結婚したいから!
…そうか、こういうことか。
わたしは、ようやくコーイチの言う「仕事の延長」の意味に、いろいろなケースが含まれていることを理解する。
「お仕事をしてらっしゃるとか」
そう言って、ちらりとわたしを見る人は、コーイチと仕事上でつながりのある人らしい。年齢は50代の終わりの方だろうか。
わたし自身の仕事でも、たまたま直属の上司にはいないし、顧客でも少ない年齢層の男の人。つまり、ただでさえ、慣れていない年代の人。
「はい」
明らかに好意的でない視線を思うと、下手なことも言えず、短く肯定する。
「ほう」
目を細めてコーイチを見やるその人に、コーイチは仮面のように消した表情の顔を向けているだけだ。
「前の副社長とは、ずいぶん違うタイプの女性を選ばれましたな」
前の副社長、っていうのがどんな人かわからない。ただ、女性らしいって推測ができただけで。
ああ、披露宴の前に、コーイチの仕事のことや、関係する人たち、招待したお客さんのことを、もっとしっかり聞いておくんだった。今頃後悔しても遅いんだけど。
これまで挨拶をした人は、自己紹介してくれたから、そんなこと気にもならなかった。それは、コーイチに対しても、わたしに対しても、温かい配慮をしてくれていたからなんだってこと、今気がついた。
「そうですね」
コーイチも、この男の人と、多くを語るつもりはないらしく、返事が短すぎて、結局「前の副社長」って人がどんな人だかわからなかった。
「どうせ働くなら、夫を支える仕事を選ぼうとは思わないんですか」
はっとして男の人の方を見る。
「考えてもいなかった、という顔ですね」
ふっと浮かべるのは、明らかに嘲笑だ。
でも、わたしを攻撃するかのようなその一言で、「前の副社長」が誰なのかはわかった。コーイチのお母さん、結城雅さんのことだろう。
何か言い返そうと思うのに、結城家のお父さん、武さんが社長をしているときに、傍らで雅さんがそれを支えているところを想像してみたら、息が詰まって声も出ない。
武さんは強面なうえに、口数が多い方でもない。一方で、雅さんは華やかで社交的だ。対照的な二人は、仕事の上でもお互いを補い合うようにしていたんじゃないか、と容易く想像できてしまう。
「どの仕事にやりがいを感じるかは、彼女の自由です」
抑揚の少ないコーイチの声が聞こえた。
「母に興味を持つのもあなたの自由ですが」
彼がそう続けると、目の前の男の人が目をむいて明らかに顔を赤くしたから、びっくりした。
「それから、あなたの会社との取引を打ち切るのも、私の自由だということをお忘れなく」
最後にそう言って、微笑んだコーイチに、わたしはぽかんと口を開けてはいなかっただろうか。
「…何?」
コーイチに手をひかれて、自分たちのために用意された席に戻り、水を飲んだものの。無意識のうちにコーイチの顔を凝視していたらしい。
「落ち着いた?」
演台では、司会者が何か話しているけれど、コーイチに意識が集中していたから、全然聞こえなかった。
「た、ぶん」
さっきの男の人の言葉に動揺したし、自分を不甲斐なくも思ったけど、その後呆気にとられた状態から、なかなか復活できない。
「あのおやじの言ったこと、気にしなくていいから」
そう言われて、今ではあまり気になっていないことに気がつく。
「そう、だね。ありがとう。なんか…、今は、コーイチが言ったことの方がいろいろ気になる」
そう口に出すと、やっぱりそうだ、って実感が強くなる。
「どこ?母に興味がある、ってくだり?」
「そこも」
「そのまんまの意味。あいつ、よく母にちょっかいかけてた」
「…嫌だ…」
わたしが思わず身震いしながらそう呟くと、コーイチが噴き出した。
「大丈夫、母の撥ねつけぶりを見たら爽快な気分になるから」
そう言われると、今度はわたしが噴き出す番だった。たしかに、ちょっとSな雅さんが、黙っているはずはない。
「じゃあ、そこは安心した。けど」
