しんにょう
[巡]
墨の薫りが鼻をつく。
誰もが黒く禍々しいというが、私にとって墨は、透明なイメージでしかない。
人差し指と中指を添えて硯に向かい、規則正しい早さで。そうすると乱れていた呼吸が落ち着き、次に待っているのは、真っ白な世界。
真っ白な半紙に、私が、私だけの世界を書き連ねるのだ。
「ホントに地味な趣味ね」
友達には笑われるが、私は筆を持つことに喜びを覚える。本当は師範代にだってなれるんだけど、それは真の目的じゃないのよね。
ペンはダメ。
鉛筆も、どれだけ品がいい万年筆もダメ。あの、一歩間違えたら後には引けない、それでいて潔いのよい筆じゃないと。それも、墨を吸い付くした筆よ。
私は[密]と書くことにした。
宀の最初の一画を力強く、必は流れるままに、山は甘く囁くように…。
密。
私の秘めたる心を表しているが、心は踊らない。踊るわけがない。
チラっと師範代を見る。
大きな大きな筆で[罵詈雑言]と書くようだ。その筆の行方を、私は息を止めて見守った。猛々しい筆使い。一切の迷いがないその文字を、食い入るように見た。
木の辺りで体が震え、口で締めくくられると、やっと息を吐き出した。
そう、私は男性が書く[字]に感じる。
ただ字が綺麗なだけじゃ惹かれない。男性が培ってきた人生を物語るその[字]が、私の魂に訴えかけるのだ。
「なにか書きましょうか?」
それほど罵詈雑言を惚けて見つめていたのだろう。師範代がやってきたが、私の筆を持つ手が小刻みに震えている。真っ白な半紙の上に、墨の足跡が残り…。
「どの字がいいですか?」
「…じゃ、巡るで」
か細い声で答え、筆を落とそうとした時、師範代の手が、私の手を覆った。
決して無理強いしない、優しい力。
そっと、くの字を落とす。
一回、
二回、
…三回。
二人で作る[巡]が出来上がっていく。
しんにょうの点を、いささか強く書いた時、私の胸から喉にかけて痺れが走った。だがそれは悪いものではなく、むしろ…。
ゆっくり波を描き、最後のはらいに向かって、二人の力が一つとなる。
二人が、一つとなる。
巡。