結婚したいから!
鳴り続ける電話に、はっと我に返って、通話ボタンを押すと、案の定コーイチだった。
「ミク、どこにいる!?会社にいないから焦った!まさか、佐竹が」
ああ…、そうだった。佐竹さんという名のストーカーのことも、すっかり忘れてた。
「ち、ちがうの。いや、佐竹さんのこともあるんだけど。ああ、ごめん。いろいろあって」
会社で待っている約束だったのに、父に連れられて会社を出たのだった。
「えっと、とにかく、今はお父さんのマンションにいるから、大丈夫だよ」
わたしはまだ混乱しているらしく、上手く話ができない。もどかしいのはコーイチも同じらしく、焦った声が、聞えてくる。
「は!?いろいろって何だよ?」
「え、ええっと…」
「ミク!」
コーイチに心配をかけないように、かつ、叱られないようにするには、何て答えようかなあ、なんて考えていたのに。
「娘は会社で同僚に乱暴されかけた。しばらく私が預かるから、彼女が落ち着くまでは近寄らないでほしい」
父がわたしの携帯電話を奪うなり、一息にそう言うと、さっさと通話を終了してしまったのだった。
唖然としてその一連の行動を見ていたけれど、父はわたしの視線を気にする様子も一切なかった。
え、でも、今の答え方って、絶対にコーイチは心配するよね?
ようやくそこに思い至って、わたしは慌ててコーイチに電話をかけ直したけれど、もう繋がらなかった。
だから、マンションの部屋に、チャイム音が鳴り響いた時、もしかしてって思った。
父の家がここだってはっきり話したことはないけど、このあたりだってことや、父の名前は、コーイチだって知っている。
「近寄るなって言ったのに、何をしに来たのかな」
玄関先で、聞いたことのないような冷たい声を、父が吐いたからびっくりした。
「海空さんを、迎えに来ました」
はあ、と父はため息をついて、黙り込んでしまったけど、わたしはコーイチの顔を見たらほっとした。
やっぱり、来てくれたんだ。わたしは、いつの間にか、彼が来るのを自分が期待して待っていたんだってことを、自覚する。
コーイチが、まだ乱れる息で、なんとかそう答える様子に、ずいぶんと胸が高鳴ったから。
慌てて来てくれたんだろうな。わたしが落ち込んでいるときに、アパートに駆けつけてくれたときのことを思い出した。
いつもならさらっと下りている髪が後ろに流れていて、珍しく額が見える。上着も手で掴んだままだ。
…ん?
「コーイチ、眼鏡は?」
武装用の伊達眼鏡が見当たらない。父親としての「萩原勇哉」に会うのは、これが初めてだし、会うのが少し怖いって言ってたのに、なんで眼鏡かけてないんだろうって思う。
「忘れた…」
呆然とした様子で、コーイチが答えるから、おかしくなってきた。
「それに、鞄は?」
「忘れた」
「ケータイに電話もかけたのに」
「それも忘れた」
コーイチってば、どれだけ慌てて来てくれたんだろう。お父さんの家にいるから大丈夫だって言ったのに。
いよいよ耐えきれなくなって、くすくす笑ってしまった。
「お父さん、上がってもらってもいい?」
念のためそう訊くと、返事もしないまま、父がコーイチを怖い目でじいっと見ていたから、びっくりして危うく涙が出そうになった。
「お父さん?」
わたしの顔色を見て、はっとした父が、ようやく無言ではあるけれど、頷いてくれた。
ダイニングで、彼らにコーヒーを入れたところまでは良いものの、重苦しい沈黙に圧死しそうだ…。
「お父さん、ありがとう。わたし、もう帰るね」
耐えきれずに、そう切り出した。ここに3人でいるこの空気に耐えられない。
「どこに」
冷たい視線をコーイチに向けたままで、父がそう言うから、泣きたくなる。何だろう、この予想以上に好戦的な父の態度は。
「コーイチの会社に」
仕方なくそう答えると、今度こそ、父はコーイチに言葉をかけた。
「君と付き合ってから、娘が幸せそうな顔をしていたのは、ごく短い期間だったんだが」
ぎくっ。あれだけ避けていたのに、父にも気付かれていた、らしい。
「仕事に時間を取られて、彼女に寂しい思いをさせたことは、申し訳ないと思っています」
「怖い」って言ってた割には、目もそらさず冷静に答えるコーイチに、ちょっと惚れ直し、たりする…。
「今、娘が自分のアパートに帰れないのも、君のせいだろう。付きまとう女性とは、本当に何もなかったのかな」
「ありません」
間髪いれずにコーイチが答えるから、父が小さくため息をついて、ようやくわたしの方をちらりと見た。
「娘と見合いをしたころに、関係があった女性は?」
憶えていたか!父の記憶力と、わたしの前では素知らぬふりをしていた精神力に舌を巻く。
「関係も何もありません。あれは、彼女なりの営業活動に過ぎませんから」
わたしとは対照的に、相変わらず動揺を見せないコーイチ。
「キスが?」
「はい」
「でもそれは」
「お、お、おとおさあん!!」
あれ、なんか発音が変になった。けど、構ってられない。
「わたし、その話はもう聞きたくない」
思い出して、劣等感を持ったり、自己嫌悪に苛まれたりするのは、もう嫌だ。半べそかいてるわたしに気がついて、ようやく父が攻撃をやめた。
「わかった」
父の目が、ようやくいつもの柔らかさを取り戻しつつあるその時。
「僕の方からも、お話したいことがあります」
コーイチがそう言うから、わたしまで父と同時に彼を見る。
「海空さんと結婚します」
と、真顔で言い切った。
えええええええええ!?このタイミングで、空気で、その断定形はないよね!?お父さんが、うんって言うはずないってわかるでしょ!?
