結婚したいから!


「は?」

「だから、これ、書いて」

すっかり見慣れたコーイチの仕事場で、コーイチは、見慣れないものを出してきた。

「これ、って…」

軽く言うけど。「これ」って言ってコーイチが机に置いたのは、生まれて初めて見る「婚姻届」だった。

「と、突然、だね?」

わたしが書くべきところ以外はだいたいコーイチの字で埋まっている。

「そうでもない」

平然とした顔でそう答えるコーイチに、そう言えばコーイチとわたしとでは物事を進めるスピードがずいぶん違っていたんだった、と思い出す。

ほら、ね、会ってすぐにキスとかしてきたし。あ、リアルに回想しちゃった。

「何?今のも照れるところだった?」

コーイチが不思議そうな顔で、わたしの顔を覗きこむ。
「いやいやいや、何でもない。そうじゃない。だけど」

「…嫌なの?」

変なことを思い出してしどろもどろになっているわたしに、コーイチが少し表情を曇らせたから、反射的にきゅんとしてしまった。

「やっ、そ、そういう意味でもないけど」

「けど?」

「急だなあと思って…」

「昨日、紗彩の家に行ったら羨ましくなったんだよ」

「だ、だからって、昨日の今日?仕事もあるのに、いつの間に届を取りに行ったの?」

「区役所の近くに用事があった」


わたしがあたふたしていたら、見かねたのか、書類の整理をしていた柴田さんがつかつかとこちらにやってきた。

「社長はいつもこうですから。仕事でも、思い立ったら即行動なので、毎度毎度社員はてんてこ舞いですよ」

「ええ!?そうなの!?」

なんとなく、意外な気がした。コーイチが、明らかに嫌な顔になって、柴田さんの方を向いている。
「今日もわざわざ自分で出向くほどの用でもないのに、突然営業所に出かけたと思ったら、これを取りに行きたかったんでしょう」


そう言いながら、柴田さんが、机の上の紙に視線を落とした。


「えっ!?」


今度は、わたしだけじゃなくて、コーイチも声を上げた。だって、柴田さんがさらさらとペンを走らせているのは、証人の欄だから。

へえ、柴田、孝雄、って言うんだぁ…。いや、感心してる場合じゃないんだった!

「どうしたんだよ?」

先に疑問を表現することができたのは、コーイチの方だった。

「何がです?」

柴田さんは、すっかり書き終えて、いつも通りに表情のない顔でコーイチを見つめ返しているだけだ。

「いや、柴田は俺の結婚を歓迎してないのかと思ってたから」

どきり。

ストレートなコーイチの言い方に、わたしはにわかに緊張してきた。

正確に言うと、柴田さんはコーイチの結婚ではなく、コーイチがわたしと結婚することをよく思ってないんじゃないかと、ずっと思っていたから。

「私は社長の結婚自体には興味がありません」

「それもどうかと思うな」

はっきりと言い返されて、コーイチが苦笑いしている。

「ただ、社長の結婚云々によって、会社が不利益をこうむるのは許せませんから」

どきん。

一層緊張が強くなって、体が硬くなる。


「だから、海空さんには、社長の傍にいていただくほかないようです」


「…は?」

表情が変わらないままの柴田さんの口から、予想外の言葉が聞こえた気がして、思わず声が漏れた。

「しばらく海空さんと喧嘩でもしてたんでしょう?

