気持ちは、伝わらない(仮)
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父は警視総監だが、母の記憶は全くない。
卵焼きが母の匂いという歌があったと紫子が以前言っていたが、阿佐子には思い出すどころか、想像もできなかった。
なぜなら、兄の話では、阿佐子の母は早くに病死したからだ。
だが、感傷的になったことはない。
父の兄樋口グループ総帥 樋口幸の妻にあたる松子が口うるさく自宅に通っていたせいで、母的な存在を嫌いになったことがあるからかもしれない。
几帳面で自分が一番正しいと思っている叔母はとても煙たい存在であり、それから逃げるために叔父や兄の薦めでプログラマーの仕事を始めた。
「この子はロンドンの旧伯爵家に許嫁がいるの。おじい様が是非にと進めて下さったのよ?
仕事なんかしたって時間の無駄よ。それよりも、花嫁修業をさせるべきだわ。いくら許嫁と言っても、最近は最後まで分からないものよ? 女は清く、美しく、賢くなくちゃいけないわ」
という現実主義の叔母に対して叔父は、
「天才的な頭脳があるなら、結婚までに生かさない手はない!」
と私の肩を叩いた。同じく、兄も隣で頷いていた。
許嫁の話は、叔母からぼんやり聞いたことがあるだけで、事実なのかどうかも詳しくは知らない。
そんな中、仕事を始めてもう6年。自室のパソコンの前で籠ることによって成り立つ作業は、自分の中では逃げられない宿題と捉えているが、あながち間違いではない。
「あの……」
あまりにも気持ちの良い日差しの下校時、ぼんやりと考え事をしながら歩いていたせいで後ろから声をかけられて一瞬停止した。だが次の瞬間にはどうにか振り返ることができる。
「昨日はどうもありがとう」
KO……。
まさか本人が後ろから現れるなど全く予期していなかった阿佐子は、ミナトが差し出したの赤い折り畳み傘を受け取るのが言一杯で、言葉1つ出ない。
「今からね、少し時間があるんだ。お礼をしたいんだけど、どうかな?」
「え!? いえ、お礼なんて、そんな……」
スーツ姿ということは外回りの最中だろうか、今日は後輩はいないのだろうか。そんな余計なことが頭を回ったせいで、会話に集中できない。
「お礼なんていっても大したことじゃないから、そこ入ろう」
大人なミナトの積極的な言葉に返すセリフが思いつかない。
「あ、時間ないかな?」
先に歩きかけたミナトは後ろを振り返って聞いた。
「いいえ!! 大丈夫です!!」
彼の靴はフェラガモ。
だから何だというのだ!!
阿佐子は聞こえないように静かに深呼吸をする。
「僕もまた社に戻らないといけないから、20分くらいだけ」
ミナトは少し残念そうな表情を見せながら、店の開き戸を押した。
阿佐子は目の前のミナトに見とれる自分をなんとか制し、自分も大人びたふりをして「じゃあ、少し他だけ」と心にもないことを言った。
グラスは空いていた。
2人は当然ボックス席で向い合せに座る。
「好きな物頼んでいいよ」
ミナトはメニューを差し出して阿佐子に優しく笑いかけた。
空いていたせいか、ウェイトレスがすぐに注文を取りに来る。
「あ、僕はコーヒー」
阿佐子はとにかく口を動かせようと「おの、オレンジジュースを」とメニューも見ずに控えめに言った。
「チーズ平気?」
「え?? あ、はい」
予想外のミナトの質問に阿佐子は驚く。答えは反射的だが、もちろんチーズは平気だ。
「じゃあチーズケーキ2つ」
2つと注文したのは意外だった。まさか、1人2つではないだろう。
阿佐子は居心地悪そうにうつむいていた。相手がミナトだと意識するとそれだけでダメである。今自分の顔はどのくらい赤いのだろう。それを考えるだけで、また赤みがひどくなりそうだ。
「僕はこういうものです」
まず、ミナトは阿佐子によく見えるようテーブルの上に名刺を差し出した。
目を疑う。
そこには『樋口グループ ソフト開発株式会社 企画部 主任 湊 誠二(みなと せいじ)』と書かれていた。
もしかしてこれは偽の名刺ではないか、そして自分を何かの罠にはめようとしているのではないか、と疑った。
なぜなら阿佐子は、樋口グループ総帥 樋口幸の姪にあたるからである。更に、阿佐子が在籍している会社は樋口グループ ソフト開発株式会社。肩書は研究所 副主任である。
今度はこちらが名乗る番である。阿佐子は偽名を使うべきかどうか迷った。だが義名を使う意味もない。2秒でここまで考えてから、ようやく一枚の名刺を手に取った。
