春よ、来い
僕はとにかく落ちつけと思い、努めて冷静に答えた。

「ええ。僕は大丈夫ですけど…あなたの方こそ大丈夫ですか?」

「私はピンピンしてます。ほら。」

 彼女はそう言って体を少し動かして見せた。でもよく見ると彼女の右頬に少し擦り傷がついていた。どうも彼女は顔の傷には、まったく気づいていないらしい。

「あの顔に血がついてますけど…。」

「えっ?」

 彼女は頬を指で少し撫でてみた。

「あっ、ほんとだ。やだな、擦りむいちゃったみたい…。」

 意外と冷静な対応だった。

彼女はバッグからハンカチとコンパクトを取り出すと頬の血を鏡で見ながら自分でふき取った。

「かすり傷、かすり傷。」

 彼女はそうつぶやくと、私にペコリと頭を下げた。

「ごめんなさい。私のせいです。」

 すっかり予想外な展開の上に、彼女のそんな姿を見たら、こっちがすっかり面食らってしまった。そして何がなんだかすっかり舞い上がってしまい、しどろもどろな対応をしているうちに彼女は電車に乗ってしまったのだ。
 
 翌朝から僕と彼女のささやかな朝の「儀式」が始まった。
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