結婚したいから!

いつの間にか差し掛かっていた重大な局面

「おかえりなさい、玲音さん」


今日は、ずいぶん風が強い。

お店の前で、倒れた看板を立て直していたらしい、玲音さんを見つけた。しゃがんでいても、背中が広くて、背の高い人なんだろうなあって、わかる後ろ姿。


「あ、み、海空ちゃんだ!ただいま!」


振り返ったとたん、ぱあっと顔じゅうに喜びの色が広がっていくみたい。わたしの方が先に、嬉しくて仕方がないって顔で笑っていたに違いないのだけど。


だって、あれから、2週間も経ってる。

玲音さんのお父さんが、盲腸の手術を受けて回復した職人さんの方を、玲音さんのお店の手伝いに行かせて、玲音さんを帰してくれなかったそうだ。

たしかに、交通費とか、時間のロスとか、考えると、効率がいい。それは、わたしにだってわかるんだけど…。


早く会いたかった。この笑顔を、見たかった。


「ふふ。今日はコンタクトしてるんだ」

前に会った居酒屋での様子を思い出してそう言うと、玲音さんは真っ赤になった。

「ごめん。ほんとに、ごめん。なぜか、お酒飲むとコンタクト捨てる癖があるみたいで。あ、着替えてくるね」
一緒にお酒を飲んだからか、しばらく会っていなくて落ち着いたのか、玲音さんはちょっとだけ、言葉を噛まなくなったみたい。

風がわたしの髪をばさばさと煽っては去っていく。

玲音さんが立て直したばかりの看板が、またガコン!と派手な音を立てて倒れた。それをどうにかしようと悪戦苦闘していると、くすくす笑いながら、玲音さんが出てきた。


「ありがとう。紐持ってきたから、電柱に縛ってみるよ」

あ、そっか。ただ着替えに行ったわけじゃなかったんだ。不器用なのがばれたかと恥ずかしくなる。

「海空ちゃん、手伝ってくれる?ここ、押さえててくれると助かる」

優しい人だな。

腕も長いんだから、わたしの手を借りなくても、このくらいの作業できるはずだと思う。それでも、わたしが手伝おうとした気持ちを、こうして酌んでくれる。

「はい!」

好きだなぁってしみじみ、ぽかぽかの心で思う。

わたしの場合、どこか焦るような、追われるような、ひりひりした気持ちで男の人と付き合うことが多かった気がするのに。「もうこれでオッケー。紐の先、持ってて?鋏で切るから」

言われたとおりにしていたら、指先が触れ合って、心臓がどっきんと胸を跳ね上げた。中学生か!って、紗彩風に自分にツッコんで、自分の気を紛らわそうとしたのに。


「…手、つないでも、いい?」


なんて訊かれたら。

心臓はドキドキどころじゃなくドックンドックンと、危ない音を立てはじめて。


喉に何かつかえてるみたいに、声が出なくて、なんとかこくんと頷いた。はじめてつないだ玲音さんの手は、あったかくて大きくて、思った通りだった。けど、かさかさしてる。お仕事のせいだろうな。