「私の名前は……、樋口……阿佐子です」
視線を下に投げたまま言う。だがそれでも湊が驚いたのが分かった。
「えっ!? もしかして……グループの人?」
「……親戚です……遠い」
顔を上げると湊は視線を宙に浮かせたまま何やら忙しく考えているようである。
きっとバレたに違いない。研究員としての顔が公になってはいないが、以前雑誌にちらっと載ったことが会社で噂になったと叔父から聞いていた。
企画部と阿佐子の仕事関係は皆無に近いので、この先仕事関係で出会うことはないだろうが、あんなにも遠かった湊の存在が実はこんなにも近い距離にいたのだと分かり、無意識に安堵の溜息が出た。
少し気が楽になった。相手の身元が割れたのである。身内というのは少しやっかいかもしれないが、見ず知らずの人よりはずっとずっと良かったに違いない。
「それ桜美院学院の制服だよね」
湊は思考を切り替えたのか、優しい表情で尋ねた。
「あ、はい。大等部です」
何とかリラックスしよう。阿佐子はそれに努める。
「専攻は何を?」
「国文科です」
「ああ……そうなんだ」
丁度ジュース、コーヒー、ケーキが同時にテーブルに並んだ。
湊はコーヒーに口をつける。
だが阿佐子は腹具合どころではなかった。
絶対に今言うしかない。今想いを伝えるしかない。
今言わないでいつ言う?
好きだと一言言えばいい。
湊さんがずっと好きだったと、言えばいい。
湊はカップをソーサに戻し、フォークを手に取った。
「食べないの? もしかしてチーズ、ダメだった?」
「いえッ、そんなことは!!」
阿佐子は気持ちを落ち着けて、ストローに口をつける。
焦るな、焦るな。
だけど少し焦った方がいいのか!?
焦るのか!? 焦らないのか!? 言うのか!? 言わないのか!? いや、言うしかない!!!!
阿佐子は窓の外を見つめている湊に思い切って話しかける。
「あッ……」
「雨が降りそうだね。あ、何」
せっかく目が合ったのに、完全にタイミングを失った。
「あ……。雨が降りそうですね……」
父は警視総監だが、母の記憶は全くない。
卵焼きが母の匂いという歌があったと紫子が以前言っていたが、阿佐子には思い出すどころか、想像もできなかった。
なぜなら、兄の話では、阿佐子の母は早くに病死したからだ。
だが、感傷的になったことはない。
父の兄樋口グループ総帥 樋口幸の妻にあたる松子が口うるさく自宅に通っていたせいで、母的な存在を嫌いになったことがあるからかもしれない。
几帳面で自分が一番正しいと思っている叔母はとても煙たい存在であり、それから逃げるために叔父や兄の薦めでプログラマーの仕事を始めた。
「この子はロンドンの旧伯爵家に許嫁がいるの。おじい様が是非にと進めて下さったのよ?
仕事なんかしたって時間の無駄よ。それよりも、花嫁修業をさせるべきだわ。いくら許嫁と言っても、最近は最後まで分からないものよ? 女は清く、美しく、賢くなくちゃいけないわ」
という現実主義の叔母に対して叔父は、
「天才的な頭脳があるなら、結婚までに生かさない手はない!」
と私の肩を叩いた。同じく、兄も隣で頷いていた。
許嫁の話は、叔母からぼんやり聞いたことがあるだけで、事実なのかどうかも詳しくは知らない。
そんな中、仕事を始めてもう6年。自室のパソコンの前で籠ることによって成り立つ作業は、自分の中では逃げられない宿題と捉えているが、あながち間違いではない。
「あの……」
あまりにも気持ちの良い日差しの下校時、ぼんやりと考え事をしながら歩いていたせいで後ろから声をかけられて一瞬停止した。だが次の瞬間にはどうにか振り返ることができる。
「昨日はどうもありがとう」
KO……。
まさか本人が後ろから現れるなど全く予期していなかった阿佐子は、ミナトが差し出したの赤い折り畳み傘を受け取るのが言一杯で、言葉1つ出ない。
「今からね、少し時間があるんだ。お礼をしたいんだけど、どうかな?」
「え!? いえ、お礼なんて、そんな……」
スーツ姿ということは外回りの最中だろうか、今日は後輩はいないのだろうか。そんな余計なことが頭を回ったせいで、会話に集中できない。
「お礼なんていっても大したことじゃないから、そこ入ろう」
大人なミナトの積極的な言葉に返すセリフが思いつかない。
「あ、時間ないかな?」
先に歩きかけたミナトは後ろを振り返って聞いた。
「いいえ!! 大丈夫です!!」
彼の靴はフェラガモ。
だから何だというのだ!!
