まだ、恋には届かない。
給湯室には、冷蔵庫や電子レンジ、コーヒーメーカーなどは置いてあるが、個人のマガカップを並べ置けるような食器棚のようなものはなかった。
そのため、そういったものは各自自分で管理している。
それが面倒な者は、給湯室に用意してある小さな紙コップを使用していた。

階段を下りる途中で、問題の遅刻魔が、だらりとした足取りで階段を登ってきた。
一応、スーツを着ていたが、明らかに昨日から着の身着のままで過ごしていたと判る格好だった。
その足取りには、遅刻したことを反省している様子さえ感じられない。
亜紀とすれ違っても、挨拶の一つすらない。
もうその態度を注意をする気力もなく、覇気のない後姿を肩越しにチラ見して、亜紀は給湯室に入った。

亜紀には最近ハマっている若手俳優がいる。

坂木慎、21歳。

お子様向けの特撮モノでヒーロー役に抜擢され、若い主婦層を中心にその人気に火がついた若手俳優だ。
キレイな顔立ちと、右の下瞼に2つある黒子が可愛らしい青年だった。

昨年、バンドを組んで歌手デビューも果たし、亜紀のマグカップは、初ライブツアーで売られていた坂木デザインによるマグカップだった。
卓上カレンダーも、もちろん坂木の顔写真つきである。

口の悪い町田は、いい年してバカかと呆れた顔で亜紀を見るが、そんなことは気にならなかった。
人にとやかく言われる筋内はない。
ましてや、町田に賢しく物申される謂れはない。
それでなくても、亜紀の秘蔵の切り抜きに、マジックで落書きをしたような不届きな男である。
この件に関して言えば、親の敵に匹敵するような憎むべき男である。


許すまじ、町田。


そんな怒りの炎は、まだ亜紀の中でふつふつとしていた。
< 10 / 32 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop