絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ

結婚をしない前提の付き合い

 6月も半ばになり、本社の下っ端の人間が店舗の応援に頻繁に向かう時期になる。もちろん、香月もそのメンバーの一人であった。
 久しぶりに念願の店へ出られたのはいいが、しかもフリーで担当を決められていないのはいいが、メンバーが知らない人ばかりで、皆冷たいし、微妙に忙しいし、フロアが広いし、疲れてばかりで午前中が終わり、昼食もスタッフルームの片隅で一人でとることになる。
 午後から夕方までは客数が少し減り、なんとなくのんびり店舗を歩いているところへ、ある一人の見覚えのある女が向こうから手を振ってきた。
 隣の男は誰だか知らない。が苗字が最上であることは、間違いなさそうだった。
「いらっしゃいませ」
 もちろんその男の腕の中には、あの小さな子供がいた。見る度に手足や顔、とにかく体全体がしっかりしてきて、違う生き物になっていくような気がした。
「いらっしゃいましたー」
 最上春奈はにこやかな笑顔をこちらに向けたが、すぐに隣で気付いた社員が、
「あー、最上さん!」
 と割り込んでくる。
「いやー、大きくなったねえ、今何ヶ月?」
「今7ヶ月です。下ろすとどこまででも這って行きますよ」
「いやぁん、うんうん、そんな時期、そんな時期ぃ」
 夫は妻に子供を渡し、最上は完全に主婦の社員と話しを始めてしまったので、香月は忙しい振りをして、そのまま過ぎ去ろうとすると、意外にも最上の夫が話しかけてきた。
「香月さんですよね」
 そりゃあ、名札にはそう書いている。
「はい、あ、私のこと、ご存知だったんですね」
「一回店舗応援で見かけたことがあるんです」
「そうだったんですか。全然知りませんでした(笑)……。すみません、いつも遊びに行かせて頂いて……」
 身長が2メートル近くあろうかという長身の夫は、見るからに目立つ存在だが、それでも、香月の中では見かけた覚えもなく、おそらくどんな印象もなかったのだろう。
「なあ、ちょっと俺、オーディオのコーナー見てくるから」
「あ、うん」
 夫の言葉に、少し意外そうな顔をした最上は、それでも主婦に話しかけられてそのまま立ち尽くすことを選んだ。
「香月さん、オーディオのメディアってどの辺りですか?」
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