ルージュはキスのあとで
「悪い。許せ、真美」
「あ、彩乃? どうしたのよ?」
「今日は残業になりそうなのよ。とても7時には終わらない。ついていってあげれないわね」
「そ、そんな!」
思わず持っていた鞄を落としてしまった。
慌てて拾ったあと、彩乃を絶望的な気持ちで見つめる。
すると、彩乃は自分のデスクにたまった仕事の山を指差した。
「定時30分前に、課長がたーんと仕事をまわしてきたのよぉ」
「……」
思わず課長の席を見る。
しかしご本人はどうやら会議中らしく不在だった。
その本人不在のデスクを睨みつける。
まったくもって、なんでこんな日に課長ってば仕事を彩乃に回すんだ!
ギリギリと歯軋りをして、いまだ課長がいないデスクを睨みつける私に、彩乃は諦めろとばかりに最後通告をした。
「とにかく頑張れ、真美。私はここで応援しているから。健闘を祈る!」
以上! とそれだけいうと彩乃は忙しそうに仕事に戻っていった。
が、残された私は唖然とした。
彩乃がついてきてくれるということで、安心しきっていたというのに……。
――― 課長め、恨みますよ!
部屋にはいない課長に恨み節を言いながら、トボトボと更衣室に向かう。
一応、あぶらとり紙で顔の脂をとったあと、申し訳程度にファンデーションでテカリを押さえる。
そして、無難なベージュのルージュを塗り、鏡に映る自分を見てため息を零す。
「絶対になにかあの男はイヤミいいそうだわ」
だけど、これ以上は今の私にはどうすることもできない。
もう一度ため息をついたあと、更衣室を出て、会社をあとにした。
そのあとは……目指せ、かわみち堂出版。
会社から地下鉄に乗り込み、3つ目の駅で降りる。
地上に上がり、少し歩けば大きなオフィスビルが見えた。
「……」
高く聳え立つかわみち堂出版のオフィスビルを睨みつけ、気合を入れる。
彩乃には、今日から始まる長谷部さんのメイク指南を頑張れと言われたが、私は違うことを頑張ろうと決意に燃えていた。
「絶対に今日は長谷部さんに断ってやる。体験モデルなんて絶対にやらないんだから!」
最近読んだ孤独な武士の心境で、私は敵陣へと乗り込んで行った。