「けど?」
「わたし、確かに、コーイチの仕事を手伝おうって思ったことが、なかった」
そう打ち明けてみるけど、コーイチの表情は、変わらずに穏やかなままだ。
「知ってる」
「…うん、ごめん」
そりゃあ、初対面のおじさんにだってわかることが、コーイチにわからないはずないんだけど。
コーイチを仕事の面から支えようなんて、考えたことすらなかったっていうその事実は、本当に申し訳ない。
実際にできるかできないかは別として、その気もさらさらないっていうのが問題のような気がする。
「なんで謝るの?どの仕事を選ぶかはミクの自由だ」
「本気でそう思ってる?さっきの人の手前、そう言ってくれただけじゃないの?本当はわたしがコーイチの仕事を手伝った方がいいって思ったことはない?」
気になっていることを吐き出すと、言葉が止まらなかった。
コーイチが、ふっと笑う。
その表情が、あまりに優しく、ふたりのときにしかしないものだったから、ここがたくさんの人がいる場所だって言うことを忘れそうになった。
「あるよ。一日中ミクと一緒にいられるといいなって」
どきんと胸が鳴って、かあっと顔が火照ってくる。
「な、何言ってるの。そうじゃなくて、その、対外的に」
ちょっとずれた回答に、動揺しながらもなんとかそう言うけれど、コーイチは考え込むような顔つきのまま、こう続けるのだ。
「でも、ミクが気になって仕事が手につかなくなるから、今のままの方がいいような気もする」
そこまで言い終わると、コーイチはにこっと笑った。子供みたいに裏のない顔で。
「へ、変だよ、コーイチの基準は。会社の人とか、取引先の人とかに、あんなふうに思われて困るでしょ」
「全然」
「はあ?」
「そんなことに口出しするやつらとは、付き合う必要もない」
「そ、そのことなんだけど。わたしにちょっときついこと言ったくらいで、取引やめるって脅しちゃだめでしょ」
「俺の自由だから」
「嘘!いくら社長だって言ったって、仕事の都合もあるし、関係する人たちの反対もあるでしょう」
「そこはもういいんだよ、あいつムカついた」
そう言って、むっとした顔をするコーイチが、いとしいと思うわたしも、重症だ。
「わたし、あの人ももうどうでもいいよ。コーイチが大事にしてくれるもん」
どきどきする胸が温かいもので満たされていくのは、気のせいじゃない。
「そっか」
コーイチが、わたしにつられるように、ふわっと微笑んだ時、どこからか口笛の高い音が聞こえた。
「おい、社長が笑ってるぞ」
「本当だ」
「珍しいな」
あちこちがざわめいて、幾人かはわざと本人に聞こえるようにそう言ってるから、コーイチは一瞬嫌な顔をして前髪をぐしゃぐしゃにしてしまった。
「あぁぁ!」ってピンクさんが悲鳴を上げる声を想像したら、わたしはおかしかったけど、コーイチは恥ずかしいらしく、再び表情を消してしまったのだった。
「はああぁぁ…」
控室に戻って、ピンクさんに勧められるままスツールに腰を下ろした途端、ピンクさんが目を丸くするくらい大きなため息が出た。
「大丈夫ぅ?」
頷いてはみたものの、想像以上に疲れているらしい。
「体が辛いのぉ?」
そう問いかけながら、ピンクさんは慣れた様子で、ヘッドマッサージを始めた。それがとっても気持ちがよくて、さっきとは違う安らかなため息がひとつこぼれた。
「そうでもないつもりなんですけど」
そう答えるけど、この疲労感はなんだろう。
「招待客も多いしねぇ、神経使ってるのよねぇ」
好意的な態度の人が大半だけれど、油断していると時々そうでない人と遭遇することになる。
あからさまに好意的でない態度の人と、距離を置くことができない環境。
わたしにとって、こういう状況は、初めてかもしれない。
だから、確かに神経を使ってはいるんだろう。
わたしの仕事だって、ふわふわ頭ともときどきは協力しないといけないし、難しい要望をぶつけてくるお客さんはいるけど。上手くいかないときは、理央さんに仲介してもらったり、担当替えしてもらったり、何か他にも手だてがある。