わたしは呆気にとられて、コーイチの、しれっとした顔を見ていた。
「嫌だ。まだ嫁にはやりたくない」
続いて、大人げない父の答えが聞こえて、わたしはさらにぽかんとしてしまった。
コーイチのお父さんみたいに、「まだ早い」くらい言い返すかもしれないって覚悟はしてたのに、「嫌だ」って、ものすごく私的な感情のように聞こえるんだけど。
なんだろう、え、おかしいな。コーイチがちょっとわたしを迎えに来ただけのはずなのに、どうしてこうなったんだっけ?
「でも、結婚します」
「嫌だって言ってるだろう」
「それでも、とにかく、結婚します」
「早過ぎる」
「もう待てませんから」
「なら、諦めろ」
「無理です」
ええっと、どうして、こうなったんだろうな?
低い声で威嚇するかのような話し方の父の声と、それをわざと刺激するかのような冷たい話し方のコーイチの声に、わたしの頭の処理能力は、限界を迎えた。
混乱をなんとか収めようと、状況を整理する努力を続けているのに。
「ミク」
と言いながら、コーイチがわたしの手をそっと握ったから、その努力は完全に水の泡になる。
ええ!?なんで今、この状態の父の前で、わたしの手を握るわけ!?まさに、火に油を注ぐってやつだと思うのに。
案の定、コーイチをきっと睨みつける父の顔に、あわあわと動揺していたから、コーイチの行動に十分な注意を払う余裕がなかった。
「俺と結婚して下さい」
一瞬で、息が止まった。
聞き間違い、かな。そう思ってコーイチの顔を見上げるのに、彼はかすかに緊張を帯びた表情で、静かにわたしの目を覗きこんでくるだけだ。
ああ、妄想か。わたし、また妄想に耽っているに違いない。無意識のうちにぶつぶつと独り言を言っていたらしく、コーイチがほんの少し、表情を緩めた。
「妄想じゃないから。ミク、俺と結婚して」
脳が自身の処理能力を上げるべく、状況を確認しろと、全身に指令を送るのに、一向に体が動かない。
その代わりに、少しの違和感を思い出して、コーイチが繋いでいる、わたしの左手を見たら。
「うん…。わたしも、コーイチと結婚したい」
状況をきちんと飲み込むよりも先に、声がわたしの気持ちを紡いだ。
固まっていた体にどくんどくんと、温かい血液が元気に送り出されて、顔が熱くなる。目から涙がこぼれるのに、頬はゆるゆると緩んでいく。
いつの間にか、いつものフェイクの指輪の代わりに、わたしの左手の薬指におさまっている、見たことのない指輪。
それがきらきら光って、コーイチのプロポーズが現実のものだと、わたしに教えてくれたから。
わたしにつられるように、コーイチが、いつものようににこっと笑ってくれるから。
「お父さん、わたし、彼と結婚します」
さっきはどうなんだろうと疑問を感じていたにもかかわらず、わたしまで断定の表現を使って、父に結婚を報告してしまっている。
初めてみるような、呆気にとられた表情をしていた父が、ふと表情を取り戻して言ったのは。
「好きにしなさい」
という、素直じゃないけれど、一応は、わたしの意思を酌んだ答えだった。