絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ
「マイナスだけど、それでも売名したいんだ」
「本社の人と愛人になったら……あ、あれですよ、だから」
「ああ…………」
 玉越がそうであった。本社の佐々木部長の愛人として、その関係を10年近く育んでいたと話には聞く。それは香月が入社した時から周知の事実として、時に彼女は妻のように君臨していた。上司にはまるで佐々木がそうするように親密に接し、部下には手ほどきをしながらも、下々のように扱う。
 香月と玉越の仲が、深まっていなかった背景には、このことが香月的に引っかかっていたからではないかと、今更そんな気がしてきていた。
ここで、玉越のことを佐伯に報告するかどうか、最大限悩む。
「でもまあ、そうだね……」
 言いかけて、やめた。佐伯が今知る必要なんて、どこにもない。
「そうですか? 私からすれば結構同じだったと思いますよ」
「…………何が?」
 話の筋が見えなくなって、その真ん丸の目を見つめた。
「だからあ! あーもう言うの面倒になってきた」
 ふいっとそっぽを向いたので、話が終わったんだと理解した途端、真剣な顔をして
「なんか玉越さんって、本社の人の愛人だから、堂々としていられるみたいなところはあったと思います」
 いつになく堂々と言い切ったのは、本人が既に遠い店舗に行き、もう会うことはないと思っているせいだろう。
 もういない人のことを、悪く言うような佐伯ではない。
「うーん…………」
 聞き取れないアナウンスが流れたせいにして、言葉を避けた。
「わっ……!」
 開閉音と共にアナウンスと共にドアが開くのは分かっていた。だが、その停車駅からこんなにも大量に人が乗り込んでくると思っていなかった車通勤の香月と徒歩通勤の佐伯は、バラバラになり、ドアが閉まる頃には、誰の姿も見えなくなっていた。一方はドア、三方は見知らぬ人。スーツ、学生、スーツと、背の高い男性が多い。
 なんとなく嫌だな、ととりあえずドアの方を向いている。
 まあ、真後ろの男が金髪の学生らしき人で痴漢しそうにないからまだマシか。
 自宅まではあと二駅。佐伯はその次の駅。そういえば吉田はもう降りたかもしれない。
 駅からの徒歩がまた面倒だ。とりあえず着いたらユーに電話をしてみよう。
 帰りの算段をしていると、「左方向にカーブします、ご注意下さい」というアナウンスが流れた。そんなに曲がるカーブなど、線路にないだろうと聞き流していると、車体が少しスピードを落とし、傾くのが分かった。
「ワッ!」
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