「…思ってたより、小さい」


ぼんやりした顔で、玲音さんが、ぽつりと呟く。わたしの手のことだろう。いろんな人によく言われるから。

公園が、見えるくらいの、あんなに近くじゃなくて、もっともっと遠くにあればよかったのに。


そう心の中で願っていても、すぐに、いつも座っているベンチに着いてしまうから。

「ハンドクリーム、塗ってもいい?」

って訊くと、玲音さんは、不思議そうにわたしを見た。

何のこと?って顔に書いてある。たぶん、手のお手入れとか、したことはおろか、考え付いたこともないのだと思う。


「あの、玲音さんの手が痛そうだから」そう言って、座ってからも、その大きな手に触れて、広げて見ている。

「ああ、水も石鹸もよく使うからかな。俺の手って、そ、そんなにガサガサ?ごめんね。すっごい恥ずかしい…」

あなたが見る見るうちに頬を染めてしまうから。


「えっ?あ、そうじゃなくて。あの、ほら、ええっと」


なんとか庇ってあげられないかと声を出したものの、他にいい言い訳が思いつくはずもなく。「…もう少し、手をつないでいたくて」

庇ったのはいいけど、自分の本心が丸出し!!い、言っちゃった、本当のこと。

自分でも情けないくらい、小さな声だったけど。強い風にかき消されたんじゃないかって思ったけど。


おそるおそる見上げた玲音さんの顔は、もうゆでダコ状態だった。


…たぶん、わたしも、人のことは言えないような顔してたことだろう。次の月曜日に、会えたらいいなあなんて思ってたけど。


短大時代の友達に、かなり強引に誘われて、グアムに行くことになった。

彼女は、高校生のときから付き合っていた人と結婚して、専業主婦をしている。彼女の旦那さんが、今週末から水曜日まで、急な出張で家を留守にすることになったらしい。

「絶対ひとりで家にいるなんて、嫌なんだよね」

って、彼女が言う。確かに、短大で一緒に授業受けてた時も、彼女に付きまとう男の子が後を絶たなかったし、社会人になった頃には、ストーカーの被害に遭ったこともあったはずだ。

「あ、それなら、うちに泊まる?」

そう言ったのに。


「何言ってんの?せっかく、何の気兼ねもなく出かけられるチャンスなのに、なんで電車で数駅の海空の家に泊まらなきゃならないの!?海外行きたい!海外!海外しかない!」一応、普段は旦那さんに「気兼ね」をして家にいるのだろう。

千載一遇のチャンスに、共通の友人である紗彩から、わたしの仕事が暇になったとの情報を得て、わたしを旅の道連れに選んだらしかった。

「初めてなんだってば、うちの旦那が出張なんて!久しぶりにちゃんと英語しゃべりたい!!」

在学中、彼女は、英文科に所属していた。わたしも、通訳がいてくれたら、快適な旅ができそうだ。

「…しょうがないなぁ。わかったよ。パンフレットとか見て、どこに行きたいか考えててね」

いいか、月曜日、1回くらい、女友達と出かけたって。


そう思ったのがいけなかったのかな。油断、してたのかな。
3泊4日のグアム旅行の間は、特にマリンスポーツを楽しむわけでもなく、免税店で買い物をしまくるわけでもなかった。ホテル近くを散歩しながら、わたしたちは学生に戻ったみたいにいっぱいおしゃべりをしただけだった。

彼女は旦那さんの、わたしは玲音さんの、話ばかりだったと思う。

何しに来たんだろう、ってくらい、わたしたちは、お互いの大事な人への気持ちが膨らんだだけの旅だった。


「彼に早く会いたいよね」って、空港での別れ際に、わたしの背中を叩いてくれた彼女は、幸せいっぱいの甘い笑顔をしていた。


結婚っていいな。


毎日ご飯を作るのが面倒だとか、旦那さんの仕事に合わせて早起きするのも腹が立つとか、お舅さんが無愛想で怖いとか、いろいろ文句だって言ってたくせに。

あんな顔してさっさと家に帰っちゃうんだから。


寂しいから、とか、旦那さんと作る家庭ってどんな感じなのかなって好奇心とか、それだけじゃなくて。

自分も家にいるのが嬉しくて、楽しくて、幸せなんて。あんなふうなら、やっぱりやっぱり結婚したい。わたしが、家に帰る電車の中で、思い浮かべるのは、やっぱり彼の姿だった。


To 高林 玲音
Sub 帰ってきました
本文
無事に戻りました!今、空港からの電車に乗ったところ。
この前、言い忘れたけど、これからは月曜日にもお休みがもらえそう!
今度の月曜日、玲音さんの都合がよければ、会いたいです。


どうして。この短いメールを送信するのに、こんなに時間がかかるのだろう。

漢字、間違ってない?言葉づかい、変?帰国して即メールとか、ウザい?強引な誘い方になってるかも?あれこれ思い悩みながら、もうキリがない、って諦めてから、ようやく送信ボタンを押せる。

電車の窓の外は、すっかり夜だ。

おかげで、疲れたわたしの顔がはっきり見える。気心の知れた友達との旅行だから、終始リラックスしていたはずだけど、数時間とはいえ、飛行機での移動には体が疲れたらしい。しばらく、流れていく電灯や建物、人々を見ていた。疲れのせいか、何も考えてなかったので、ショルダ―バッグのポケットで、携帯電話が震えたときには、自分までびくっとしてしまった。


From 高林 玲音
Sub おかえりなさい
本文
無事でよかった!
残念だけど、次の月曜は、店にこもる予定。ごめん。大山と早川と来月の限定商品を決めるよ。上手く出来たら、海空ちゃんも試食してくれると嬉しいなあ。
そんなわけだから、月曜は難しいけど、今から少し会えるかも。


