キリと悪魔の千年回廊 (りお様/イラスト)
"我は境界の主なり"
パイロープでキリが聖剣の封印を解いたときと同じ現象が起きた。
あやしげな呪文の意味が、強い魔法の力によって部屋の中にいる者たちにつつぬけに伝わる。
"ドミナス・リミニスの命において
我が身を贄(にえ)に君臨せよ"
力を解放させる呪文だ。
その内容はキリが唱えていたものに似ていたけれど、
キリがつむいだ呪文の中にはなかった不吉な意味が含まれていた。
"第一にケテル・第二にコクマ・第三にビナー・第四にケセド・第五にゲブラー・第六にティファレト・第七にネツァク・第八にホド・第九にイェソド・第十にマルクト"
呪文が唱えられるに従って、
ディジッタを囲んで、オレンジに燃えさかる魔法陣が床に刻まれてゆく。
姉上──
声を上げようとしたラグナードの目には最後に、
炎に包まれて燃え、消えてゆく長い長いオレンジの髪が映り、
ジークフリートを中心に炎が広がる。
視界を、
まぶしい火の色がぬりつぶした。
「これで気は済んだか? 地上の人よ」
静かになった部屋の中に、氷の魔法使いの冷たい声が響いた。
ラグナードたちの周囲から、
氷の魔法の盾が溶けてなくなる。
「今度も、自らはなんの防御の魔法もなしで……」
ぽつんとつぶやく声の主の姿を認めて、ラグナードは大きく目を見開く。
「……天の魔法使いよ、おまえはやっぱり無傷なのか」
かわいた声で笑い声を上げるディジッタに、
「たとえ数百歳の齢を重ねた魔力を持っていても、おまえの魔法の腕で生み出した火力程度では、天の魔法使いであるこの俺の肉体を傷つける温度に遠く及ばないということだ」
先刻と何も変わらず、焼けこげ一つない姿のジークフリートは淡々とそう言った。
「単純な才能と技術の問題だ」
ラグナードは姉の姿をまじまじと見つめる。
キリが「あ。そっか……!」と小さくつぶやいた。
「それでもまだ力の差が理解できないなら、次は片腕を犠牲にしてみるか?」
「いや。これで、じゅうぶんだよ」
深く深く嘆息してそう答えたディジッタは、
長いオレンジ色の髪が燃え、短くなっていた。
「姉上、髪が──……」
髪の毛以外は無事な姉の姿をぽかんとながめて、
「身を犠牲にするって──髪の毛のことですか!?」
ラグナードは目の前の光景が意味することにたどりついて、思いきりツッコミを入れた。
「まぎらわしい言い方しないでください!
さっきの会話の流れだと、俺はてっきり死ぬお覚悟なのかと思ったじゃないですか!」
「その覚悟だったさ」
どこかさばさばした口調になって、ディジッタは肩をすくめた。
「もしも髪の毛を犠牲にした今の攻撃で、せめて傷の一つでも負わせることができていたなら、この肉体がすべて燃えつきるまで火にくべて魔力に変えるつもりだった」
「え──?」
安堵していたラグナードの表情が、ふたたび凍りつく。
「それが、魔法使いの最後の戦い方だ」
と、ディジッタが言った。
「師匠も、そうだったんだろう?」
ジークフリートの水色の瞳が、ほんの少しだけ険を帯びた。
「おまえの師は、
最初は髪を燃やし、
それから腕を、
足を火にくべ、
耳と、両の眼をくべて、
最後は体のすべてを燃やして抗った愚かな魔法使いだった」
ジークフリートをにらみ据える青い瞳を見返して、
「その愚かさに敬意を表し、俺も全力の魔法で魂まで凍りつかせてやった」
と、ジークフリートは言った。
ディジッタが、虚をつかれたように目を丸くした。
「魔法使いが、髪を長くのばしていることが多いのはね、このためだよ」
キリが、絶句しているラグナードに説明した。
「わたしもてっきり、王女様ってば一気に全身を犠牲にするのかと思っちゃった。
あー髪の毛だけで良かった」
