気持ちは、伝わらない(仮)
名も知らないサラリーマン
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学生兼天才プログラマーとして幼少の頃から既に働き、二足のワラジという多忙な生活を送っていた阿佐子は、この4月に高等部から大等部に無事進級し、ほっと一息ついていた。
学業など、もはや不必要と言われて3年。それでも、学生に拘ったのは、ただ遊びたかっただけだ。
宿題や授業はとても面倒で、既に分かりきっていることを聞いたり書いたりするのは非常に無駄とも言える。だけど、それ以外の、例えば休み時間のほんの15分や、みんなと給食を食べる時間、それらがその面倒臭さを忘れさせるほど、楽しいのだ。
そんな中、5月も終わりに近づいた頃には、新しい友達と呼べるような幾人が出来ていた。
「今日はどこ行く? どこ行く?」
黒いストレートのロングヘアをそのまま流し、恰好よく黒ブレザーの制服をミニスカートに、そしてピンクのスニーカーを履いた女子大生が声を弾ませた。彼女の名前は、高梨 琴吏(たかなし ことり)。
「うーん、お好み焼きでも行くか!」
関西弁の方は、崎山 紫子(さきやま むらさきこ)。お姫様のような名前とも、琴吏の風貌とも対照的な紫子は無造作ショートカットにほとんどノーメークだ。
「また粉モン?」
琴吏は顔を顰めながら聞く。
「君は関西人を侮辱しとんのか?」
紫子は琴吏を睨む。
「グラスに行かない?」
阿佐子は唐突にも、何の前後もなく2人に割って入った。『グラス』というのは最近阿佐子がよく行くカフェの名前である。
「パフェか……」
そう言いながら紫子と琴吏は顔を見合わせた。
「じゃあいいよ。パフェにしよう」
琴吏が決定した。
実は2人は阿佐子の「グラスに行かない?」にパフェ以外の、深い意味が隠されているということに感づき始めていた。
簡単に言えば、阿佐子はあの店によく来るサラリーマンをよく見つめているのである。琴吏と紫子は2人になるとその話題に触れることが多くなっていた。
「ええんやけど、ちょっと冷たい感じやで、あれは」
紫子のタイプでは、全くない。
「いくつくらい? 30は超えてるよね。結婚してたりして。指輪してた?」
琴吏は目を大きくして、紫子に問う。
「さあ……しててもおかしぃないよね。でも阿佐ちゃんもあんな年増選ばんでもなんぼでもおるのに」
「私は似合うと思うな。阿佐ちゃん年上好きそうじゃん。相手が結婚さえしてなかったら大丈夫そうだけど」
「そうやなあ……でも私的にはもちっと若い方がええな」
結局3人は、阿佐子の意見を通し、グラスへ入る。
ウェイトレスが入って来た客に気付き、通路を歩いてくるその何秒かの間に阿佐子の後ろに客が入った。
一度後ろを向く。
一瞬で身体が熱くなった。 赤面する。
「……そうだな」
彼の声をこんな間近で聞いたのはもちろん初めてのこと。
「ミナト先輩だと大丈夫ですよ」
後ろにいたもう1人の男も喋る。
この時阿佐子は初めて、彼の名がミナトであることを知った。
「3名様ですか? どうぞ奥へ」
阿佐子はウェイトレス逆らうことなく、当然通路を歩いて奥へ入った。
「……顔、赤いよ」
3人腰かけるなり紫子が小声で言う。
「え?」
慌てて両手で頬に触れたが熱いのは充分分かっていた。
阿佐子はそのままの体勢でウェイトレスにいつもの品を注文し、そして去ったのを見計らって、紫子と琴吏の攻撃が始まった。
「ずっと好きだったでしょ」
琴吏が言った。
阿佐子は一度下を向き、上目使いで頷く。手はまだ頬をおおっている。その姿がとても可愛いと琴吏は思った。
「あのっ、違うの」
阿佐子はようやく手を下ろして言った。
「何が?」
紫子が聞く。
「いえ……何も違わないけど……その……」
「あの人結婚してないの?」
琴吏がずっと気になっていたことを聞く。
「指輪はしていないみたいだけれど、どうかしら? あぁもう嫌だ……なんかストカーカーみたいじゃない、私?」
「今は大丈夫だよ」
琴吏は笑った。
「琴ちゃんが電信柱の影から見てたら警察に突き出したるけどね。阿佐ちゃんなら盗撮されてもオッケー」
「何なの、その違いは?」
「純粋な男の希望つてやつや」
「ひどおぃ!」
琴吏は悲しそうな顔を大げさに作った。
「今、阿佐ちゃんの後ろにおっったよね。どうだった? 匂いとかせぇへんかった?」
「紫子さんはするよね。メロンの匂いが。でもただのメロンじゃないんだよ。本当はプリンと醤油なの」
「どう? どう?」
紫子はせかすが、
「匂いは分からなかったわ」
しかし阿佐子は苦笑しながらも、遠慮気味に「でも……ミナトさんって呼ばれてた」。
「おお! 名前が分かっただけでも収穫ありやな。後は結婚しとるかどうか」
琴吏は突然思いつく。
「略奪とかは?」
「あかんあかん! それは絶対あかん! そんな男は結局繰り返すんよ。略奪の人生」
琴吏も続ける。
「奪い奪われ落ちていく堕落の人生……好きなってはいけないのだ! 神様、どうかってやつだね」
阿佐子は多分、琴吏の三文芝居に笑うだろうなと琴吏は思ったが、神妙な顔をして
「私もそう思う」
と一言放ったため、琴吏と紫子は顔を見合わせた。