とあるアイドルの恋愛事情 【短編集】
「今お帰りですか?」
「あぁ、はい。えっと2階の…」
「小林です。ご旅行ですか?お荷物」
「そうだ、小林さん。泊まりの仕事で今日戻りなんです」
「忙しそうですもんねぇ。見ましたよ、ドラマ。頑張って下さいね」
「あぁ…ありがとうございます」

ファミリー向けのこのマンションには、比較的若い夫婦が多く暮らしている。引越してきたばかりの頃はそれこそコソコソと噂され、キレ気味で玄関の扉を閉めることも多かった。

けれど、人の噂も75日。半年経てば俺もすっかりここの住人だ。井戸端会議帰りの主婦との会話も手慣れてきた。


そんな回想をしながらエレベーターを降り、ポーチの見える我が家へと浮かれた気分を何とか落ち着かせながら足を急がせる。玄関先で1度立ち止まり、ポケットから携帯を取り出して時刻を確認。18時40分。だいたい都心の会社に勤める普通のサラリーマンが家に着くくらいの時間だろうか。


何か…新婚さんみてぇ。


そんな独り言が口から出るか出ないかで飲み込んで、ゆっくりと差しこんだ鍵を回して玄関の扉を引き開けた。

「ただいまー」
「あっ!帰って来た!」

バンッとリビングへ繋がる扉が開き、エプロン姿の彼女がパタパタとスリッパの音を鳴らしながら駆けて来る。靴を脱いで荷物を降ろし、花束を自分の後ろに隠して片手を広げてそんな彼女を待った。

幸せだよな、俺。なんて改めて思いながら。

「おかえり、シン」
「ただいま、美佳。んー」

おかえりのキスを唇を尖らせてねだりながら、その温かい感触が降って来るのを待った。

「ん。何か久しぶり」
「ごめんな、帰れなくて」

寂しかった。なんて言いながらも、しっかり俺の仕事のことはわかってくれている。泊りの仕事でも嫌な顔一つせずに送り出してくれるし、もし留守中に何かあったとしても自分で対処が出来る。仕事中に電話やメールなんてもってのほか。じっと俺が帰るまで我慢して、此処に帰ってくると漸く「寂しかった」って言葉を聞くことが出来る。

こんな時、手堅く年上の女を選んで良かったって思うんだよね。
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