『氷の若社長』がますます冷たくぴりぴりしてるもんだから、社内の空気のとげとげしいこと。あれじゃあ、社員も取引先も上手く業務をこなせるはずがないでしょう。

大した表情も見せずに淡々と仕事を進めるタイプだったはずが、感情が顔に出過ぎるようになって、不機嫌が丸わかりなんで、扱いづらくて仕様がないんです」


柴田さんが実に迷惑そうな顔をして、コーイチの方に向き直る。

「そんなことはない、はずだ」

コーイチが反論しようとするけれど。

「いいえ。海空さんがここに来るようになってから、ようやく社内の雰囲気が穏やかになりました。だから、早く結婚していただかないと、私も困ります」

コーイチがすっかり赤くなった顔で、ちらりとわたしを見るから、わたしまで顔が熱くなってくる。

馬鹿だなあ、コーイチ。伊達眼鏡してても意味がないくらい、不機嫌だったなんて。

「そういうわけです。海空さん、できるだけ早く籍を入れてやってください。お願いします」

そう言って柴田さんが頭を下げたので、何とも言えない気持ちになった。

わたしで申し訳ない、という気持ち。認めてもらって嬉しい、という気持ち。コーイチがわたしをそんなに思ってくれて幸せだ、という気持ち。

いろんな気持ちがごちゃごちゃになって。


「ミ、ク?」


今度はわたしがペンを取って、自分の名前を書いていた。九条、海空。これを提出したら、もう九条じゃなくなるんだ。

「ああ、お母さんに何も言ってない」

九条、の苗字で、ようやく故郷の母のことを思い出した。

「すぐ会いに行こう」
「いや、今度でいいから」
「なんでだよ」
「反対しないから」
「でも」

本当にすぐにでも飛行機に飛び乗りそうだから、慌てて説得する。


「もー、何なんすか!!俺、帰りの電車に乗ってたんですけど!」

ノックもなくがちゃっとドアが開いたと思ったら、不満しか感じられない表情の人が入ってきた。

「あ」

慌てて机の陰に隠れようとしたら、その人と目が合ってしまった。

「お、お邪魔してます…、ええっと」

どう見ても、サラリーマンって感じの恰好で、慣れた様子でこの部屋に入って来るんだから、この会社の人だよね!

部外者がここにいるってことが知られても大丈夫なんだろうか!?取引先の営業のふりでもした方がいい!?


「婚約者のミクだ」


人の葛藤には一切気付くことなく、コーイチがあっさりとそうやって端的に、事実を説明したから、「あわわわわわわ」と、色んな意味で動揺した。

「お気の毒です」

と言いながら、その人に頭を下げられて、ぽかんとしてしまった。お気の毒?ずいぶんコーイチに遠慮のない人らしい。

ぺちんとコーイチに頭を叩かれて、「いてえ」と言う彼は、どういう立場の人なんだろう?「ちょっと、だって、社長に振りまわされてんでしょ、彼女。気の毒じゃないっすか!」

「俺が振りまわすのはお前だけだ」

「もう、俺、一刻も早くこの人から解放されたいんですけど!柴田さん、なんで俺を呼び戻すんですか!?」

「ここに名前を書くためだ」

「ええ!?それだけの理由で!?…っていうか、わあっ、婚姻届じゃないっすか!?」

コーイチと柴田さんにかなりぞんざいに扱われながらも、結構かわいがられてるような印象を受けて、思わず笑みがこぼれてしまう。

婚姻届に、証人の署名は二人分必要だ。柴田さんが、残りの一つを埋めるために、彼に電話をかけたらしい。

そこに書かれる字から、塚原、光(みつる)、と言うのが彼の名前のようだ。

「おー、俺、初めて婚姻届に名前書きましたよ!すっげえ」

「お前が結婚するわけじゃねえからな」

コーイチが呆れてそう言うものの、彼は、当初の不機嫌はどこへやら、キラキラした目で届を見ている。

「こいつ、今年の新入社員なんだけど。最近秘書にした塚原」

「秘書?」

コーイチが、私の方に向き直って、そう紹介してくれた。

「初めまして!ご挨拶が遅れました。塚原光です!」

元気いっぱいって感じだなぁ。微笑ましくて、こっちまで明るい気持ちになった。

「初めまして。九条海空です。よろしくお願いします」

そう言って頭を下げる。

「海空さん、社長Sでしょ。超いじめるでしょ。困ったら柴田さんに相談するといいっすよ」

「ええ?いじめる?」

びっくりしてそう訊き返すと、塚原くんは、しかめっ面でみぞおちの辺りを撫でながらこう言った。

「もー、俺、ストレスで胃痛になりそうですもん!」

「いや、俺たちの方が胃が痛いよ。お前の覚えが悪くて」

呆れ顔でコーイチが言うと、珍しく柴田さんがうんうんと頷いて同意を表しているから噴き出してしまった。

「だいたい男に秘書なんて無理っすよ!いくらでも女の子がいるじゃないっすか!」

味方がいないと悟った塚原くんが必死でそう言うと、コーイチがにこりと微笑んだ。


「女の子を秘書にすると、ミクが妬くから」


ちょ、ちょっとおおおお!何言ってるの、この人は!!

