女の隙間、男の作為
結果から先に言えば、あたしはこの辞令を受け入れたということです。
1年間会社のお金で、海外勤務ができる。
部長の話だけ聞くと身売りみたいな汚い大人の事情で決まった人事だけれど、アシスタントの身分でこんな機会はそうそう巡ってくるものでもない。
それにフロリダには可愛くないけれど可愛い(どっちだ)弟もいるわけだし。
そもそも前回睦月が帰国したときの会話がこの結果を予知していたのだとしたら縁というのはつくづく摩訶不思議な代物だと思う。
『1年後、同じ部署に戻ってこられますか?』
『お前の意志を最優先にするって約束する。戻りたければ戻すし、異動を希望するなら希望の部著に入れてやる』
部長は酒癖は悪いし細かいし人に仕事をおしつける天才だけれど、それでもできないことを約束するようないいかげんな上司でないことは確かだ。
あたしはその言葉と引き換えに“お受けします”と頭を下げた。
もちろんこの数ヶ月、全てが順調だったわけがない。
『突然だが、電池材料グループの岡野が下期からフロリダオフィスに1年間の応援出向にいくことになった』
いつもならば朝礼にいるはずのないあたしもその時ばかりは9時出社をして部長席の前で挨拶をする羽目になった。
そして視線の先には見るからに不機嫌な男と女がひとりずつ。
どちらが誰であるかは言うまでもないと思う。
まずは不機嫌な女の方から解説しましょうか。
『カノ!聞いてないんだけど!?』
あたしが知る限り瑞帆がこんなに感情的になるのは拓海くんと喧嘩をしたときと、あたしがコウくんに捨てられたとき以来のことだと思う。
『ごめんね、瑞帆ちゃん。緘口令(口外禁止の命令)が敷かれてて誰にも言えなかったの』
上司よりも先に妊娠を打ち明けてくれた親友にさえ、朝礼で知らせることになってしまった。
薄情だってことは重々わかっているしどんな罵りの言葉も受け入れる覚悟で出社してきている。
『…あんた、こんな重要なこと、ひとりで決めたの?』
怒鳴られるより痛いその表情。
『口外無用だったから、まぁしょうがないっしょ』
笑って誤魔化すなんて幼稚な技が通じる相手じゃないことはわかっている。
だけど敢えてそうした。
たぶん瑞帆はあたしが死ぬほど悩んで出した結果だと見抜いている。
それを誰にも言えなかったあたしの弱さも何もかも。
『…あたしの産休より先とはね』
少しだけ膨らみだした瑞帆のお腹に両手を回して、ずっと一緒にがんばってきた戦友を抱き締めた。
彼女のいないオフィスでやっていけるのか、考えないようにしてきた不安がまた込み上げる。