「ごめん」のところで、がっくり肩を落としてしまってたから、「今から少し会えるかも」のラストを読み間違いじゃないかと思って、何度も目でたどってみる。


From 高林 玲音
Sub 無題
本文
ごめん。慌てて送信しちゃった。
今、ラッピングに使えそうな素材を探しに、出かけた帰りなんだ。海空ちゃんの乗り換える駅を通るから、途中下車して待ってるよ。もう一度震えた電話を大急ぎで操作すると、こんなメールが届いていたのだ。

無意識のうちに、どこかの電車の中で、慌てて追加のメールを送信した玲音さんの姿を想像していた。


電車の窓に映る自分の口元に、にまぁっと、隠しきれなかった笑みが広がるのが見えた。


だって、すっごく嬉しい!!え、なに、途中下車?駅で?まだお仕事があるのに、会ってくれるの?

この、大事にされてる感じ、ひしひし感じるのは、わたしの妄想じゃないと思いたい!!


もういいや、付き合ってるのかとか、もうどうでもいい。


あっという間に疲れは吹き飛んで、ちょっとスキップしたいくらいの足取りで、わたしはドキドキしながら乗り換えの駅で降りた。

すぐに、1両ほど先の、乗り換え口の近くできょろきょろしている玲音さんに気がついた。周りの人より、頭が一つ飛び出しているから、わたしからはすぐに見つけられるけど、埋もれているわたしは分かりにくいんだろうなぁ。ちょっといたずら心が首をもたげてきて、わたしはいったん人波に流されて玲音さんの横を俯いて通り過ぎてみた。

案の定、彼は全然わたしに気付かない。

数段、地下へ下りる階段を降りながら、徐々に手摺の方へ近づいて、もう一度階段を上る。

そっと、玲音さんの背後から近づくけど、まだ気がつかない様子で、すでにわたしの乗ってきた電車が去った後のホームを見ている。


「わぁ!!…って、みみみみ海空ちゃん!!」


大成功!

そう。わたしは、無言のまま、突然、ぎゅっと玲音さんの手を握ってみたのだった。

久しぶりに聞いたなぁ、玲音さんの「みみみみ」。あ、耳まで赤くなっちゃってる。

「へへ」

うん。ただ、手をつなぎたかっただけなんだけど。普通に言うのって恥ずかしかったし。


「いたずらっこだな!ほんとにびっくりしたよ、俺」

すうはあと深呼吸してる。「えっと…、握っててもいいよね?今のいたずらの、仕返しだから!」

と言って、玲音さんが、わたしの手をぎゅっと握ると、今度はわたしが笑いを引っ込めて、こっそりすうはあと深呼吸する番だった。

仕返しっていうよりも、むしろご褒美じゃないかって思いながら。


夢みたいだな、って思う。夢じゃないか、とも思う。


玲音さんと手をつないで、電車に乗る。わたしは旅先での思い出、彼はお店での出来事、といった、離れていた数日のことを、話しながら。


人懐っこい、玲音さんの笑顔が、今こうしてわたしだけに向けられているのが、奇跡みたい。ううん、奇跡なんだろうな。


夢うつつで歩いている。頭の中は、紗彩の言うところの「おめでたい」世界になっているんだろうけど、足取りが、徐々に重くなってくることには気が付いている。


だって、もうすぐ家に着いてしまう。玲音さんがお店に戻らなくてはいけない、ということを、彼が持っている派手な黄色の袋は訴えてくる。服装だって、エプロンを脱いだだけの、白シャツに黒のパンツ、っていうお店の制服だ。

「一緒にお店までついて行きたい」っていう言葉が、何度も喉元まで上がってきた。

でも、玲音さんの仕事がまだ残っていることも、それなのにその貴重な時間を割いてまで、わたしを家まで送り届けてくれた好意を無にしてはいけないことも、わたしはちゃんと理解している。


それでも「いーやーだー!!」

って、あとちょっとのところで、駄々をこねそうな勢いの自分の心の中での衝動に、戸惑いすら生まれてくる。


どうした、わたし。大人になれ、わたし。25才だし!!しょうがない、しょうがないんだってば、お仕事だし。

自分に言い聞かせる言葉の最後は、幼い頃に、仕事に出かける母に泣いてしがみついていたときに、祖母がわたしに言い聞かせていた台詞そっくりになってしまっていた。


「わたしの家、ここなの。玲音さん、忙しいのに、ありがとう。荷物もずっと持ってもらって、ごめんなさい」


本当に本当に、仕方なく、そう切り出した。

家なんか通り過ぎたいくらいだけど!あれ?わたしが何か言うと、必ず優しい声で返事をしてくれる玲音さんが、小さくうなずいただけで目を伏せている。何か変なこと言ったかな。心の声が、漏れたかな。

顔を少し上げて、わたしの方を見た玲音さんの表情は、真剣だった。




「俺、海空ちゃんと結婚したいから」
け、結婚って、聞こえた気がするけど。

あれ?夢見てる?やっぱり夢?

