絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ
 その微笑みを久しぶりに見た香月は、ああ、今日夕貴に会いに来て良かったと思った。それは、何よりも彼が元気そうな瞬間だったからである。
 結局、ゆうきの店で一時間半ほどおしゃべりを楽しんでから、3人は外へ出た。この店は立地条件が非常によく、一歩外へ出ると、すぐに大通りである。これならタクシーも拾いやすい。
「奏ちゃんと香月さんは一緒の便で帰る? 私ちょっと今日は反対方向に帰るから」
 明日休みだということもあって、友人の家でも行くのか、はたまた、病院の影でこっそり医者を待つのか。香月の予想をよそに、今井は時計を見ながら、誰ともせずに提案した。
「あ、そうなんですか。じゃあ」
 香月はただ、タクシー代が半分もしくは、タダになることをすぐに嬉しく思った。
 紺野は顔色も変えずに、無言で手を挙げる。
 ここは交通量が多い。きっと一分もしないでつかまるだろうと、何気なく帰る方向と反対側を見たその時、驚くほど近くに知り合いがいることに気づいた。
「びっくりした……。電話、見た?」
 相手は珍しく本当に驚いたようで、一時停止している。
「え?」
 何に対するびっくりなのか、一瞬考えてから、バックの中に手を突っ込み、携帯電話を探した。
「え、あ、ほんとだ、電話くれてたんだ。ごめんなさい、気づかなかった」
 それよりも香月が驚いたのは、榊久司の仕事帰りであろう服装であった。ワイシャツの上に真っ白の薄手のジャケットを羽織っており、一瞬そこにあの銀世界がよみがえったのではないかと思った。
 しかしここはロンドンではない。つまり、その服装はかなり目立っている。隣にもう一人スーツの男がいたが、完全に引き立て役になっていて、ああ、ここはやはり日本だと改めて思い知らされた。
「丁度伝えたいことがあって会うつもりだったんだけど、今からどうかな?」
 伝えたいこと? このニュアンスで、話題は事務的なことであり、すぐに樋口家が連想された。さらに、隣のサラリーマンを見る。この男も何か関係あるのだうろか。
「あ、うん大丈夫。今から帰るとこだったから……。あの、い」
 まいさん、と振り返るよりも早く、
「久しぶりね」
 と、彼女は発した。確かに。
 その瞬間、全てがつながり、激しい妄想が頭の中で繰り広げられる。
 今井はこちらを見てはいなかった。完全に、榊を射抜く勢いで見つめている。
 だが、その次に返ってきた言葉は、こうだった。
「……ご無沙汰しております」
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