だけど、コーイチの仕事の関係者、親戚、そういう人たちとはそうもいかない。
近頃だけじゃなくて、先代や、ひょっとするともっと前から交流がある人もいるのかもしれないし、これからも長い長いお付き合いになるのかもしれない。
そんなふうに、前の世代や後の世代にまで累が及ぶことを、わたしのわがままで壊したり避けたりすることは難しいということくらいは、わたしにもわかっている。
「お化粧ってねぇ、女にとっての『鎧』だと思うのぉ」
ぽつりとピンクさんがそう言った。
はっと目を開けて、大きな鏡越しにピンクさんの表情をうかがうけど、いつもながらの濃い濃いメイクに重ねて、ばさりと大きな付けまつげが、瞳を覆い隠していてよくわからない。
「家の中ではみんな、メイク落とすじゃない。あれって、武装解除なのよねぇ。お肌を休ませるって言うけど、外ですっぴんにして、家でメイクしてる人いないじゃない?」
「うん」
「やっぱり、リラックスできるときにしかメイク落とせないんだと思うのぉ」
そうかもしれない。
「悲しい顔とか、辛い顔とか、みっともないとこ見せたくないところでは、仮面の代わりにお化粧するって感じがするんだよねぇ」
ピンクさんは、わたしにいろいろ質問したり、仕事の話をしたりすることが多かった。こんなふうに、自分の考えを話してくれるのは、初めてだと思う。
「きちんとメイクがのってたら、『よし、やってやろうじゃん』って思えない?」
そう言ってようやく、ピンクさんがばさりとまつげを持ち上げて、わたしの顔を見た。
「うん。思えます」
この人もそうやって、いろんなことを乗り越えてきたんだろうか。
「あたしねぇ、これしかやれないけど、海空ちゃんにしっかり鎧つけてあげるぅ。思う存分戦ってきてぇ」
にこ、と笑うピンクさん。
彼女のサロンで、何度もわたしは生まれ変わった。それを思い出すと、また少し力が湧いてくる気がした。
「はい」
彼女につられて笑う。
それを見届けると、ようやくピンクさんはメイクやヘアを直し始めたのだった。
「よく似合う」
「う、ん」
「かわいい」
「え」
「綺麗」
「……」
「何?今更照れてんの?」
衣装を替えて、披露宴会場のドアの前で、スタッフの指示があるまで待っているところだ。
コーイチは全く緊張していない顔だから、やっぱりわたしとはずいぶん違う立場の人なんだなあ、なんて思う。
「い、いや、な、なんでからかうのかなぁ、と思って」
「は?」
「あ、ああ、わたしじゃなくて、ドレスの話だよね」
「はあ?」
またピンクさんにしっかり額を出されてしまったらしく、よく見えるコーイチの目が、わたしの方を向いていると感じるだけで、何を言っているのかよくわからなくなってきた。
もう、なんでこんな綺麗な目なんだろう。隠れたい。「ミクが、綺麗」
そう呟くコーイチの目は穏やかで、その気持ちを表すかのように、ふと頬に触れた彼の指先は優しい。
今度はからかわないでとも言えなくなって、まともにその視線を受け止めたら、かあっと顔が熱くなってきて。
ぷっとコーイチが噴き出した。
「式の時から何度もかわいい、綺麗だ、って言ってたのに、全然聞いてなかっただろ?」
「ええっ!?」
「緊張し過ぎ。ちょっと良くなったみたいだけど、なんで?」
「あ、たぶん、ピンクさんのおかげ」
「メイクってこと?」
「それだけじゃなくて、元気づけてくれた」
ピンクさんが話してくれたことを思い出すと、自然と笑えた。
「ほら、すげーかわいい」
「なっ、何言ってんの、めめめ、メイクのおかげだから!」
「そうかなぁ?」
なんて言いながら、コーイチが近づいて顔を覗き込むから、のけ反ってしまった。
こほ、という控えめな咳払いが聞こえて、わたしたちは初めて、式場のスタッフさんたちがいつの間にかドアの前にきちんとスタンバイしていることに気がついたのだった。