それなら、どこからが夢?もしかして、電車で玲音さんから返信メールをもらったところからじゃないよね?だとしたらわたし、当分立ち直れないんだけど。


そのとき、ぎゅっと、玲音さんが、わたしの手を強く握った。


なんか、この感触、リアル。

えっと、じゃあ、さっきの台詞だけが、幻聴?あ、たぶんそうだ。この頃のわたし、結婚願望が生々しくなってきてるし。それに、こんな台詞で、玲音さんが全く噛んでないのも、なんだか変。


「ごめん。急だったよね」


見る見るうちに、赤面して、再び視線を足元に落とす玲音さんを見て。


もしかして、もしかして、現実なのかも。本当に、玲音さんは、わたしと結婚したいって、言ったのかも。「ちゃんと、店の経営も軌道に乗って、海外でも認められるくらいの実力をつけたら、きちんとぷ、プロポーズしようって、思ってたんだ」

ぷ、ぷ、ぷ?

またしても、聞き慣れないけど渇望していた単語が聞こえたようで、わたしの脳は一旦シャットダウン。


今はすっかり俯いてしまって、玲音さんは、珍しく小さな声でぽつぽつ話し始めた。

「海空ちゃん、旅行に行く前に、大山と会わなかった?」

そう言えば、旅先での着替えが足りない気がして、服を買いに出かけたとき、偶然会った。

「あ、ああ、うん。たしか…、洋服屋さんの前で、会ったんだった」

やっと出てきたわたしの声は、かすれていたけど、急に話題が変わったおかげで、まともな受け答えができるようになったらしい。


「かなり強引にナンパされてたから、助けたって言ってた」

「えぇ?誰が、誰を?」

「ん?だから、大山が、海空ちゃんを」

「えっと…、わたし、大山さんをナンパなんかしてないけど」ぶっ、と玲音さんがふきだした。

「なんか俺まで混乱してきた」って笑ってる。あれ?何か誤解をされているみたいだから、それを解こうとして慌てたかな?


「大山のことは置いといて、別の、知らない男に話しかけられたでしょ」

「んー?ああ、落し物を拾ってくれた人のことかも…」

「それね、ナンパだから」

「ええ!!」

これ落としたよ、って、ティッシュを渡してくれた男の人がいた。でも、それはわたしのものじゃなかった。そう言ってるのに、あまり話を聞いてくれない人で、お礼はお昼ごはんを一緒に食べてくれればいいからって言うのだった。


「騙されてついて行かないかって心配で、しばらく見てたらしい。けど、海空ちゃんがちょっとずつ怒り出したから、安心したって言ってたけど、ナンパだってことには気づいてなかったんだね」

玲音さんはくすくす笑ってるけど、…普通、気づくものなんだろうか。一言も、俺はナンパしてるんだよ、とか言われてないのに。「えっと、で、大山が、『ちゃんと言葉にして伝えないとだめだ』って言ったんだ」

伝える?何を?

「んっと、俺に、海空ちゃんと、ほら、えっと」

玲音さんに、わたしと?


「け、けっこ、

結婚する意志が、あるってことを」


けけけけけけけけっこんする意思が、…あるってことを!!


「あ、っと、大山が、さ。海空ちゃんが、その、綺麗になって、いくから、ええっと、他の男に、取られたりしないか、って、心配にならないのか、とか言って、せっついてくるから」

もうその前の一言で、すっかり頭をやられちゃっていたので、後の言葉は全く聞いていなかった。


わあーーーーーーーーーーー!!
「待ちます!!」


頭の中で、自分の声がぐわんぐわんと響いていた。

わたしが結婚したいと思っている人が、わたしと結婚したいと思ってくれている。こんな奇跡って、ある?

