気持ちは、伝わらない(仮)
その数分前。阿佐子はキッチンに戻ってオーブンの電子表示を確認していた。数字は5。よく中を覗いて確認。生地はほんのりキツネ色である。電子音が鳴って出せば丁度良いだろう、と判断した。
「こんにちは」
しゃがんでいた阿佐子は、知らない声に立って振り返った。
「あ……お邪魔しています」
涼は丁寧にお辞儀をする目の前の美しい女に見とれた。こんなに何かに見とれたのは生まれて初めてだった。
次に喋るのは自分なのに、言葉が何も思い浮かばない。
「……」
目の前で突然固まる若者の視線を気にして阿佐子は一度目を伏せた。いつものことだが、あまり慣れを見せてはいけないと考えている。
「樋口阿佐子といいます。夕貴さんとは古いお友達です」
「あ、僕は、修也 涼(しゅうや りょう)と言います。樋口さんってあの、大等部の?」
「ええ、そうです。私たち同じ学校みたいですね」
その優しい笑顔に若者はまた、固まってしまう。言うまでもなく、修也は樋口という被写体のシャッターを何度も切っていた。
「あの、よろしかったら一緒にアップルパイ、召し上がりません? お口に合うかどうか分かりませんけれど」
「えっ、いいんですか!?」
「ええ。たくさんありますから」
「じゃあ……頂きます」
その時涼は、自分がボサボサの頭に、よれたティシャツに短パンなのを思い出した。
後悔、しても遅い。
「私のこと、どうしてご存知でしたの?」
阿佐子はミットを嵌めながら聞く。
「あ、ええ。学校の連中なら皆知ってると思いますけど」
「どうして?」
彼女の大きな瞳がより開き、若者はそこに釘づけになる。
「いや、えー……」
その時、高い電子音が、オーブンが存在している中で一番価値のある瞬間を表した。
「できました」
阿佐子は笑いながらオーブンを開いて前にしゃがみこむ。
「あ、手伝いましょうか?」
重みがあるような鉄板ではないが、手伝うに十分等しい大きさではある。
「ありがとう」
阿佐子は隣に来た青年にミットを渡すと、作業をそのままゆだねた。
「涼」
涼が顔をあげるとそこには予想通り一成の姿が。そしてなぜか、怒っている。
涼は一成が怒りを露わにしていることに驚いた。いつもクール、冷静沈着な大人の一成が今はいない。
「え、あー……」
やはり彼女だったのか、彼女と話をしていることに怒ったのか……涼は一成と目が合っている数秒、言葉が全く出なかった。
「夕ちゃん、お皿三つ出して」
阿佐子は知ってか知らずか、2人を見ようともしない。
一成は阿佐子の指示に応えることなく、片手で先ほどのカタログの24頁を開いた。そこにはペアの時計が20近く並んでいる。
「これ?」
その中の一つを一成は指差す。
「そう、すごい! 偶然?」
「なめんな」
一成は笑いながら、ようやく皿を出していく。
「あの、2人はお付き合いされてるんですか?」
こんなところにいる自分はやはり邪魔なのではないかと心配で仕方ない涼が聞いた。と、すぐ一成が睨んでくる。
「それ、あなたの中で重要なこと?」
少々威圧のある喋り方だが彼女が笑ってくれたので少しほっとした。しかし、一成がこんなに感情を表すのは本当に珍しい。やはり相手が樋口阿佐子だからか。
「いいよ……。お前の中で阿佐子が俺のファンだってことにしとけ」
「それだと修也君の中だけじゃなくて、現実とあまり変わらないんじゃなくて?」
数秒2人は見つめ合う。
涼はそれに気づかないふりをするために、ただ黙り込んだ。居心地の悪さにドキドキする。
先に目を逸らしたのは阿佐子だった。それを横でちらっと見ていた涼は思わず見とれて目で追ってしまう。
その阿佐子は涼と目を合せると、にっこり笑顔ではっきりと言った。
「お店に行かないファン。そういう人もいるってこと」