気ままに生きる

BRUTUSの表紙に出ることになった

 1992年から93年くらいからは、いろんなバンドに参加していたね。

 まずは冨士夫(山口冨士夫)のバンド。冨士夫がティア・ドロップスというバンドにいた時、PINK CLOUDの前座に出て久々に会った。本当にひさしぶりだったよ。ティア・ドロップスは前にCDをもらっていて、自分もいいバンドだなと思っていたんたけど、このライブで冨士夫は初めてPINK CLOUDを聴いて、3人でまとまっていていいバンドだって言ってたな。

 そうこうしているうちに冨士夫のレコーディングを手伝うことになったんだ。「ATMOSPHERE」というタイトルのアルバムで2枚出ている(のち、99年にライブアルバム、2008年にアウトテイク集「OVER THERE」が発売されている)。

 冨士夫の曲はみんな独特で俺はギターとベースをやることになった。あとの参加メンバーは冨士夫が選んだと思うよ。その時はヒロシ(大口ヒロシ)と篠やん(篠原信彦…キーボーディスト、1969年ハプニングス・フォーに加入、71年にはフラワー・トラベリン・バンドに参加、その後もトランザム、萩原健一&Donjuan R&R Band、沢田研二ココロバンドなど幅広く活動している。)が一緒にやったよ。

 どんな曲をレコーディングしたかは覚えてないけど、とりあえずレコーディング後に東京と大阪でライブをやったのは覚えている。でもこの頃のレコーディングやライブについてはほとんど記憶にないな。

 冨士夫とは京都に住んでいる頃から一緒に遊んでいた。冨士夫がダイナマイツをやっていた時、カップスと対バンしたこともあった。その後は村八分というバンドをやっていたけど、今思うと村八分とか特に冨士夫は、京都に昔いた人たちのかぶきもんっていう集団があったんだけど、そのファッションとかがその頃の冨士夫にそっくりだった。

 冨士夫は横浜に住んでいたこともあるし、東京に住んでいた時も、たまに顔を合わせていたから、気心が知れていた。ギターも上手いし、歌も良かった。これもまた、奇々怪々だった。
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