偶然同じ時代の同じ地域に生きてて、機会があって出会うってことだけでも、とてもとても少ない貴重な出来事なのに。もっともっと一緒にいたいくらい、会うたびにどんどん好きになることができて。

さらには、その気持ちが、相手と同じものだったら?それって、もう奇跡以外の何物でもない。


「わたし、玲音さんの気持ちが聞けて、ほんとに嬉しい」


彼の性格や、これまでの言動を思えば、どれほどの勇気が要ったことか。想像に難くない。


ほんと、鼻血出そう!


「だから、その言葉を信じて、何年でも、待てる」
伝わった、だろうか。

わたしの、決意。「早く」結婚したい、がわたしの口癖だったのに。「いつかは」とか「そのうち」とか、一度も言ったことないのに。

玲音さんは、わたしをどんどん変えていく。

心だけじゃなくて、変だな、声までふるふる震えてる。

玲音さんの表情を一つたりとも見逃すまいと、ぐっと見開いていた目が、かっと熱くなったと思ったら、彼の表情がぼやけて、何かがぷっつりと落ちていく。


「な、泣かないで?」


…うわぁ、わたし、確かに泣いてる!!

でも、玲音さんは、わたし以上に慌てている。片手で自分の短い髪をがしがし掻いて、「どうしよう」って呟いてる。ふう、って小さく息を吐きだして、落ち着こうと努めている。


一歩、わたしに近付いて、こわごわ、背中を撫でてくれた。

…やっぱり、優しい人だなあ、って。大好きだなあ、って、思う。胸の奥からこんこんと湧き出るみたいに。


いろんな経緯が影響したんだと思うし、わたしにも原因があったのだろうけど、これまで見てきたのは、わたしが泣くと、鬱陶しそうな顔を見せるだけか、力いっぱい抱きしめてくるか、のどちらかの行動をとる人ばかりだった。玲音さんは、わたしの気持ちを推測しながら、どこまで踏み込んでもいいのか、こちらの様子を見ながら、自分ができることを探しているみたい。

自分でも気がつかなかった程度の、胸に残ったままだった小さな小さな傷が、いくつも癒えていくような感覚すら覚える。


じゃあ、玲音さんは、わたしに、どうしてほしいんだろう。考えを巡らせる。


初めて、体温が感じられるくらい近い距離にいる、玲音さんの顔から、表情を読み取りたいのに、視界はまだぼやけている。

たしか、玲音さんは、「店の経営も軌道に乗って、海外でも認められるくらいの実力をつけたら」って、言ったと思う。

手先は器用でも、あれもこれも同時にできるような、器用さは持ち合わせていない人だから、わたしとのことを、真面目に考えている人だからこそ、一番に仕事での目標をクリアしたいんだろう。


だったら、わたしが、その気持ちを理解して、応援するのが、玲音さんにとってはベストな環境になる気がする。


「応援、する。わたしは、玲音さんのお菓子の、一番のファンだから、ね」


一生懸命頭をひねって、わたしなりに考えて出した答えだけど、玲音さんが無言でいることに、かすかに不安を感じ始めたとき。
熱いものが、唇に触れた。


反射的にぱちぱち目を瞬かせる。睫毛が涙の粒を払った後、少しは物が見やすくなったわたしは、すぐにさっきの熱いものが、玲音さんの唇だってことに気がついた。

気がついたときには、もう玲音さんが体を起こしてわたしから離れるところで、それはずいぶん短い時間のことだったと思う。


「ありがとう」

そう、玲音さんは言ってくれたけど。


キス!キス!!キスーーーーーーーーー!!


わたしの方は、どうやらとうとう脳味噌が沸騰したらしく、何の返事もできず、涙も引っ込んでいる。

「口、開いちゃってるよ」

こんなときに残念なまぬけ面をしていたわたしとは裏腹に、思いのほかまともに話せている玲音さんが、ほんの少し微笑んですらいることに、なんとなく「やっぱり男の人なんだなぁ」なんて思う。


あ、吸い寄せられるみたい。

…って、もう一度、唇が重なりそうなときだった。

尋常じゃなく派手な音で、玲音さんの携帯が鳴りだして、ふたりして肩をびくっとすくめた。実際には、たいして大きな音じゃなかったのかもしれない。

でも、お互いのそんな姿がおかしくて、一気に緊張がほどけ、ふたりして笑っていた。


ごめんね、って一言断って、玲音さんが通話ボタンを押したら、「どんだけ遠い店まで行ってんだよ、てめぇ!!」ってすぐそこにいるのかと思うくらいの大声で、大山さんが怒鳴るのが聞こえてきた。


