに指に触れたものを引っ張った。それはこの部屋の電話機の電話線で、あまりに勢いよく引いたせいで、本体はあっさりと机から飛んで、派手な音を立てて受話器が外れた。

もうちょっと、そうっと引きよせたら、どこかに内線電話でもかけられたかもしれない。

いや、そんなはず、ないか。


「へえ。泣き顔も、なんか、そそる」

そうか。混乱と恐怖と嫌悪が混ざり合って、わたしの目からは滴がぼたぼたこぼれ落ちていた。そんなこと気にしている余裕もないくらい、わたしは焦っている。

むっとして、睨み返すけれど、にっこりと微笑み返されて、わたしの眼力なんて、ふわふわの軽い頭に対しては、何の効果もないことを思い知るだけだった。

「笑った顔も滅多に見れないけど、ほんとに泣いた顔見るの、初めてじゃね?」

ぺろり、と目元の涙を舐めてくるから、首を振って、なんとか拒絶の意思を伝えようとする。
「指、震えてるけど。ほんと、俺、嫌われてんね」

当たり前だ!!こんなことしておいて、好かれるはずないだろ!!と大声で言ってやりたいのに、それはあくまでわたしの理想の中だけの声だ。

現実のわたしは、喉がからからに乾いて、張り付いたみたい。悲鳴の一つすら出ない。

「いっただっきまーす」

ふざけてるのか、相変わらず楽しそうな口調で、香山くんがどんどんスカートの中へと片手を滑らせていくのを、どうやって阻止したらいいのかわからない。

けれど、その手が腰のストッキングの履き口に辿りついて、指を引っかけたと感じた瞬間、コーイチの顔がばちばちと頭の中に点滅したような気がした。


「いやーーーーーーー!!」


自分でも驚くくらいの大声が出て、さすがに香山くんもびっくりしたらしく、慌ててわたしの口を塞いできた。

「あれぇ?もう降参って顔してたのにね。まだ元気じゃん」

そう軽口を言いながら、わたしの耳元に、香山くんが顔を寄せたときだった。

がっつんと言う、荒っぽい音とともに、このブースの入口のドアが外れて、部屋の床にさらに派手な音を立てて倒れ込んだのが、スローモーションで見えた。
それをわたしが認識した時には、自分の体の上から、香山くんが吹き飛んでいた。


「てめえ、何やってたんだ」


…ああ、助かった。

仕事中とは違って凄味を帯びたこの声に、いいようのない安堵が心の中に広がっていくのを感じている。背広の上着をかけて、わたしの乱れた服装を隠してくれる、この人のおかげで。

「俺、真面目に口説いてただけっすよー。それより、部長こそ、彼女と不倫関係にでもあるんですか?ずいぶん親しそうっすね?」

まだ床に尻もちついてるくせに、動揺した様子もなく、減らず口をたたくふわふわ頭。

わたしは必死に「部長さん」にしがみついているのだから、何も知らない人が見れば、不倫してるみたいに見えるのかもしれない。配慮がなかったかもしれない、そう頭では分かっているのに、指がしっかりと「父親」のシャツを握りしめて離さない。


「海空は俺の娘だ。泣かせるような口説き方するな。マジで首切ってやろうか」


「部長さん」が、そう言ったから、香山くんはもちろんだけど、わたしまで、ぽかんとしてしまった。

そ、その事実って、言ってもよかったんだろうか!?

「わかってんのか、香山。仕事を失くすって意味じゃないぞ。文字通りぶっ殺すからな」

うわ、完全に脅してる!殺人を仄めかしてる!!


「おおおお、お父さん、落ち着いて」

「…海空、まずはお前が落ち着きなさい」

まだぎらりと過激な光を放つ目を、香山くんに向けながらも、幾分和らいだ声で、「部長さん」がそう言ったから、ほんの少しわたしも落ち着いた。

それなのに、空気の読めない人が、ひとり。


「…隠し子かぁ?それにしても似てねーな」

ええい、香山慎!!


「うるっさいなぁ!」

「お前な!!その口、利けなくしてやろうか!」

親子そろって、反省の色のない香山くんを攻撃していたら、いつの間にか、体の震えは治まっていた。


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