結婚したいから!

いままでとこれから

「わあ…」

外は梅雨の雨で、いろんなものがしっとり湿っていて、重たい色調で街は塗り固められているのに。

ここはまさに別世界で、適度な湿度と温度で、花も緑も生き生きしている。初めて足を踏み入れたこの場所は、コーイチの家の敷地内にある温室だ。

「素敵ですね」

自分まで生き生きしてしまって、隣を歩いているお母さんに馴れ馴れしく話しかけてしまった。

「ふふ」

「お母さん」とは言っても、わたしの母親ではない。あでやかに笑みをこぼすのは、コーイチのお母さんだ。同性なのに、くらっと目眩がしそうな美しさは相変わらずだ。

「晃一さんから、海空さんは緑があると落ち着くって聞いたから」

「え?」

そんなことを話した覚えもないし、自分でそう感じたことすらなくて、きょとんとしてしまった。


「郊外に出かけたときに初めてまともに話してくれるようになったって」


そ、その話か!初めてコーイチとご飯を食べた翌日の、デートのことだ。わたし、そんなに緊張してたっけ?だいたいあれは…。

思い出して顔が熱くなる私を見て、少し後ろから「お母さん」と、コーイチが静かな声でたしなめてるけど、その顔はちょっと笑ってる。

その余裕のある表情にちょっとむっとして、ついつい言葉が出てしまう。


「あれもコーイチのせいだからね。だって前の日にいきなりキ」

「うわ、…おい、何を言うつもりだよ」

慌てたコーイチが手でわたしの口を塞いでくれなかったら、確かにわたしは余計なことを口走るところだった。「キスしたからでしょ」って。

あ、危ないところだった!


くすくすと笑い声が響いて、恐る恐るお母さんの方を見ると、本当に可笑しい、という顔で笑っていたから少しほっとした。

「晃一さんもそんな顔するのね?」

そう言われてコーイチの顔を見ると、赤かった。動揺をおさめた直後らしい表情は、なんとか落ち着いて見えるけれど、皮膚の色まではごまかせなかったらしい。

「海空さんは晃一さんを動揺させることができるのね。いろんな顔させてやってね。私たちにはいつも澄ました顔しか見せないんですもの。たまには苛めてやるといいわ」

そう言ってお母さんは再び笑いだす。コーイチのお母さんって、発言からするとちょっとSの傾向がある気がする…。

でもその笑みは柔らかで、コーイチの違う一面が見られて嬉しいと思っていることがわかる。養子であるコーイチのことも、温かい気持ちで見守っていたんだろうな。


「お、主役の登場だな」

そんな声が聞こえて、はっと顔を前にむけると、あっという間に緊張感が襲ってきた。

温室の真ん中に置かれた長いテーブルに、コーイチの家族が座っていたからだ。

結城家のお父さん、は会ったことあるけど。目が合うと、小さくうなずいてくれて、その仕草から、拒絶されてはいないのだと信じることにした。

その隣からずらりと並んでいるのは、コーイチの元の家族で、みんな私とは初対面。

お父さん、お兄さん、お母さん…。


っていうか、皆さんを待たせてたなんて初耳なんだけど!第一印象最悪じゃないかな…。
う、うわあああ…、だめだ、そんなこと考えてたら足ががくがくしてきた。真っすぐ歩けてるだろうか?

「生まれたての子馬?」

横から小声でそう呟くコーイチの声に、気が遠くなる。や、やっぱりよろよろしてるんだ、わたし。


「はじめまして」

そう言われて、さっきの声はこの人だったんだな、とぼんやり考える。コーイチに、あんまり似てないけど、なんとかテーブルのそばにたどりついたわたしに一番に声を掛けてくれたのは、たぶんお兄さん。

「は、はじめまして!」

声うわずってる、ってコーイチが噴き出してるけど、仕方ないと思う!緊張するにきまってる!

