茜色の葉書
 目を開けると、誰かが僕を覗き込むように見下ろしていた。

 夕陽の逆光と目覚めたばかりということもあって、相手の顔はよくわからない。

 でも、誰かはわかる。

「ようやく起きた? 居眠りくん」

 軽く砂を払い、立ち上がる僕。

「思い出したよ……」

「え?」

 キョトン、とする彼女。

「ゆか……」

 その言葉に彼女は金縛りにでもあったみたいにビクン、として僕の顔を凝視し、

「そう、だったのね……」

 スッ、と視線を落とした。

「なんでいままで忘れてたんだろうな」

 彼女を柔らかく包み込む、茜色の空と海。

 閉ざされていた記憶がゆっくりと……布に水を落としたように広がる。

 そう、なぜ僕は「弓華」という漢字をみて「ゆか」と読めたのか。

 真実は最初からそこにあったのだ。

「名前を聞いても思い出さなかったはずだよ。あの頃のゆかは満足に走ることさえできなかったんだから……」

 そっと手をのばし、彼女の頬に触れる。

 僕に気付くと決まって走り寄ってくる彼女を心配してたしなめていた頃を思い出す。

 僕の中の時間が止まった彼女は、走れない、病弱な女の子……。

 と、弓華は身を引いて海へと歩き出した。

 波打ち際に近付き、僕は足を止め……

「ゆか……?」

 そのまま海の中に入っていく弓華。

 海水が膝までつかるあたりで振り向き、

「もう、時間がないわ……」

「なに、を……」

「病院のベッドの上なのよ、わたし」

 唐突な言葉に僕はそれを理解できず……いや、本当はわかりかけている。

 けれど心がそれを拒否しているのだ。

「なに、いってんだよ、ゆか」

 心臓の音がうるさい。

 まるで耳の横に心臓があるかのようだ。

 息が……うまくできない。

 気付けば僕は濡れるのも構わず、海の中に入っていっていた。

 そして手をのばし、彼女の頬に触れようと、

「そ、んな……」

――すりぬけた……。

 確かにさっきは感触があったのに……

――触れることができない。

 それだけで、その事実だけで、僕はすべてが終わった気がした……。

 そして弓華は語り出した。
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