ルージュはキスのあとで
座敷には私だけだった。
その様子を見た長谷部さんは、明らかに安心していた。
瞳の憂いの色が、少しだけ消えたように感じたのは私の気のせいだろうか。
そして、緊張の糸が切れたように、フゥーと大きく息を吐き出す。
「出るぞ」
「え?」
気がつけば、長谷部さんに手首を掴まれて中華料理店を飛び出していた。
「長谷部さん、どこへ行くんですか?」
正和くんと食事をしていたのは、出版社近くの中華料理店だった。
徒歩で10分ぐらいの距離だったように思う。
今度は、出版社とは真逆の方向に長谷部さんに連れられて歩く。
歩くというよりは、早歩き。
手首を掴まれたまま、私は長谷部さんになされるがままだった。
そして、ついた先はどこかの高層マンション。
高く聳え立つそのマンションを見て、場違いなところにやってきてしまったと足が竦んだ。
ものすごく立派で、私のワンルームアパートとは雲泥の差だ。
思わず口をぽっかりとあけて見上げていると、長谷部さんは私の手首を掴んだまま、その高層マンションに入っていく。
「ついてこい」
「え?」
グイッと強引に引っ張られてエレベーターに乗り込む。
エレベーターの中でも、ずっと無言のままの長谷部さん。
だけど、私の手首を離すことは一度もなかった。
それどころか、離れることを許さないとばかりに強く握り締めている。