マスカケ線に願いを

「今回の出張は、ユズが所長のお守りをするためなんだぞ」
「お守りって……」
「ドイツに行く用事ができたらしい所長は、ドイツ語ができる俺に白羽の矢を立てたのさ」

 そうだったのか。

「ユズって、ドイツ語も喋れるんだ……」
「Ja……Ich liebe dich」
「え?」

 きょとんとユズを見上げた私の額に、ユズがキスをした。大胆なユズの行動に、私はうろたえる。

「ちょ、人前だよ!」
「おやおや、蓬君、大河原さんが困ってるじゃないか」

 そんな柔和な声が聞こえて、私はあわてて振り返った。そこに立っていたのは、スーツケースを持った眼鏡をかけた穏やかそうな男の人。
 私達の事務所の、神崎所長だ。

「所長、遅いじゃないですか」
「待たせてすまないね。でも、可愛い彼女との挨拶ができてよかったじゃないか」

 にこやかに笑いかけられ、私は真っ赤になった。

「久島君も、蓬君のお見送りかい?」
「いえ、ユズがいない間のナイトを仰せつかってるんですよ」
「頼んでないからな。お前は小夜さんのナイトしてればいいんだよ」

 誰か、この漫才師二人の口を塞いでください……。

「そうかそうか。それじゃあ、そろそろ行こうか、蓬君」
「あ、はい」

 神崎所長の言葉に、ユズがスーツケースを持ち直した。神崎所長は私に微笑みかける。

「大河原さん、しばらく貴女の大切な人をお借りしますね」
「え、あ、はい」
「それじゃあな、杏奈!」

 ユズが神崎所長について、チェックインカウンターへと向かった。
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