結婚したいから!


はぁぁ……。


ぽすん、とふかふかのソファに腰を下ろしたら、コーイチがぷっと噴き出した。

「盛大なため息だな。疲れた?」

そう言われて、見上げたコーイチの顔だって、ようやく表情を素直に出せるようになった様子。

「そうだね。疲れたね。でも、披露宴、やってよかった」

この体の重さは、早朝から続く緊張から解放されたためだろう。それでも、今は心地よい疲労感だ。


「ありがとう」

「へ?」

なぜお礼を言われるのかわからないまま、コーイチを見ると、にこっと笑われた。


「俺の妻として、皆の前に立ってくれて」


本当に嬉しそうに、さらっとそういうことを言うのだ、この人って。

「わ、ちょっと、ミク、」

じわっと涙が浮かんできたわたしに、コーイチがうろたえたとき。

「結城様!」

式場の担当者がやって来て、幾分焦った様子でこう告げた。

「御招待客の方で、具合の悪い方がいらっしゃるらしくて、タクシーをお呼びしました。お名前はわかりません。妊婦さんなんですが、お心当たりはございますか?」

はっとして、あれこれ考えてみるけれど、とりあえずはわたしの知り合いにはいない気がする。

友人や親族も、小さな子どもを持つ人は何人かいるのだけれど、お腹の大きい人はいない。


「コーイチの、関係の人かな?」

消去法でそう尋ねると、わたしよりうんと招待客の多いコーイチも、そうだろうと思いついていたらしい。

「そうかもしれない。タクシーが来るのはどちら側ですか」

コーイチに訊かれた担当者は「この真横です」と答えたから、わたしたちは反射的に窓に駆け寄った。



「あ……」

見間違いかと、思った。
厚いガラスの向こうは、雨が降っていた。

その雨はもちろんのこと、音やその湿度さえも、完全に遮断された世界に、しばらく目にしていなかった人の姿を認めた。


雨で視界が悪い中、顔を赤く染めた妊婦さんが、きゃんきゃんと何か騒ぎ立てているように見える。それを呆れた顔で見下ろしているのは。


「平河祥生」


その声にはっとして、横に立つコーイチを見上げるけれど、彼はわたしの方を見なかった。

まだ、窓の外を見つめ続けているコーイチにつられるように、わたしも外のふたりを見た。

まだ何かわめいているような妊婦さんのほっぺを、ぐにゅっと遠慮なく祥くんが摘んだ。

一瞬気を削がれた彼女の背中を優しく押して、祥くんはタクシーに乗せた。

それはまるで、ひとつの短い映画を観ているような感覚で、こちらにある現実と、あちらにある世界は、全く別のものだった。


そして祥くんが一緒に乗り込んで、閉まったタクシーの窓越しに、ふと、目が合った気がして、息が止まる。

わたしの中で、映画と現実が繋がった瞬間だった。

もちろん、そんなことには一向に構わず発車するタクシー。

スローモーションの世界で、わずかに祥くんが笑ったような気がした。


「…よかった」

苦い記憶から来る締め付けるような胸の苦しさの隙間から零れた言葉は、それだけだった。

祥くんも、幸せそうで、よかった。

かわいい奥さんができて、よかった。

赤ちゃんがお腹にできて、よかった。


今となっては、そう思う気持ちだけが残ったらしい。



「知り合い、だったの?」

いくらか気持ちと涙が落ち着いて、わたしがそう尋ねると、顔は窓の外に向けたままで、ようやくコーイチは言葉を発した。

「うちの会社のホームページをデザインして、管理してる」

コーイチと祥くんの間に、そんなつながりがあるとは思いもしなかった。

端的に表現されたものの、一般的に考えるなら、いまやホームページは、企業における広報の内で最も重要な手段なのだから、コーイチにとっては仕事上での祥くんとの関係も、やはり重要なものなのだろうと言うことだけは推測できた。