「晃一、ちゃんと紹介しろよ」

ふっと笑ってお兄さんがたしなめると、ずいぶんとコーイチが子どもっぽく見えるから不思議だ。

「はいはい。彼女はミク。先月入籍したので、よろしく」

ちょ、ちょっとお!何そのあっさりした紹介!リラックスにもほどがあるし!「み、海空です。その、ええっと、ご挨拶が遅れてすみません。でも、あの、よろしくお願いします」

とは言っても、自分でもどうやって自分を紹介したらいいのか全くわからない。とりあえずぺこりと頭を下げてはみたものの、緊張と恥ずかしさで目線が上げられない。


「か、かあさん」


焦ったような男の人の声で、はっとして顔を上げると、コーイチのお母さんらしき人が、はらはらと涙をこぼしていた。

わ、わあ!

おろおろとお母さんの背中を撫でるのは、お父さん。お父さんは、物腰は柔らかそうだけど、兄弟でもないのに、お母さんのお兄さんであるはずの会長さんに雰囲気が似ていて、強面なタイプだ。

確かにコーイチは、お母さん似だな。清楚な美人っていうのか、神聖な美しさを持った人だ…、っていうか、なんで泣いてるんだろう!?

息子の嫁がまともに喋れもしないから!?ひょっとして、今更だけど、結婚に反対!?

もう頭の中は悪い想像で埋め尽くされ、気分が悪くなりそうだった。
「お袋、海空が動揺してるから、もうちょっと我慢して」

冷静なコーイチの声が響いて、ぼうっとした表情でただただ泣いていたお母さんが、「ああ、そうね」と言いながら、慌てて瞬きをし、それを合図のようにしてお父さんがハンカチでお母さんの涙をぬぐった。

「ひどい泣き上戸なんだ。ちょっと感情が揺れただけで涙が出るタイプ」

は、はあ。

それにしたって、ずいぶんとたくさん涙がこぼれていたと思うけど。心配になってこっそりお母さんの表情をうかがうと、予想外に目が合って、息が止まった。


「あんまりかわいいもんだから」


そう言いながら、ふわあっと微笑むお母さんの美しさに、目眩がしそうだった。似てる、コーイチの笑顔に。間違いなく、コーイチはこの人の遺伝子を引き継いでいる。

「な、そんなことでも泣けるんだよ、この人」

こそりと耳元でコーイチが囁くから、ようやく意識がはっきりしてくる。

「えっと…、そんなことって?」
「ミクがあんまりかわいいから、って」
「…へ?」
「ミクがかわいくて泣けるんだって」
「そ、そんなはずない、だって」
「かわいいよ、ミク」
「ななななに言ってんの」

いくらこそこそと小声で話してても、この距離ではどなたかに聞こえるんじゃないだろうか!!


「まあ、とにかくおかけになって?」


結城家のお母さんがくすくすと笑いながらそう切り出したけど、それは助け舟というよりは、「しっかり聞こえてるわよ」というアピールにも聞こえて赤面してしまった。

「百合さんが涙もろいのは昔からよ…、ああ、こちら側の名前も紹介しなくちゃね?」

百合さん、っていうんだ、コーイチのお母さん。名は体を表すっていうけど、雰囲気にぴったりな名前だなぁ。
ちなみに、養母である結城家のお父さんは武(たける)さん、お母さんは雅(みやび)さん。このふたりもぴったり!

「お父さんの妹に当たるのが、百合さん。こちらの仁科聡一(そういち)さんのところに嫁いだから、仁科百合。ふたりの長男が、修一(しゅういち)さんね」

それぞれが頷いて、雅さんの言葉を肯定する。

「うちの娘の和(なごみ)は、子どもを産んだばかりだから、また落ち着いたら会わせるわね」

そう言われて、「おばあちゃん」という言葉がここまで似合わない人もいないだろうと、雅さんの顔をまじまじと見つめてしまった。


「百合さん、もう大丈夫?」

「ええ」

雅さんに訊ねられて、ようやくふっとちいさく笑みを漏らす百合さんの手を、心配そうに聡一さんが握っていて、そんな姿はいつかコーイチが「べた惚れ」だと表現したその通りだから、微笑ましい。

「嬉しいんだろ、母さん。俺も晃一も結婚しないから心配してたもんな」

お兄さんがそう言って笑う。コーイチの表面から冷たさをマイナスして、男っぽさをプラスしたような印象の人だ。

「兄貴はまだしないの?」

「弟」という立場のコーイチがやっぱり新鮮で、ふたりの会話を丁寧に聞いていた。

「まだやりたい仕事が山積みだからな」

「相変わらずご立派なことで」

軽口叩くコーイチは、やっぱりお兄さんの前だとちょっと幼い印象だから、不思議。「こう見えて実は弁護士なんだ」と耳打ちされてびっくりするけど、そう言えば、「よくできる兄貴」って言ってたっけ。

