気持ちは、伝わらない(仮)
ポーカーフェイス
♦
樋口阿佐子はぎこちなく歩きながら、頭1つ半高い、隣の男の顔を盗み見る。
付き合って初めての水族館でのデート。相手はもちろん、湊 誠二だ。本日の彼はベージュの薄いストライプが入った襟付の綺麗な半袖に黒いパンツ。顔にはやはりメタルフレームのメガネ。どうやらコンタクトをつける習慣はないらしい。
「そうそう……」
クライマックスともいえるジンベイザメを見ながら湊は切り出した。
「この前本で読んだんだけどね。ヒラメの赤ちゃんはちゃんと左右両側に目があるんだって。普通の魚みたいに。それがね、だんだん右の目が頭の上を回って、こう、左側に移動してくるそうだよ。それで仕方なく横倒しになっているんだ」
「どうしてそんな必要があるのでしょう?」
阿佐子はその話題よりも湊が普段どのような本を読んでいるのかということに興味があったが、それは後で質問することにする。
「人間と同じ、ただの成長の過程じゃいなかな。人間だって生まれた時より1メートル以上大きくなって手も足も伸びるけど、そんなに大きくなる必要はないと思う」
湊は笑って言った。彼の身長は190センチ近い。
「背が近いと不便ですか?」
阿佐子も笑いながら続けた。「不便だってよく聞きます」。
特に聞いたわけではないが、家族の中で一番背の高い兄はキッチンの少し出た棚でたまに頭をぶつけていた。それは兄だけに起こる現象なので特に修繕もそれないが、あの棚の角も少しずつすり減っているのではないかと思う。
「本当不便」
兄よりも少し大きそうな湊はゆっくり進む。
「高いところにある物が取れるから便利だよねとか言われるけどね、大体そんな高いところによく使うものなんて書いてないんだよ。それにバレーもバスケもしないしね」
「学生の時は何の部活をされてましたか?」
時々この言葉遣いでこういう質問を出すと自分が面接官になったような気になる。だがそれでも彼に敬語を使うのをやろようとは思わない阿佐子であった。
「陸上部。長距離の選手だったんだよといってももう10年近く前の話。信じてもらえないかな」
湊は優しく笑いかける。
「いえ……。そうですか。じゃあきっとその長身は生かされてますよね」
「ところが、そうじゃないんだ。短距離なら足が長い方が有利だけどね。長距離は特に関係がない。というより、体が小さい方が消費するエネルキィが少ないから長距離に有利なんだ……一体僕はどうしてこんなに大きいんだろう」
湊は半分真剣に自問した。しかし阿佐子は面白くて笑う。
「樋口さんは部活何かしてる? してないか」
湊は阿佐子が忙しいのを知っていながら聞いた。
「いいえ、そんな時間ありません。だけど、あったとしても多分何も入らなかったと思います。スポーツは苦手だし。もし時間があればきっと、毎日お友達とカフェで飽きるまでおしゃべりして、時間を気にせず遊んで過ごすと思います」
出口を出てから駐車場までのんびりと歩く。時刻は5時半。ここから阿佐子の家までは1時間近くかかるので丁度良い時間に帰れそうだ。
阿佐子は湊が開けてくれたドアからクラウンに乗り込む。シートベルトをかっちり締めて、予定通りのタイミングで話題を持ち出した。
「私、パソコンを買ったのです」
「……何の?」
自室に仕事用の端末があることを既に聞いていた湊は、不思議に思って聞いた。
「何ということもないのですけれど。あの、メールとかしたなと思って」
実際このデートの約束は先週会ったときにとりつけたものであり、この一週間は音沙汰なしだった。
湊は驚いて声を上げた。
「今までプライベートのパソコン、持ってなかったの!?」
「何かおかしいですか?」
「いや……いや、そんなことないよね。僕も仕事で使うのが大半だ。……だけど……不便じゃないか」
「そうですね。仕事でパソコンにばっかり向かっていると、それ以外のことが恋しくなりますから。あ、だから私、携帯も持っていないのです」
「えっ!? あ、そうなの……聞こうとは思ってたんだ。だけど、まさか持ってなかったなんて想像もしなかったから……」
現在の携帯電話普及率は9割を超えている。そんな中、持たないことに意義を見出している、その阿佐子の生き様に湊は感嘆の溜息を吐いた。
「携帯は苦手で。仕事の時間以外は自由でいたいです。それに、パソコンのメールの方が使い慣れているので、新しい物を」
「仕事用のはプライベートでは使えないんだね」
「あれは研究所としかつながってないんです」
「そっか。じゃあアドレス書いておいてくれる? ダッシュボードに紙とペンがあるから」
阿佐子は言われた通り覚えているアドレスをメモ帳に記入する。
「じゃあ僕からメールするよ」
今日一日、雑談の中でもたいていは仕事に絡んだパソコンの話がほとんどの中、もうマンションまで数分というところで湊は「あのさ」と切り出す。
「はい」
阿佐子が不必要な返事をするくらい、その間は長かった。
「樋口さんだとあれだから、阿佐子さん、って呼んでいいかな」
阿佐子は目を大きくして湊を見つめた。だが湊は真っ直ぐ前を向いたまま。遠慮した言い方のわりに表情は真剣である。これはきっと湊のポーカフェイスなのだろう。
「はい」
阿佐子も前を向いて返事をした。
ということは自分は「誠二さん」と呼べばいいのだろうか。
「……」
聞こうとしてやめた。そんなに急く必要はない。
樋口邸の門の前で車は停車した。
幸か不幸か、近くには誰もいない。
湊は阿佐子を見つめようとした。が、やめる。
「じゃ、メールするから」
視線は一度交わってすぐに離れた。
阿佐子は心なしか少し、ほっとする。
「はい。待っています」
すっと車から降りると開いていたサイドウィンドから手を振って背を向けた。門の隣の小さな扉から中へ入る。
1、2、3、4、5……5秒待って、背後で車の遠ざかる音が聞こえた。
阿佐子は音が完全に聞こえなくなってからようやく、降り返る。