「いつ、から」

「2年くらい前」

「……」

思わぬ事実の連続に、もう何て訊いたらいいのかよくわからなくなって、わたしは口をつぐんだ。

2年前と言えば、わたしがコーイチと出会うよりも前だし、さらには、わたしが祥くんに再会するよりも前だ。

もっと言うならば、その2年間の間に、わたしが祥くんと暮らした日々までも含まれている。


「俺が気付いたのは、最近だよ」

わたしの複雑な思いを見透かしたかのように、コーイチが静かにそう続けた。

「仕事上での付き合いはあったけど、プライベートで会うほど親しくはなかったから。今回の披露宴で招待客を決めるために、名刺を見直したときに、初めて気が付いた」

コーイチは、そんなこと、一言もわたしには言わなかった。

「ずっと『しょうせい』じゃなくて『あきお』って名前だと思ってたんだ。だけど、名刺のローマ字表記を見たときに、出身地が北海道だって言ってたことまで思い出した。

それから、一時期に限っては、彼の仕事の進め方にずいぶん振りまわされたってことも」


わたしが不思議そうな顔をしたのだろう。コーイチは言葉を続ける。

「広報担当者が、ホームページのレイアウトに関して、平河社長が全く意見を取り入れてくれないって泣きついてきたんだ」

うーん、まあ、祥くんの性格を考えれば、そんなこともありそうだけど。幼い頃の様子を思い浮かべると、苦笑いしかできない。

「結局、俺が広報会議に駆り出されたんだけど、顔見るなり『暇ならあんたがやれば』って言われたんだ」

…いくら祥くんでも、そこまで横柄だとは、思わなかった。半ば呆れたわたしに、コーイチは別の視点を与える発言をするのだ。

「今思えばさ、俺がミクにときどきメールするようになった頃だったと思うんだよな」
「……あ」

浮気してるのかって言われたことを思い出す。一度、コーイチからのメールの受信画面を見られたことがあったっけ。

「彼は、そのときから、気付いてたんだと思う」


胸が、痛い。

なんでメールが来るんだと聞かれて、暇つぶしだろうと気楽に答えたわたしに、「こんな夜中まで仕事してる奴が、暇なはずねえだろ、バカ」と言った祥くん。

職場が近いこと。わたしの電話のディスプレイに表示された名前。すごく鼻が利く祥くんだから、ひょっとしたら、コーイチの香水の香りだって、覚えてたかもしれない。


あのときには、きっと彼の頭の中にはちゃんとコーイチの姿が思い浮かんでいたのだろう。


あれこれ言われることの全部がただのヤキモチだと思ってたのに、結局のところ、こうしてわたしはコーイチと結婚した。

わたしの現在の何もかもが、祥くんが予想した通りになっているのかもしれなかった。


「まだ、そんなに泣けるんだ?」


低い声には、怒った様子は微塵もない。動揺した気配も感じられないくらいに落ち着いている。

それなのに、わたしは自分の指先が震えるのを感じた。


「『祥くん』を見ただけで、そんなに気持ちが揺れるの?」


その声だけで、わたしは。

もう、コーイチの気持ちがわかる。

招待客選びの段階で、わたしと祥くんとの接点に気が付いていたのに。今まで口にしなかったのはなぜ?

