結婚したいから!

「…そのニヤニヤ笑い、なんとかならない?」

わたしが嫌な顔をしていることは間違いないのに、紗彩は一向にその意味深な笑みを消そうとしない。

「なんとかしたいけど、海空が締まりのない顔してるせいだからね、どうにもならない」

「し、締まりのない顔をしているつもりはないんだけど!」

わたしが慌ててそう言っても、紗彩は笑っているだけだ。

「まあ、幸せそうで何よりだわ」

さらりとそう言って微笑まれると、胸の内がぽわっと温かくなってしまって、それ以上言い返す気が失せた。

「うん…、紗彩、ありがとう」

紗彩は、長い間わたしを見守っていてくれた。コーイチと出会ってからのわたしのことも、全部知ってる。

協力なんかしないと言いつつも、わたしにとって最善だろうと思える方向に、導くために、ずいぶんと力になってくれた。

「でもさ、そのストーカー秘書の件は、未解決でしょ?今はあんたたちが会社に閉じこもってるからいいけど、見つかったらまた付け回されない?」

あれからも、わたしとコーイチは、ひそかにコーイチの会社の仮眠室で暮らしてる。
「うーん、よくわからない。でも、このままわたしのアパートは引き払って、新居を探そうかってコーイチは言ってるよ」

何年も暮らしたあの部屋を、こんなことをきっかけに離れるのは寂しいけれど。

「ふうん。いいかもね。あんたたちが結婚したって知ったら諦めるかもしれないしね」

紗彩がそう答えるから、ふと、しみじみとした気持ちで、周りを見渡してしまった。


結婚。結婚、かぁ。

紗彩らしからぬ物が、ところどころに見つかるこの家は、もう彼女がひとりで暮らしている家じゃない。紗彩と賢悟さんが、二人で暮らしているマンションだ。

「紗彩も、言い寄ってくる人は減った?」

営業職で、いろんな人に会う機会が多い彼女は、ずいぶんとモテるはずだ。

「まあね。ただ、既婚者がダブル不倫を企てるパターンが増えた」

「…苦労するね、紗彩」

美しく魅力的な女性は、結婚して誰かの妻になっても、相変わらず大変らしい。

「ん?じゃあ、コーイチもまだモテるってこと?」

わたしがふと、心配になってそう言うと、今度こそ紗彩は声を上げて笑いだした。

「馬鹿だね、海空は。結城は家柄と地位が取り柄なの。それがなくてもいいって言うもの好きはあんたくらいだから!」

「ちょっと、失礼なんだけど!コーイチは、カッコ悪いところもかわいいんだからね!」

「それって、暗に結城にカッコ悪いところがあるって認めてるよね」

「あ……」

鋭い指摘に思わず黙り込むと、紗彩はくすくす笑うけれど、なんだかそれもちっとも意地悪には聞こえなくて、不思議に思った。

「どれだけ好きなんだろうね?結城のこと」

そう言われてしまうと、あっという間に頬が熱くなった。


「ただいまー!!」


そのとき、元気のいい子どものような弾んだ声がして、玄関からばたばたと足音が近づいてきた。

ひし、と紗彩に抱きついて、もう少しで頬ずりしそうな勢いなのは、賢悟さん。

「もう、離れてよ」

心底鬱陶しい、という顔をしながら、肘でごりごりと攻撃しながら、なんとか夫を遠ざける紗彩。

「え、俺、旦那だよね」

「そうだっけ?」

人前では相変わらずな紗彩を見ていると、わたしまで笑ってしまう。

「たぶん二人きりの時には甘えてるんだよな」ってひそひそ声が聞こえて、見上げるとコーイチが紗彩を指差してる。

「うるっさいな、結城。もうあんたは帰れ」

「あ、図星らしい」

「図星なわけない!」

おお、珍しく、顔の赤い紗彩をコーイチがからかうの図、だ。賢悟さんがいるからこそ見られる場面だなぁ。貴重貴重。

「お酒いっぱい買って来たんだね。4人でも飲めないくらいの量じゃない?」

わたしはふたりが下げて来たレジ袋を見てびっくりしてしまう。おつまみも入ってるみたいけど、重たかっただろうなあ、このアルコールの量。

「今日は度数が低いのが多いから、大丈夫」

コーイチがそう言うと、賢悟さんがにやりと笑ってこう言った。

「もう強いお酒飲んで早寝しなくてもいいもんね?晃一くん」

う、うわ、ちゃんと理由を話してから、たらふくお酒飲んでたんだな、グアムのときのコーイチ。

「海空ちゃんが赤ーい!見て、紗彩」
「好きなだけ赤面させとけばいいの。賢悟は結城と飲み始めたらどう?」
「え、いいの?紗彩がなんか食べるもの作ってくれるの?」
「なんかって、鍋しか作れないけど」
「うわ、嬉しい。早く食いたい。ちょっと、晃一くん、早く飲もう!」