……そりゃ、そうだ。


ごめんね、は、今度はわたしの台詞になった。

ちょっとだけ待っててくれるようにお願いして、一旦戻った自分の部屋を、再び後にする。

カンカン音を立てながら急いで階段を下りながら、大通りから数本入った道沿いにあるものの、思ったより人通りが多くて、さっきのわたしたちを誰かに見られたりはしなかったかと、ちょっと恥ずかしくなる。


「これ、お土産。よかったらみなさんで」

「ありがとう」
焦っていたせいで、玲音さんに箱のまま手渡してしまった。あ、紙袋も掴んできたんだった、と思いだして、ごそごそ袋を開いていると、不思議そうに玲音さんが言う。

「あれ?グアムに行く前に実家に帰ってたんだっけ?」

「ああ、それは、母の方がこっちに来てたの。1泊しただけだったけど」


パティシエの玲音さんにどうかとは思ったけど、グアム土産としては、定番のマカデミアナッツチョコレート、それからココナッツの香りがするハンドクリーム、さらに北海道土産の白い恋人。

これも、玲音さんには失礼なお土産かもしれないけど、怒ったりはしないと思う。


「…それって、いつのこと?」


「先月の日曜日で、何日だったかな?玲音さんのお店の、歓迎会があった日に、突然来て。あ、今さらだよね、そのときのお土産なんて。ごめんなさい。賞味期限は、まだまだ大丈夫だったと思う」

白い恋人は、母が家において行ったのだけど、枚数も多いし、玲音さんに渡そうと思いながら、今日まで忘れ続けていたのだった。
どこかぼんやりしている玲音さんの様子に、わずかに違和感を感じたものの、またしても携帯電話の呼び出し音が鳴り響いて、そんな感覚は消し飛んだ。


今度は、「玲音ぉ!どこにいるんだって聞いてんのに、返事もしないで切るんじゃねー!!」って、大山さんがわめいているのが聞こえた。

わたしが玲音さんに夢中になっている間に、いつの間にか季節は梅雨に入っていて、さっきまで小休止していた雨が、再びしとしとと、道路を濡らし始める。


「ありがとう。また、遊びに来てね」


って言うと、玲音さんは大山さんの怒声を耳で聞きながら、かなり苦くなっていた顔を、かすかに緩めたようにも見えたけれど。


どんどん強くなる雨に、ふたりして傘を開いたら、あっという間に玲音さんの顔が見づらくなった。「また」は、なかった。


玲音さんが、わたしの家に「遊びに来る」なんて機会は、一度も来なかったのだ。


何年でも待つ、なんて悠長なことを言っていたわたしが、間違っていたんだろうか。玲音さんに、会えない。

キスしたから恥ずかしくて、ってわけじゃない。


From 高林 玲音
Sub 無題
本文
なんだかゴタゴタしています。
しばらく会えないかもしれない。ごめんね。


外は、相変わらず激しい雨が降り続いている。

何度目かわからないため息は、わたしの部屋の床に降り積もってはいないだろうか。鬱陶しいのは、天気だけではない。

旅行の帰りに会った日の、翌日。お昼くらいに届いた、玲音さんからのメール。

わたしの携帯電話のディスプレイは、今、それを表示したままの状態だ。


もう、見あきた。なのに、何もすることがない時間には、いつの間にかそのメールを開いて見ている。


10日も経った今となっては、おかしいと、思う。
でも、受け取った日には、そうは思わなかった。

そわそわと、一晩中、テレビを見たり、部屋の片づけをしたり、なかなか眠れなかったのは、時差ぼけのせいじゃない。


玲音さんに会えたことが、嬉しくて、わたしは完全に興奮状態だったのだと思う。

誰だって、好きな人から、結婚したいって言われたら、浮かれると思う。

わたしみたいに、昔から結婚願望の強い女が、そんなことになったら、間違いなく浮かれるに決まっている。


おかげで、旅行帰りなのに完全に徹夜してしまって、体だけはぐったり疲れてきて、ようやく眠気が出てきたときに、あのメールを受け取ったのだ。

玲音さんが、今まで一度も言ってくれなかった言葉をたくさん聞いたおかげで、すっかり心が満足していたわたしは、「お仕事が忙しいんだな」って思っただけで、すぐに深い眠りの中に落ちてしまった。


