記念日
本文
 新婚気分が抜け始めた頃、僕は妻のリナをディナーに誘った。実は今日が、まだ子供のいない、僕たち2人の結婚記念日だったのだ。しかし、諸事情から、今まで一度も特別な日として過ごしたことはなかった。

 夕方の会議が長引いたものの、何とか店に滑り込むことに成功する。僕が予約したテーブルに案内されると、既にリナは席に着いていた。

「ゴメン、待った?」

「大丈夫、時間通りだから」

 駅を出てからの全力疾走。リナはお見通しのようである。

 品の良い白のブラウスに、黒のスカート。茶髪ではないが、モデルがやっていそうなショートな巻き髪を、細い指先でゆっくりと撫でていた。

「あのさ……」

「ネクタイ」

 僕の言葉を遮るリナ。巻き髪に触れたまま、突くように指差されて、ようやく背中の感触に気付く。首から右肩を経由し、背中にかけて見事にめくり上がっている。

「ありがとう」

 僕は答えながら、ネクタイを引きずり下ろした。

「それで、どうしたの? 急に結婚記念日に食事だなんて」

「これからは、思いついた時にやろうと思って」

「何かキッカケがあった訳ね?」

「まあね。後輩とそんな話をしたんだ」

「ふうん」

 オードブルが来て、魚料理が運ばれる。白ワインから赤ワインに代わると、目の前のステーキを二人で凝視していた。

「私ね、急なお葬式だったのよ」

 2人でカタカタと食べ始めると、リナが言った。

「えっ!? 誰の?」

「高校時代の友人。メール、入れておいたじゃない」

「ごめん、見てなかった」

 リナの後方に黒のスーツが掛かっている。ナイフを突き立てた牛肉から、じんわりと血が滲む。

「覚えてる? 私たちの出会い」

「ああ、シゲルの葬式だっけ?」

「うん。私たち、それからの展開、早かったよね」

「そうだね」

 血の滴った肉が、舌の上でとろける。心地良くて、飲み込んでしまうのが惜しいほどだ。赤と白のワインが変に混じり合い、目の前が霞む。

「ねえ、後輩の話って?」

「奥さんの一周忌を迎えるって話」

「そうなんだ。それでディナー?」

 もう少し噛んでいたかった肉が、僕の咽元を強引にすり抜けた。水を少し口に含んで、僅かにリナと目線を逸らした。

「いや、そういう訳ではないんだけど……」

「安心して、私もそんな気分だから」

 きゅっきゅっとリナが口元を拭うと、僕の目線を拾う。逸らしても逸らしても、直ぐに拾われる。

「リナ。降参」

 お互いに酔ったのか、リナの両耳が赤くなっている。

 デザートのミルフィーユを待たずに、僕たちは席を立った。


 <了>
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