阿佐子は聞こえないように静かに深呼吸をする。
「僕もまた社に戻らないといけないから、20分くらいだけ」
ミナトは少し残念そうな表情を見せながら、店の開き戸を押した。
阿佐子は目の前のミナトに見とれる自分をなんとか制し、自分も大人びたふりをして「じゃあ、少し他だけ」と心にもないことを言った。
グラスは空いていた。
2人は当然ボックス席で向い合せに座る。
「好きな物頼んでいいよ」
ミナトはメニューを差し出して阿佐子に優しく笑いかけた。
空いていたせいか、ウェイトレスがすぐに注文を取りに来る。
「あ、僕はコーヒー」
阿佐子はとにかく口を動かせようと「おの、オレンジジュースを」とメニューも見ずに控えめに言った。
「チーズ平気?」
「え?? あ、はい」
予想外のミナトの質問に阿佐子は驚く。答えは反射的だが、もちろんチーズは平気だ。
「じゃあチーズケーキ2つ」
2つと注文したのは意外だった。まさか、1人2つではないだろう。
阿佐子は居心地悪そうにうつむいていた。相手がミナトだと意識するとそれだけでダメである。今自分の顔はどのくらい赤いのだろう。それを考えるだけで、また赤みがひどくなりそうだ。
「僕はこういうものです」
まず、ミナトは阿佐子によく見えるようテーブルの上に名刺を差し出した。
目を疑う。
そこには『樋口グループ ソフト開発株式会社 企画部 主任 湊 誠二(みなと せいじ)』と書かれていた。
もしかしてこれは偽の名刺ではないか、そして自分を何かの罠にはめようとしているのではないか、と疑った。
なぜなら阿佐子は、樋口グループ総帥 樋口幸の姪にあたるからである。更に、阿佐子が在籍している会社は樋口グループ ソフト開発株式会社。肩書は研究所 副主任である。
今度はこちらが名乗る番である。阿佐子は偽名を使うべきかどうか迷った。だが義名を使う意味もない。2秒でここまで考えてから、ようやく一枚の名刺を手に取った。
「私の名前は……、樋口……阿佐子です」
視線を下に投げたまま言う。だがそれでも湊が驚いたのが分かった。
「えっ!? もしかして……グループの人?」
「……親戚です……遠い」
顔を上げると湊は視線を宙に浮かせたまま何やら忙しく考えているようである。
きっとバレたに違いない。研究員としての顔が公になってはいないが、以前雑誌にちらっと載ったことが会社で噂になったと叔父から聞いていた。
企画部と阿佐子の仕事関係は皆無に近いので、この先仕事関係で出会うことはないだろうが、あんなにも遠かった湊の存在が実はこんなにも近い距離にいたのだと分かり、無意識に安堵の溜息が出た。
少し気が楽になった。相手の身元が割れたのである。身内というのは少しやっかいかもしれないが、見ず知らずの人よりはずっとずっと良かったに違いない。
「それ桜美院学院の制服だよね」
湊は思考を切り替えたのか、優しい表情で尋ねた。
「あ、はい。大等部です」
何とかリラックスしよう。阿佐子はそれに努める。
「専攻は何を?」
「国文科です」
「ああ……そうなんだ」
丁度ジュース、コーヒー、ケーキが同時にテーブルに並んだ。
湊はコーヒーに口をつける。
だが阿佐子は腹具合どころではなかった。
絶対に今言うしかない。今想いを伝えるしかない。
今言わないでいつ言う?
好きだと一言言えばいい。
湊さんがずっと好きだったと、言えばいい。
湊はカップをソーサに戻し、フォークを手に取った。
「食べないの? もしかしてチーズ、ダメだった?」
「いえッ、そんなことは!!」
阿佐子は気持ちを落ち着けて、ストローに口をつける。
焦るな、焦るな。
だけど少し焦った方がいいのか!?
焦るのか!? 焦らないのか!? 言うのか!? 言わないのか!? いや、言うしかない!!!!
阿佐子は窓の外を見つめている湊に思い切って話しかける。
「あッ……」
「雨が降りそうだね。あ、何」
せっかく目が合ったのに、完全にタイミングを失った。
「あ……。雨が降りそうですね……」