実際は、「会えないかもしれない」じゃなくて、「会えない」だった。

何日か経ってから、一度、メールで予定を確認してみたけど、「少し待ってて」っていう短い返事が返ってきただけだった。


そのとき初めて、なんかおかしいって思った。もう一度、会えないかもしれないって書いてあるこのメールを読み返してみたら、いろいろと気になってきた。

玲音さんは、長いメールをくれるわけじゃないけど、急いでいなければ、きちんと題名を入れてくる。「無題」は珍しい。

本文からだって、違和感が感じられる。

「ゴタゴタ」って、ひょっとしたら、仕事のことじゃないのかもしれない。はじめは「バタバタ」と同じような感じに受け取ってしまったけど、今では、玲音さんが何らかのトラブルに巻き込まれてるみたいにも思えてくる。

だいたい、「しばらく」って、どのくらい?わたしが思うに、恋人と会わない期間として、10日は、長すぎる気がする。


それに、一番、玲音さんらしくないって思うのが、最後の1文が足りないところ。


会えないって言われたことは、何度もある。でも必ず、「帰ってきたら連絡するね」とか、「○○日に会おうね」とか、書いてくれたのだ。


それが、ない。
…何年でも待てるって、言ったくせに。自分に毒づく。


あれって、こうなってみると、玲音さんとのコミュニケーションがそれなりに取れてるってことが前提だったんだな。意志薄弱。

かといって、迷惑がられてまで、連絡をする勇気もない。


何か、玲音さんの気に障ることでもしたのかな、わたし。何度も考えてみるけど、悪意がない以上、当然故意に何かしたってこともなく、何も思い当たらなかった。


はあ。


ああ、ようやく、いい時間になった。

またしても、大きなため息をついてから、鞄を持つと、わたしは外へ出た。アパートの廊下にも雨がいっぱい降り込んでいて、わたしの心の中みたいに、まだら模様ができている。

雨、嫌だなあ、とか思う余裕もない。雨傘を開いて、強い雨の下に出ていく。傘を叩く雨の音が、ばらばらとうるさいのに、まだこうして外にいる方が、気が紛れる。

玲音さんに会えない毎日は、時間も余って退屈だ。ただつまらないだけじゃなくて、余計なことばかり考えてしまって、気分が沈む。


だから、わたしはこうして萩原コンサルティングサービスに出向いている。

雨なんか、どうでもいい。パンプスの中にわずかに滲みてきた水は、確かに不愉快だけど、たったひとりの静かな部屋で、降り積もったため息に埋もれているよりは、うんと、いい。

そう思ってると、いつの間にか、毎日出社するようになっていた。なかなか玲音さんに会えないという事実を話すだけでも、わたしにとっては辛かった。

理央さんは、わたしの様子がおかしいことに感づいてはいるようだけれど、今のところ、面と向かって訊いては来ない。だから、それに甘えて、わたしも、自分があれこれ考えているだけのことは話さない。


こうして、部長さんや理央さんの仕事の雑用を引き受けているうちに、少しずつ、彼らの仕事にも詳しくなってきた。

それとともに、あくまで裏方の仕事に限られるけれど、書類の整理以外の仕事もさせてもらえるようになってきた。

それは、思いのほか楽しかった。

生き生きと、毎日、充実した様子で働いている部長さんと理央さんの、お手伝いがさせてもらえる。それだけでも、まるで、彼らのエネルギーを分けてもらってるみたいだった。


その上、理央さんの言う通り、上手く結婚にこぎつけたカップルの姿を垣間見たりした日には、理央さんの充実感まで疑似体験してしまって。自分の立たされている、微妙で奇妙な窮地のことも、その瞬間だけは、完全に頭から落ちて、理央さんとともに胸一杯になったりもした。


仕事がなかったら、わたしはもっと、考えすぎて、落ち込んでいたと思う。だから、感謝しながら仕事に励んでいた。


それなのに。
これって、誰のいたずらなんだろう、って思う。


理央さんが、珍しい仕事を引き受けた。

マリッジ部以外の部署で、経営の相談業務を請け負っていた、顧客である会社から、独身の社員たちの結婚相談もまとめて面倒見てくれるように、というものだった。

今日は、16人にも及ぶ相談者のための資料をまとめて、2度目の面談に出向く。荷物もかなり多いので、今回はわたしも一緒に外に出ることになった。


しゅ、出張だぁ。って言っても都内だけど。社会人になって5年も経つくせに、他社に出向くのは初めてで、ドキドキした。

「ありがとう!海空ちゃん。助かったぁ!…でもまあ、相談業務まで手伝ってもらうわけにもいかないし、後はここで待っててくれる?できるだけ早く戻ってくるから」

理央さんが、にこっと笑ってくれる。

「はい」


ぱたん、と理央さんが出て行ったドアが、軽い音を立てて閉まってしまうと、わたしはひとりになってしまう。自分の返事もころんと床に落ちたみたいに寂しい気持ちになる。

膨らんでいた胸が、あっという間にしぼんでくるような気がして、慌てて窓の外に目をやった。
理央さんとわたしの控室として、使わせてもらっているこの小さな会議室があるのは、確か、3階だったな。