早くお酒を飲んだからって、紗彩の料理が早くできるわけじゃないのに。

浮かれてわけのわからないことを言っている賢悟さんに、「あほだね」って言いながらも、紗彩の表情は柔らかい。

コーイチに「いや、賢悟さんは、弱すぎるんで、酒は飲まないでください」とか言われながらも、賢悟さんは、全く気にする様子もなく、鼻歌交じりにグラスや取り皿を用意している。


いいなぁ……。


「は?」

紗彩の声が聞こえて初めて、自分の心の呟きが声になって漏れていたことに気がついた。

「結婚っていいね、紗彩」

そう言うと、紗彩もわたしもふふふふと笑ってしまう。言葉にしてはっきりと肯定はしないけれど、彼女の表情から、答えは明らかだ。

「海空ももうすぐでしょ、結婚」

「そう、みたい」

まだ結婚すると言う実感は薄いものの、あれからもコーイチとはうまく行っていると思う。

コーイチの仕事も、本人の宣言通り、今度こそ落ち着いたらしい。遅くなる日がないわけじゃないけれど、日数としてはずいぶん減ったし、何より休日と言うものが存在する。

ふたりで過ごす時間が、ずいぶん増えたのだ。

それに伴って、わたしの情緒も安定してきた。…その比例の関係が、ちょっと恥ずかしいけど。


「ちょっと!賢悟さんはそういう度数の高いやつは禁止ですから!飲むなってば。マジで迷惑、この人。おい、紗彩!」

早くも強いお酒に手を出している賢悟さんに手を焼くコーイチに、わたしたちは声を上げて笑った。

「なんとかしろよ、お前の旦那」

そう言われて、まだ慣れないのか紗彩が微かに頬を染めるから、今度はコーイチとわたしが笑った。


紗彩が賢悟さんと結婚して、新しいマンションに引っ越してから、初めて遊びに来たわたしとコーイチは、ふたりの幸せを分けてもらってるみたいにいっぱい笑った。

案の定、酔ってしまって、ごろごろしている賢悟さん。

もう初夏だと言うのに、紗彩が作れるのが鍋料理だけ。

汗をにじませながらも、幸せそうにそれを食べる賢悟さん。

「食べ過ぎ」って言って彼の額を叩きながらも、頬が緩んでるように見える紗彩。


「もう、鬱陶しくて見てられないんだけど、この夫婦」

コーイチが呆れた顔でそう言うなり、テーブルの下でわたしの手をきゅっと握ったから、息が詰まった。

「俺もミクとべたべたしたくなってきた」

「な、なに言ってんの」

なんとか息を吹き返しつつ、そう返すけれど、手を払うことはできない。

「もう帰る」

コーイチが静かに席を立つから、わたしはびっくりした。

「ええ!?わ、わたしまだ、紗彩と話が」

「それはまた今度にしよう」

「いやいやいや、なかなか紗彩と予定が合わないんだもん」

熱くなる顔をたしなめつつ、なんとか言い返していたら、コーイチがわたしの耳元に口を近づけてこう言った。

「俺たち邪魔だろ?」

そう言われて、じっくりと紗彩と賢悟さんの顔を交互に見比べてしまった。


「……帰る」


その結果、わたしも静かに席を立つことになる。

確かに、幸せ絶頂の、新婚ほやほやの、夫婦の家に長居をするのもよろしくないかもしれない、と思えた。

わたしが、なかなか紗彩に会う時間がなかったのは、紗彩の仕事が忙しかったからだ。賢悟さんだって、彼女と過ごす時間に飢えているに違いない。

ほんの少し前の自分が、コーイチとの時間を確保できなくて、元気が出なかったことを思い出す。

「ちょっと、結城、なに吹き込んだのよ!あたしだってまだ海空に話が」

「ないない。そんなのたいした話じゃない。ね、紗彩、今日は旦那さんと一緒にご飯食べよー」

「こら、賢悟、ちょっと!」

追いかけてこようとする紗彩を、しっかり捕まえている賢悟さんを見ると、コーイチの言うとおりだったんだなって思って笑いがこみあげてくる。
「また、今度ね。紗彩」

「こら、海空!結城!」

「よしよし、また今度、遊んでやるからな」

「なんであんたが偉そうなの!?」


まだ何かあれこれ言っている紗彩を尻目に、わたしたちはドアをバタンと閉めた。



爽やかな風を感じながら、ふと見上げると、コーイチがふっと笑う。

「幸せそうだったな」

その顔が、まるで自分が幸せみたいな顔で。自然と、わたしの心までぽかぽかあったかくなる。

「うん」

コーイチも、紗彩の友達として、彼女の幸せを喜んでるんだろう。

「今度またゆっくり会おうな」

「うん。紗彩の料理、他にも食べてみたいね」

「…俺はもういいや」

「そう言っとくね」
「お、おいミク、」

「ふふふふふふふ」

途中から、会話の内容は、どうでもいいものに変わる。

すっかり暗くなった道を、歩いて帰ることに、一抹の不安もない。

幸せそうな親友とその夫の姿を思い返しながら、わたしの右手の指は、コーイチの左手の指とうまく絡まっているのだから。

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