絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ
「えー……あー……まだ8時過ぎか……いや、ちょっとまだ用事もあるし……。一度阿佐子の病院に行ってみます。その前に友達を誘って」
「無理はしてほしくないが、明日はできたら仕事に来た方がいい」
「はい、必ず」
 香月は笑顔で笑ってみせた。今からすることが確認できただけでも、心が落ち着いた。
「宮下店長……あ、もう面倒だから店長でもいいですよね」
「え、あ、まあ……」
「結婚が決まったら、言って下さい。心からお祝いしたいです」
「………まだ気が早いよ」
 宮下は苦しげに笑い、香月も愛そうで笑った。宮下と出会ってからの会話で、一番苦しい会話であった、そんな気がした。
 笑顔で宮下と別れ、とりあえずタクシーに乗った。向かうは、夕貴の店。携帯に電話をしても出ないのでとりあえず店に行き、その後で病院に行こうと思っていた。
 佐伯から借りた2万円があと5千円と少し、財布に残っている。それでタクシーの代金を払うと、とりあえず店内へ入った。落ち着いた大人のおしゃれな店で、明るいし、客もよく入っている。
 やり手だとは思っていたが、こうやって実際目の当たりにすると、年が変わらないのにこの成功ぶりがかなり羨ましく思えた。
 まず、カウンターのスーツの男性に話しかける。
「すみません、一成さん、いらっしゃいますか?」
 そういえば、ここでの源氏名を知らない。前と変わっていないだろうか?
「今日はお休みです」
「あ、そうなんですか」
「こちらにおかけになられますか?」
「いえ、また来ます」
 指名の子がいない時、どうやって店を出るのか知らない香月は、そそくさと店を後にしてから気付く。しまった、タクシーを待たせておけばよかった。
 自分の店が開店しているのに休むとは、困った経営者だ。
 香月は自分の都合の良い解釈をすると、大通りまで少し歩き、二度目のタクシーを拾い、一人で桜美院病院へと先を急いだ。
 急いでも面会時間は多分過ぎている。最終時刻は8時半だったような気がするが、今は既に9時近かった。
 香月は少し考えて、夜間受付の入口へと入る。そこで深く考えずに榊の名を口にすると、用務員はすぐに医師を呼んだ。
 良かった。こちらの方がいない確率は高いはずなのに、榊はちゃんと病院にいた。
 10分ほど待ったが、ロビーのソファで腰掛けていると、彼は白衣でいつものようにさっそうと現れた。
「どうした?」
 無表情はいつも通り。
「ちょっと時間ができて、阿佐子を見に来たの。ごめんね、まさかいると思わなかったの」
 香月は自分でもおかしくて笑ったが、榊はそれをスル―して真剣な表情を見せた。
「実は容態が悪い。俺も連絡しようと思っていたんだが、しそびれてた。悪い」
「え、……悪いの?」
 予想もしなかった展開に、血の気が引くのが自分でも分かった。
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