わたしが「まだ」泣けるという表現をしたコーイチには、祥くんと別れた後に、大泣きした姿を見せてしまっている。

だけど、今の私の涙の中には、安堵と言う感情しか含まれていない。

思い出すと胸が痛むような出来事もたくさんあるけれど。

わたしの傍にコーイチがいてくれて。その上、祥くんの傍にもあんなに可愛らしいお嫁さんがいるのなら。


わたし自身の気持ちは、揺れてはいない。

ならば。


「気持ちが揺れてるのは、コーイチの方でしょう」


わたしの声は鼻声だったけど、しっかりと響いたはずだ。ようやくコーイチは窓から離れて、わたしの方を見た。

「わたしが祥くんを見て泣くと、嫌な気持ちになる?」

わたしがそう尋ねると、コーイチは素直に少し考え込んで、こう答えた。


「嫌、でもない。ただ、羨ましい。彼が、ミクと一緒に重ねた時間が」


コーイチは、気付いていない。

わたしのヤキモチとよく似た感情を抱いた時、コーイチは「羨ましい」という表現を使うことに。


「ほんの4年ほどだよ。ヤキモチ焼かなくていいの」

そう言ってみると、コーイチはぱちくりと瞬きをした。「ヤキモチ?」って訊きたそうな顔だ。

ちゃんと自覚したことなんかないのだろう。自分の感情に名前を付けることなんか思いもつかなかったに違いない。


「もっともっと長い時間、わたしと一緒にいてくれるんでしょ?」


そう言って、返事も待たずにえいっと頑張って背伸びをした。ドレスに合わせた高いヒールのおかげで、いつもよりコーイチの顔が近くて助かった。

ちゅっ、とわざと派手に音を立ててキスをした。

した、のはいいものの、半分びくびくしながら、コーイチの表情をうかがっていたら、彼は珍しく耳まで赤く染めたたのだった。


「ミクって、ほんとに、『飴』をくれるタイミングが絶妙だな」

一瞬、彼の瞳がわずかに揺れたように感じて、わたしがふと息を詰めたとき。


「ひゃあ…」

ふわりと体が浮いたと思ったら、コーイチにいわゆる「おひめさまだっこ」をされていた。

「おおお、おもい、重いよ!?わ、わたし、実は結構な重みが…!いや、っていうか、なんで!?お、下ろして!」

一見華奢に見えるコーイチの体も心配だし、体重がバレるんじゃないかと慌てて下ろしてもらおうとじたばたしたら、コーイチは涼しい顔でにっこりと微笑んだ。

「だな。暴れられると腕に負担がかかるから、ちゃんと首に手を回して。そう、両腕」

腕に負担!?はっとして言われるままにしたものの…、うっわあ、余計に恥ずかしいポージングじゃないか!

海でコーイチにしがみついて浮かんでいたあの日のことまで思い出してしまい、脳内が沸騰し始めた。


「ん、いい感じ」

つかつかと歩き出して、控え室から出たところで、もちろん式場担当者と顔を合わせる羽目になる。

恥ずかしさは頂点に達し、目の前が白く霞んでさえきた。

「こ、これは、その…!!」
「妻が、ひどい靴擦れを我慢していたものですから、失礼」

にこりと爽やかに「外」用の笑みを貼り付けてさらっとそう告げるので、式場担当者も「それは大変でしたね」と気の毒そうにわたしを見る始末。

や、役者め…!

コーイチの自然な演技にあっさりと騙された式場担当者に、「大変なのはまさに今です!!」と言いたかった。なのに、顔がかっかして喉までからからになってしまって、当然言葉はひとつも出てこなかったのだった。





廊下の角を曲がり、エレベーターに乗せられた頃には、ようやくまともに息が吸えるようになった。

「嘘、つき」

もう!恥ずかしいから下ろして!…と、続けて文句を言ってやろうと思ったのに。


「あんな小さな嘘で、人前で堂々とミクをだっこできるなんて、結婚っておいしいな」

ふんふんと綺麗な声で鼻歌を歌って幸せそうな顔のコーイチを見たら。


「…だね」

って言いながら、その首にさらにしっかりと腕を回してしまうことになる。


「結婚って、いいね、コーイチ」


そして、一緒に笑い合うことになる。



…ん?

「あれ?衣装…」

そう言えば、返してから控え室を出る予定だったような…。

「当然、このままスイートルームだろ」

「ぅえっ!?」


能天気な普段の顔とは対照的に、意外にも策略家な一面に、唖然とする。

これからも、わたしには、こうして色んな顔を見せてくれるのだろうか。そう思うと、また胸の奥からじわじわと、コーイチを好きだという気持ちが湧き出してくるような感じがした。

これからだって、そんなコーイチに、戸惑ったり、笑ったり、怒ったり、することもあるんだろうけど。

結局はこうして「好きだなあ」って思っちゃう気がする。

そして、きっとコーイチも、同じような気持ちになってくれる、と信じてる。



確かに、結婚って、おいしい。







                 番外編 完

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