ずくり
ずくり
ずくり、として、振り返った。やはり、その人だった。
書類に視線を縫いつけながら歩いていたって、すれ違ったらわかる。頭より先に、胸の底がまっさきに反応する。
遠ざかる背中をひとしきり睨みつけて、わざと強くヒールを踏み鳴らす。うなじに視線を感じながら、さとられないように吸いこんだ。
その人が転勤してくるまでは、もっといえば、その人の歓迎会まで、オフィスラブなんて、ばかげていると思っていた。今でもときどきそう思う。その人がいないところでは。
半年前、歓迎会の席で隣り合っていた。
軽い自己紹介を終え、その人が着席したとき、ほのかな香水のかいまに、懐かしい匂いをかいだ。
途端、ずくり、とした。
わけもわからず、まっさかさまに落ちた。逆らいようがなかった。歓迎会の終わり、自分から誘わざるをえなかったほどに――。
階下の部署に書類を届け、自席に戻ると、新しい書類にメモが挟まっていた。簡素で隙のない誘い文句が、実にその人らしくて、頬がゆるむ。
書類を撫でると、まだ温かかった。コピー機の熱だとわかっていても、肌がひとりよがりに勘違いして背骨がさざめいた。
「先輩。あの」
低い声に呼ばれて、顔を上げる。後輩だ。
「どうしたの、古屋君」
「この取引先なんですが――」
それは、と、部下が持つ資料に顔を寄せる。
楽しげな声が聞こえてきて、ふと目を向ければ、その人は若い契約社員と親しげに雑談を交わしていた。媚びるまつげと巻き髪がうっと惜しい。
その人と目が合った。胸を焦がす自分が嫌で、咄嗟に逸らした。
「先輩?」
「ああ、ごめん。搬入先がその住所と違って――」
あの子がかいでいるだろう、アリュールの香を早くこの指で洗い流したい。首筋に唇を這わせたい。立てた歯から匂い立つそれで、胸を満たしたい。
「取り込み中ごめんね。桜井さん、ちょっといいかな。古屋君、桜井さんをちょっと借りるよ」
ずくり。
「部長……」
「折り入って頼みたい仕事があるんだ。ここじゃなんだから」
「古屋君ごめん。またあとで……」
ほのかな香水をかきわけて、素肌の匂いを追いかける。
胸の底をすくませるそれに、私はどうしてもあらがえない。
了
書類に視線を縫いつけながら歩いていたって、すれ違ったらわかる。頭より先に、胸の底がまっさきに反応する。
遠ざかる背中をひとしきり睨みつけて、わざと強くヒールを踏み鳴らす。うなじに視線を感じながら、さとられないように吸いこんだ。
その人が転勤してくるまでは、もっといえば、その人の歓迎会まで、オフィスラブなんて、ばかげていると思っていた。今でもときどきそう思う。その人がいないところでは。
半年前、歓迎会の席で隣り合っていた。
軽い自己紹介を終え、その人が着席したとき、ほのかな香水のかいまに、懐かしい匂いをかいだ。
途端、ずくり、とした。
わけもわからず、まっさかさまに落ちた。逆らいようがなかった。歓迎会の終わり、自分から誘わざるをえなかったほどに――。
階下の部署に書類を届け、自席に戻ると、新しい書類にメモが挟まっていた。簡素で隙のない誘い文句が、実にその人らしくて、頬がゆるむ。
書類を撫でると、まだ温かかった。コピー機の熱だとわかっていても、肌がひとりよがりに勘違いして背骨がさざめいた。
「先輩。あの」
低い声に呼ばれて、顔を上げる。後輩だ。
「どうしたの、古屋君」
「この取引先なんですが――」
それは、と、部下が持つ資料に顔を寄せる。
楽しげな声が聞こえてきて、ふと目を向ければ、その人は若い契約社員と親しげに雑談を交わしていた。媚びるまつげと巻き髪がうっと惜しい。
その人と目が合った。胸を焦がす自分が嫌で、咄嗟に逸らした。
「先輩?」
「ああ、ごめん。搬入先がその住所と違って――」
あの子がかいでいるだろう、アリュールの香を早くこの指で洗い流したい。首筋に唇を這わせたい。立てた歯から匂い立つそれで、胸を満たしたい。
「取り込み中ごめんね。桜井さん、ちょっといいかな。古屋君、桜井さんをちょっと借りるよ」
ずくり。
「部長……」
「折り入って頼みたい仕事があるんだ。ここじゃなんだから」
「古屋君ごめん。またあとで……」
ほのかな香水をかきわけて、素肌の匂いを追いかける。
胸の底をすくませるそれに、私はどうしてもあらがえない。
了