窓の下を覗き込むと、色とりどりの傘が、スクランブル交差点を上手に転がってバッテンの形を作っていくみたいに見えた。

玲音さんは、何色の傘を、差すのかな。この前見た気がするけど、暗かったせいか、思い出せない。

わたしは、まだ、そんなこともよく知らなかったんだな。


なんて、きっかけはほんの些細なことなのに、一度考え始めると、思いは止まらなくなる。


今、お仕事中かな。何か美味しいお菓子を作っているのかな。それは、ケーキ?あ、たまにはショーケースの傍で、接客もするのかも。いや、もしかしたら、ちょっと休憩中で、大山さんと楽しそうに話してるかもしれない。


…どうして、いるのかな。

なんて、考えていたから。幻影でも見ているんだろうか、って。

わたしって、ここまで妄想が激しい人間だったかなぁ、とか、ぼんやり考えながら、窓の外のその人の姿を捉えていた。


向かい側のビルには、2階のフロアにカフェが入っているみたい。窓際で、2人掛けの小さな席に腰掛けているその人には、その椅子が小さすぎる、って思う。

見慣れたグレーのエプロンは掛けていないけど、白いシャツと、黒いパンツのその姿も、よく見る仕事着だ。


本物の玲音さんに、会いたいなぁ。


…でも、やけにはっきり見える、その姿。道を挟んでいるし、雨も降ってるけど、カフェの店内は照明が明るいおかげで、薄暗い部屋にいるわたしからは、中がよく見えるのだ。


玲音さん、だ…。

一気に覚醒して、その姿を凝視する。

やっぱり、本物の玲音さんだ。


元気に、してる…、んだ。

まず、病気やけがをしていたわけではないことにほっとした。考えていた「会えない理由」のうちの一部が消える。


でも、玲音さんの顔は、表情がこわばっているみたいに見える。ときどき、何かを話しているみたい。なのに、ちっとも笑わない。

ここでようやく、向かい側に座る人に意識を向けることができた。


それは、早川千歳さんだった。テーブルを見つめるような角度で俯いたまま、表情すら見えない。その姿が、どう見たって彼女らしくない。


玲音さんらしくない表情。早川さんらしくない仕草。


それから、もうすぐ午後3時を迎えようかというこの時刻、お店にいない彼ら。3人のパティシエのうち2人が抜けられるなんて、お店が忙しい時期というわけでもないのだろう。

また、考えていた「会えない理由」のうちの、別の一部が消えていった。


ああ、やっぱり、何かが起きている。わたしの知らないところで。

そのことだけは、はっきりと、気づかされた。それが何かということは、わたしには一切知らされることなく、ともかく玲音さんと早川さんは何か深刻な問題を抱えていて、今、あの席で、その話をしていることは確かだ。


誰の、いたずら?何の、試練?わたしって、運、悪いよね?

元気かどうかだけ一目見ようと、玲音さんのお店に足を向けそうになったことだって、何度もあった。それを踏みとどまっていたのに。

玲音さんのことを考えないために、頑張っていた仕事なのに、その仕事で出かけた先で、どうしてこのような場面を目撃しないといけないんだろう、わたしは。


玲音さんがわたしに会ってくれない訳は、今だってちっともわからない。

玲音さんと早川さんがあんな暗い雰囲気に陥るような事態になってる、ってことだけが確実で、それがお店のことなのか、わたしに関係することなのか、それすらもわからない。


それなのに、玲音さんが間違いなくわたしを避けているって事実だけは、今、こうしてはっきりと、わたしの目の前に突き付けられているのだ。


たった一人の静かな会議室で、だらだら流れてくる涙には、「何年でも待てる」と彼に伝えたときの暖かさなんか、微塵もなかった。


それは、こぼれ落ちるたびに、頬も体の芯も冷やしていくようだった。
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