閑中八策
 日本での身体装飾としての刺青ないしタトゥーの起源は邪馬台国の時代までさかのぼる。
 邪馬台国とその女王卑弥呼を記録している事で有名な「魏志倭人伝」には当時の日本人が「男子皆黥面文身」と表記されている。
 これは現代で言う刺青、タトゥーの事だとする説が一般的だ。

 ただし、色は単色で模様も単純な物だったと推定される。未開民族がこういうタトゥーを入れる習慣は世界中に広くあり、日本から東南アジアにかけての海洋民族には古代広くあった習慣である。

 この入れ墨は、必要性の観点から受け継がれた習慣だったと考えられている。
一つは帰属証明としての機能である。
 小さな部族社会で生きていた時代、よその部族は潜在的な敵であった。従って同じ部族に属している事の証明として、共通の色、模様の刺青をしたのではないか、というわけだ。

 二つ目は成人である事の証明。
 アイヌ民族にも古くは顔に入れ墨をする習慣があった事が知られている。これはどうも、大人として認められるための何らかの通過儀礼を済ませた事を示すための物だったらしい。
 この入れ墨があれば、古代の部族社会では一人前の大人と認められ、話し合いの席での発言権も与えられる、という機能があったようだ。

 三番目の機能は自己の安全保障。
 法律や警察制度が未発達だった時代には、自分の帰属する集団のテリトリーの外へ出かけるのは命がけの行為だった。
 地域一帯に影響力を持つ集団に自分が属している事を他者に誇示して、むやみに襲って来ないように警告する、そういう機能を入れ墨ないし刺青が持っていた時代もあっただろう。
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