絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ

本社の仕事

 営業第一課に来たことは何度かある。
 切れ者ばかりが揃うと名高い花形部署で、田中部長の温厚さだけが異常に浮きだっていた記憶が強い。他の者は真剣にパソコンに向かい、無駄口もない。
 そんな部署に、今日改めて頭を下げに行くのが自分だというこの、腹立たしい自体に、昨日珍しく妻に愚痴を吐いた。
 上司の不祥事降格にあたって、自分が昇進と、ここまでは良かったが、業務を交代するに変わり、まず頭を下げなければならないことがなんとも苦痛であった。そんな昇進ならいらないとまで思ったが、家庭あるこの身、錢をかせいでなんぼである。
 夜勤に行く前のナースの妻は笑い、「最初の日だけ一度頭を下げればすむじゃない」と明るく背中を押してくれた。
 部屋の奥に眠る小学生の2人の娘は、まるで天使のようで、ただ自分が汗水たらして働いた金で、伸び伸びと健やかに育ってくれればそれでいいと思っていた。
 いや、今でも思っている。自分の考えは間違っていないし、ずっとこれからも変わらない。
 
 事の始まりは単なる噂であった。よくある、ゴシップ。根も葉もない。
 時計部部長、峰信也が新店に配属された今年入社したばかりの22歳の新人を妊娠させたという、非常に危険な噂であった。
 噂はただ広がるばかりで、峰本人がそれを耳にしたのかどうかは知らない。
 あまり興味がない話題だったが、周囲が大袈裟に騒ぎたてたので、よくよく聞けば、なんと、新人だけでなく、今年35歳になる本妻も妊娠しているという、耳を疑いたくなるような話であった。その上、家庭には、今年小学校に上がったばかりの娘もいるという。
「ええ?」
 その時の自分の声が今でも思い出せる気がした。
 このゴシップはよくある悪い噂ではなく、事実であった。紛れもなく。峰部長の、ただの失態であった。
 この事態に収集をかけるように、峰は辞令を出され、降格処分になった。もともと腕がある者なので、本社の時計部は変わらないが、平社員まで落とされたのである。
 自分なら会社を辞めるなと思った。しかし、副社長の恩が忘れられないとかなんとかで、結局新しい夫婦として新人、峰、共に夫婦として在籍しているのである。
 誰もが峰に顔を顰め、口をつぐんだ。
 そんな上司の不祥事による部長交代劇を今から謝り、自分が引き継ぐのである。
 峰の顔を思い出すだけで嫌気がさしたし、これから自分が峰を指導していくと思うだけで頭が痛い。今まで副部長として峰の下でやってきたが、そこそこの上司で特に愚痴もなかっただけに、ただの机でパソコンに向かっている姿をとても見たくはなかった。
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