「な?女の子が近くにいると面倒だろ?」

コーイチが、わたしの髪を一束掬って、さらさらとこぼすから、はらはらした。なんで他に人がいるところで、こんな甘い雰囲気を醸し出すんだろう!?

でも、真っ赤になっているわたしを、落ち着いた目で見下ろしているコーイチを見つめ返しているうちに、佐竹さんのことを思い出した。

「…うん。面倒」

わたしがそう呟くと。


「うえええ!ちょ、ちょーのろけてるんすけど!柴田さん、社長のキャラが崩壊してますけど!」
「その崩壊は今に始まったことじゃない。それにお前、男には秘書が務まらないというその思い込みが、そもそも俺を馬鹿にしてるな」

赤面しながら柴田さんに助けを求めた塚原くんは、逆に沈没していた。

「うわ、いや、その」とか言いながら、柴田さんに襟首を掴まれて、部屋の外に引きずり出されている。

「そんなことだから、最低限の仕事すらなかなか覚えられないんだ」

手厳しい言葉を浴びせられながらも、塚原くんは「じゃあ、海空さん、また!」と慌てて手を上げてくれるから、笑いがこみあげてくる。


ばったん。とドアが閉まったら、コーイチとふたりきりの状態が、異常な静けさに思える。

ずいぶんにぎやかな秘書だった。

「笑えるだろ?あいつ」

コーイチが、途端に表情を緩めて、わたしの顔を覗き込む。

「うん。面白い人だね。あの人の性格が好きなんだ?」

「いや、好きって表現はやめてほしい」

「ふふっ。仕事仲間に恵まれてるんだね」

「まあ、そうかもな」

コーイチの表情を見ていると、人間関係も含めて、仕事が充実しているんだということが、よくわかった。
「でも、コーイチって、せっかちなのかな?仕事もそうみたいだけど、婚姻届も、びっくりしちゃった」

