深海の眠り姫 -no sleeping beauty-
―――聞こえないように言ったのに、どうして聞き逃さないんだろう。
「こういうことだ」
照れたような声色の返事と同時に、ふわりと重なる影。
ほんの一瞬触れただけで離れていったそれが芦谷さんの唇だって、気づいたのはそれからだいぶ経ってからで。
「…いつまでもここにいたって仕方ねぇよ。ほら、ついてこい」
いつの間にか助手席のドアを開けて、外に出てくるよう促す芦谷さん。
差し伸べられた手を躊躇なく握れたのは、きっとさっきので頭が良く働いていないから。
…キス、された。
どういうときにするものかくらいは知ってる。
私はする事なんてないだろうな、と朧気に思っていたものだった。