‐彼と彼女の恋物語‐
ぽろり。
人前で涙を流すなんて慣れていなくてどうすることもできずに流れ出てしまったそのものを、彼女のかわりに背後から延びる指先が拭う。
肌を撫でる仕草に再び心臓が鳴り、ありえないほど心拍数は上がり脈動する。
以前よりも痩せた彼女の身体に巻き付く両腕は以外にも力強くて、まるで離さないとでも言ってるみたい。
「ねぇ、コト。一緒に帰ろう」
耳許で響く心地よいテノールがなつかし過ぎて、好きすぎる。蜂蜜のような甘い誘いに聞こえてしまう。
そんな声で自分の名前を呼ばれたら必死に生きてきたひとりの生活から逃げて彼の胸に飛び込みたくなる。
今すぐ振り替えって抱き締め返したくなってしまう。そんなんじゃぜんぜんだめだ。
「……無視しないで」
―――どうしたんですか、先生。
なんてことはもう言えない。所詮、彼と彼女は他人であってどう足掻いても抜け出せないループのなかに身体を埋めているのだから。
だから。
「すいません、仕事中なのでご用件だけお聞きします」