まだ、恋には届かない。
階段を登り始めて、上から声がした。


‐待てっ 江藤っ 話はまだ


課長の怒声だと気づき、亜紀は思わずなんだろうと足を止めた。

「今日は休むよ。有給まだ残ってるしさ。それなら問題ないでしょ」

事務所内から出てきた江藤が、面倒そうにそう言って、前も見ないで階段を駆け下りてきた。
危ないと思う間もなく、江藤の左半身が亜紀に体当たりするようにぶつかり、亜紀はバランスを崩す。
そのまま、尻餅をつくように、数段分、下に落ちた。

亜紀の悲鳴と、何かが割れる音に、事務所内から人が溢れるように飛び出してきた。

「松本っ」「おい、大丈夫かっ」

町田が先陣を切って、続けて野田が顔色を変えて、階段を駆け下りてきた。

「あつい」

淹れてきたばかりのお茶とコーヒーは、亜紀の右腕に浴びせられていた。
町田が亜紀の右袖のボタンを外し、ブラウスの袖をたくし上げると、白い肌は赤く染まっていた。

「冷やさないとダメだな」
「立てるか? 頭とか打ってないか」
「頭は、大丈夫です。腰と足が、ちょっと」

騒ぎに気づいた階下の総務部から、女子社員が数名、様子を見に駆け上がってきた。

「ボ、ボクのせいじゃないしっ そいつがそこに突っ立てたんだ、ボクは悪くないぞっ そんなところにいるのが悪いんだっ」

呆然と亜紀を見ていた江藤は我に返ったかと思うと、そんなことを一方的に喚きだして、逃げ出すように階段を駆け下りて行く。

「待てよ、お前っ ふざけんなっ」

逃げ出す江藤を、北岡たち数名の社員が追いかけていった。
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