わたしが届を見ながらそう言うと、コーイチはにこりと笑った。


「だって、明日から6月だろ」


そう言えば、今日で5月が終わる。

「ああ、ジューンブライドを意識してくれたの?」

6月に結婚する花嫁は幸せになる、っていうジンクスがあった気がする。

「うん。昨日紗彩から聞いて、初めて知ったから」

「だからって、そんなに急がなくても、まだ30日までずうっと6月だよ?」

やっぱりコーイチはせっかちに違いないって思いながらくすくす笑った。


「6月の花嫁の中でも、一番幸せにする」


突然そう言われて、ぴたりと笑いが止まってしまった。

「そういう気持ちを込めて、6月の一番目の日に入籍しようと思って」

わたしが硬直しているから、コーイチがちょっと恥ずかしそうな笑みを見せる。

「やっぱり、こじつけだった?」

こじつけでも何でもいい。

コーイチがそんな気持ちでいてくれるっていうだけで。


「わたしも、コーイチを、6月の花婿の中で一番幸せにする」


そう言ってその胸に飛び込んだら、涙がぽろぽろこぼれてきた。

「うわ、えっと、嬉しいんだよな?」

うんうんと頷いて見せるのに、相変わらずわたしの涙(今のは、さすがに泣き真似じゃない)に弱いらしいコーイチは、やっぱり慌てている。


「…なの」

「え?」


「大好きなの!」


完全に鼻声でみっともないけど。黙ってられなかった。
それを聞いたコーイチは、背中をかがめて、ぎゅうっとわたしを抱きしめてくれる。


「俺も大好きだ」


コーイチの囁く吐息が髪の中で温かく感じられて、心臓がどくどくする。どきどきなんてかわいい感じじゃない。

彼の熱い首に頬が触れるその感触が、香水の匂いが、わたしをうっとりさせる。

「ずっとこうやってくっついてたいな」

自分の口から出た言葉かと思った。

驚いて、少し離れてコーイチの顔を見上げる。

「同じことを、考えてた」

そんなわたしの言葉に、「やっぱり?」と言うなり、コーイチがきらりといたずらな目をした。


「じゃあ、今、俺が何考えてるか、わかる?」

わかるはずない、って言いかけたその言葉はとろけて消えた。

コーイチが少し瞼を伏せたから。かすかに首を傾けたから。わずかに唇が開いていたから。

なにより、わたしも同じことを考えていたから。

ちゅっ。

音を立てた後、数センチ離れただけの彼の目を見る。焦点は合わないのに、その瞳に吸い込まれるような気がするのはどうしてだろう。

「よく、わかる」

キス、したい、だよね。

お互いの気持ちが一致して、重ねるキスは、深みを増して行く。どっくんどっくんと脈打つ心臓だけの音を聞きながら、わたしは絡まる舌に翻弄される。

「ん、…あ、…はぁ……」

うっとりしてしまって、なぜか鼻でもうまく息ができなくなってくる。コーイチのキスは、やっぱりなんだかアブナイ。いつになったら、慣れるんだろう、この感触に。


「もー、ミクの声がエロい」

やっと唇を離したと思った途端、コーイチがため息を吐きながらそんな暴言を吐くから、わたしはさらに顔が熱くなった。

「違うから!コーイチのキスがエロいの!」

そう言い返すのに、なんとも色っぽい笑みを浮かべたコーイチは、伊達眼鏡を外して机に置いた。
「そりゃそうだろ。そういう気分だから」

え!?って言いかけた言葉は、コーイチの唇に阻まれて「んぅ!?」って変な声に変換された。

いつの間にか、背中を優しく抱いていた両腕は、片手がわたしの首の後ろを支えているから、そう簡単に離れられそうもない体勢になっている。

策略家!

なんとかして逃れてその顔をじっくり見てやろうと考えてたのに、もう片方の手が、わたしの片手を捕まえたと思ったら、優しく指を絡めてきたから、そんな考えも崩壊してしまった。

あなたのそういう仕草の一つ一つが、わたしを思ってくれているような気がするのは、勘違いじゃないらしい、と今では思う。

わたしの体の形を、感触を、反応を、確かめるように動く指も、舌も。

まるでわたしに、あなたの気持ちを伝達するようだ。


乱れていく呼吸の下で、同じように、わたしの気持ちも、コーイチに伝わるようにと祈る。

その祈りは、通じたのか、あっという間に消え、あとはコーイチとふたりの甘い夜に溺れるだけだった。



翌日は、まだウイークデーで、コーイチもわたしも仕事がある。でも6月1日だ。

よく考えたら、よくわからない、コーイチのこだわりで、どうしても今日、どうしてもふたりで、婚姻届を出さないといけないらしい。

だから、お昼休みのチャイムが鳴ると同時に慌てて、自分の席を立った。

それに気がついて、理央さんが自然に浮かんだような微笑みを浮かべてくれるから、危うく胸だけじゃなくて目の奥まで熱くなりそうだ。

理央さんには、恋に破れて敗れてぼろぼろのみっともない姿を何度も見られてしまって、その度に心配をかけてきた。この萩原コンサルティングサービスマリッジ部のお客さんだった頃からずっと。

だから、今日入籍するっていう話をしたときには、自分のことのように喜んでくれた。


ああ、早く行かなくちゃ。時間がないんだった!

そんなわけで、今日はお昼休みに区役所で落ち合って、すぐさま婚姻届の提出という、慌ただしい計画があるのだ。
開いたエレベーターの自動ドアに駆けこんだら、思い切りおでこから誰かにぶつかってしまった。

「ご、ごめんなさい!」

慌てて謝ったら、「へえ。浮かれてんなぁ」と言う、軽い口調の声が落ちてきて、一気に心が冷えた。

「いつまでへらへらしてられるのかなぁ?」

全く、このふわふわ頭ときたら!

香山くんは、相変わらずこうして顔を合わせるたびに、余計な一言や二言を投げつけては来るものの。あれから、不必要に近付くことはなくなった。

「香山くんも、早くへらへらできるようになるといいね。ちゃんと特定の彼女を見つけて」

言い返しながら、まだエレベーターを降りかけだった香山くんを無視して、扉を閉めるボタンを連打してやった。

「うわあ、生意気にも九条先輩が苛めますよー、石原主任!」

ドアに一瞬体が挟まった香山くんが、大げさにわめいた。馬鹿言え、苛めてるのはいつでも香山くんの方だ、と思う。今のは、苛められっ子のほんのささやかな抵抗だ。


約束していた区役所のロビーで、コーイチの姿を見つけたら、それだけで頬がゆるりとほぐれてしまった。

「すげー嬉しい。本当に海空と結婚できるんだな」

わたしを見るなり、そう言ってにこにこするコーイチに、また胸がきゅんとする。






こうしてわたしは、「結城海空」になった。








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