「まあ、お前が結婚できたんだから、お袋も心配の半分は消えただろう」

お兄さんがそう言うと、百合さんが、また大きな瞳を潤ませるから、お父さんとともにわたしまで焦った。


「だって私、娘も欲しかったんだもの。よろしくね、海空ちゃん」


娘。娘。…娘。

照れたように頬を染めつつ、やっぱり涙をぽろんとこぼす百合さんに、胸が熱くなる。

まだ顔を合わせて少しの時間しか経ってないのに、そんなふうに、わたしに対して思ってくれるんだ、って。

こうして素直に自分の心を見せて、言葉にすることは、怖くないんだろうか。

そう思って、同じことをコーイチに対しても考えたことを思い出す。コーイチは、顔立ちだけじゃなくて、性格も、根本はお母さん似なんだな、きっと。

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」

そう言葉を絞り出して頭を下げると、顔が上げられなくなった。


「…おい、うつっただろ」

「え?」

困惑した声のコーイチに、わたしはぎくりとしたけど、百合さんは不思議そうに首をかしげて、それがわたしの視界の端に映った。

「お袋の泣き上戸が、ミクにうつった」

「え!?」

その場の全員が唖然とした、のが、空気で分かった。…だよね。びっくりだ、自分でも。

いや、でもね、この緊張感の中で、あんな優しい言葉をかけられたら、ほろっとくるのも仕方ない気がする。そういうことにしておこう。


「あ、ミクのご両親だ」


どうしたものかと途方に暮れていた時、コーイチがそう言った。皆の意識が温室の入口に逸れたので、コーイチが手でわたしの頬をぬぐった。

みっともない泣き顔は、晒さずに済んで、ほっとしながら両親へと目を向けると、今度は別の意味で焦った。


「えへへ」といつも通りの笑いを浮かべながら、母が父をひっぱるようにしているから。

その後ろの父はと言うと、いつもの穏やかな空気はどこへ行ったのかというくらいの仏頂面だ。

…ああ、なんかふたりとも、…なんか面倒。お母さんは緊張感ないし、お父さんはまだ不機嫌らしい。

「すみません、すっかり遅くなりました。海空の母、九条優実です」

意外とまともに挨拶をして、母は頭を下げた後、ちらりと父の方を見やるけど、父は口を開こうとしない。

「で、こちらは父の萩原勇哉。あ!ああ、えっと、姓が違うのは、離婚したわけじゃないです。

…そう、そうだ、籍を入れ忘れただけです!」

一生懸命話しながら、必死にそういう結論を見出したらしい母は、元気よくそう言い切った。

…なんだろうなあ、この人。結婚したばかりのわたしたちの前で、離婚を勘ぐられるといけないとか縁起が悪いとか考えるのかなぁ…。


「ぶっ」


魂が抜けそうだったわたしは、噴き出してあっはっはと豪快に笑っているのが、今まで静かだった武さんだと気づいてびっくりした。

「海空さんとよく似ていらっしゃる。そっくりですなあ」

太い声でそう言われて、わたしは一瞬「え?」と白目になりそうなくらい驚いた。

わたしとお母さんが似てる!?しかもあのわけのわからない発言の後でそんなこと思う!?

そんなはずない、と言いそうになったそのとき、みんなが笑いだしたので、その言葉は飲み下した。

その幾重にも重なる笑い声は、明らかに「肯定」を示したもので、わたしはがっかりしたけれど、でもこのテーブルの空気を明るくしたから、それはそれでいいと思った。


籍を入れた後ではあったけれど、こうして、わたしたちはお互いの家族を紹介し合うことができた。

「子どもの頃の海空はねぇ」なんて、母の暴露話に慌てたりもした。でも逆に、コーイチの昔の話を聞くこともできた。

出会うまでのコーイチは、わたしを知らない。わたしも、それまでのコーイチを知らない。

それが、こうして家族を通じて、想像の中でと言えども、少しずつ像を結んでいくことがおもしろくて。

そして、とても幸せなことだと思った。


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