君がいたことを忘れない
序章

1

この物語の主人公・山田明善は清々しい顔をしていた。

昨日、夏の全国高校野球大会神奈川県予選を1回戦で敗退したが、甲子園常連校に1−0という中堅公立高校としてはこれ以上ない奇跡を起こしたからである。

敗北は敗北であるが、高校三年生の夏としてはなかなかの思い出である。

だから、翌日である今日の物理の補習にもわざわざ出てきたのである。

会う人、会う人に昨日のことで声をかけられる。

「惜しかったね〜。」

「負けちゃったけど、かっこよかったよ。」

彼はそんな声をかけられるたびにヘラヘラと笑い声をあげ、鼻を高くしていく。

しかし、なにかちょっと物足りない気持ちと少しばかりの焦りを心の隙間に持ち合わせていた。

その原因は彼のクラスメイトであり、彼の彼女である富樫里英の存在であった。

昨日の夜から連絡が取れないのであった。

彼氏の部活の引退試合の日に連絡が取れないのは、とても重大な問題である。

その真相を確かめるべく、明善は学校に来た部分もある。

教室に着いても、まだその姿は認められていない。

退屈な補習は、時間が進むのが遅い。

その進み方は、苛立ちをますます加速させる発火剤の役割を果たす。

その苛立ちは爆破されることなく、なんとか補習終了を告げる12時のチャイムを迎えた。

明善は仲間のお昼ご飯の誘いを振り切り、里英の自宅の方向へ足を進めた。

里英の家は、歩いて学校から30分くらいの住宅街にあった。

家の前で里英の母親に会った。

里英の母親は、ばつの悪そうな表情でこう喋り始めた。

「里英ねぇ、昨日、手首を切ったのよ。」

明善は頭の中が真っ白になっていた。


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