ルージュはキスのあとで
メイクをしない理由
9 メイクをしない理由
「肌にいいし、体にも優しい。味も保障する」
長谷部さんは、お手拭で手を拭いながら私にそう言った。
長谷部さんに連れられてきたお店は、かわみち堂出版社から歩いて10分ぐらいのところにあるオーガニック食材を扱う和食のお店だった。
路地裏に入り込んで、どこまで行くんだろうと少しだけ不安に思った先にあったのが、このお店だ。
こじんまりとしていて、店自体はあまり大きくない。
聞けば、ここにはメニューというものが存在しないらしい。
『本日のお献立』という定食のみなんだそうだ。
お茶を飲んで待つこと数分。
その間、とくに口を開くこともなかった私と長谷部さん。
私としては言いたいことは山ほどあったはずなんだけど、長谷部さんを目の前にしたら言葉がまったく出てこなかった。
一方の長谷部さんはというと、私とは視線を合わすこともなく外の風景を見つめていた。
何が見えるんだろう、と気になって私も窓の外を見つめてみた。
桜の時期は終わり、窓の外には藤棚が見えた。
紫色の小さな花が風で揺れている。
ライトアップをしているようで、幻想的な雰囲気だ。
チラリと長谷部さんを見たのだが、長谷部さんは相変わらず外の風景を見ていて私の視線にも気が付いていない様子だ。
それでも、今日の本題を言うために意を決して口を開いた瞬間、なんともいえぬ芳しい香りがした。