愛は満ちる月のように
那智が『十六夜』をオープンしたのは、ちょうど悠がO市にやってきたのと同じ時期になる。

彼はこの地方都市では結構名の売れたフランス料理のシェフで、美月の泊まった暁月城ホテルのフランス料理店に勤めていた。

ホテルの所有者である幸福屋グループの重役令嬢と婚約し、都心のホテルに店を持つ計画が……相手方から婚約を解消され、すべてがご破算となる。ただ、もともとは好きな料理を提供したいだけだったので、都心の店に未練はない。

だが、破談は彼の人生に思わぬところで影を落とし、彼は暁月城ホテルに勤め続けることができなくなった。

直後、那智は預金をはたいて古いビルを借り、創作料理のレストランをゼロから作り上げた。


悠と出会ったころは、那智にとって精神的にどん底だったと言ってもいい。

最初に悠が店を訪れたとき、彼はお世辞にも那智に好意的とは思えなかった。


『タウン誌で拝見しましたよ。シェフは腕一本で独立されたばかりとか。でも、誰からも認められて、期待のレストランと書かれていました。羨ましい限りです』 


たしかに、オープン前から期待され、タウン誌で特集まで組んでもらった。

それにはシェフとしての腕前だけでなく……那智の容姿が女性受けのする、柔和で整った顔立ちということもあるだろう。あと、幸か不幸か独身という理由も。県北の旧家出身で、田舎には広大な土地を所有する地主の三男坊ということもあったかもしれない。

加えて、後輩や従業員、取引先から慕われる控えめな性格も後押しされる理由のひとつ。


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