無邪気にほほえむキリを見て、ディジッタが苦笑した。
「だが、結果はこのとおりだ。
こりゃ体をすべて魔力に変えても、だめだな。潔くあきらめるさ」
「そうしてくれるとこちらも助かる」
ジークフリートも、肩をすくめるかわりに背中の白い翼をすくめた。
「自分でも不得手だと言っていたとおりだ。
研究には向いていても、おまえには魔法で戦うセンスはない」
天の魔法使いは容赦のない言い方で現実をつきつけた。
「せめてもっと高温の──青白い炎くらいは作れねーと、あんな低温のオレンジの炎じゃ、地上の人間は燃やせても、どうやっても俺の体は燃やせん」
「そうか……」
「まあ、もしも──おまえがもっと攻撃に適した魔法を生み出せる才能と技術を持った魔法使いだったら、俺も防御くらいはする必要があったかもしれねーけどな」
ディジッタが、暗い天井をあおいだ。
「お許しください──師匠」
ゆらゆらと、水槽の水明かりがゆれている。
「私には、あなたの仇を討つことができませんでした……」
泣き笑いのような表情で、水面の模様がゆらめく天井を見上げて、
「殺すがいい」
と、ディジッタはジークフリートに向き直った。
「天の人にはむかった愚かな魔法使いを、師匠にやったように魂まで凍りつかせるがいい」
「いい覚悟だな」
「──やめろ!」
ラグナードが息をのんで、ジークフリートに命じて、
「残念だが、俺は命を救われたこの王子に、二度とこの国の罪なき民を殺さぬと誓いを立てた。
おまえを殺すことはできん」
ジークフリートはディジッタに首を振ってそう言った。
「天の種族に逆らった私は、罪なき民には入らないだろう」
「姉上……!」
ラグナードがあせった声を出す。
ジークフリートはもう一度首を振った。
「おまえは俺の誇りをなんらおとしめてはいない。
魔法使いの意地を通そうとした者に罪はない」
「魔法使いの意地か……」
ディジッタが眉を持ち上げて、
「確かに意地だな、これは」
と、力なく笑った。
「納得がゆかなければ、何度でも俺に挑めばいい。
気高い地上の王女に敬意を表して、俺はその復讐を何度でも受けよう。
俺は魔法使いだ。
たとえ誇りをおとしめられ、利用されて為したことだとしても──命を奪ったのは俺の意志に他ならない。
殺した命はすべて己で背負うのが魔法使いだ」
ディジッタの瞳をまっすぐのぞきこんでそう言う天の人を見て、
ラグナードはキリもまた、戦争に利用されることを同じような言葉で拒絶したことを思い出した。
ディジッタは「そりゃ結構な申し出だけど、遠慮するよ」と言った。
「たぶん私の実力じゃ、百万回挑んでも師匠の仇は討てない」
とてもかなわないや、と最初から最後まで顔色一つ変えなかった天の少年を見て、ディジッタは両手を挙げた。
「まあ、霧の魔王の力を借りることができたときには、復讐させてもらうよ」
ラグナードとキリが顔を見合わせて、
「それは──やめてくれ」
ジークフリートが本気でいやそうに言った。
「なんだ! そんなに強いのに、天の人にも怖いものがあるのか」
あははっ、とディジッタがどこか清々した顔で笑った。
「これで、決着とする」
キン、とすんだ音を立てて、
イルムガンドルがいつのまにか炎の消えていた聖剣を床に突き立てた。
「みな、たしかに見届けたな」
と、その場にいた兵たちに国王は言った。
「今後いっさいこの天の人に刃を向けることは禁ずる。
これより先、ガルナティス王国は、この者とともに我らにあだなしたまことの敵を討ち、死んでいった民と忠臣の無念を晴らす!」
兵たちが、いっせいに剣と槍をおさめて国王とラグナード、ディジッタに向かってひざまずいた。
ずっと向けられていた切っ先からようやく解放され、
包囲を解かれて、
キリはホッと胸をなで下ろした。