白き薬師とエレーナの剣
「また傷が酷くなってる……このままじゃあ、ナウムの体が壊れちゃう」

 そう呟きながらいずみは水月の背後へ回ると、軟膏を指に取って塗り始める。
 塗った所からじんわりと熱くなり、鋭かった痛みが丸くなっていくのが分かった。

 いつも以上に思いつめている空気が伝わってきて、水月は「心配するなよ」と後ろを振り向いた。

「このケガも今だけだ。もう少しすれば訓練に体が慣れて、ここまでやられ放題にはならねぇハズだ。それに、オレは一日でも早く強くなりたいんだ。エレーナが止めても、オレは続けるぜ」

 どんな相手からもいずみを守れるだけの力が、心の底から欲しかった――もしキリルの刃が向けられたとしても、守り切れるだけの力が……。
 
 いずみの口が開きかけたが、水月は見て見ぬふりをして話を切り替えた。

「そういえば今日の昼間に聞きそびれちまったけれど、温室の話は誰から聞いたんだ?」

 直接いずみとトトの会話は聞いていない。少し離れた所から唇の動きを読んで内容はつかんでいた。
 ただ、話の途中から部屋へ入ったために、誰が教えてくれたのかは分からなかった。

 少し不思議そうに目を瞬かせてから、いずみは柔らかく微笑んだ。

「今日の朝、温室で薬草の手入れをしていた時にイヴァン様がいらっしゃったの。その時に少しお話して、温室のことを教えて頂いたのよ」

 ……イヴァン? まさか、あのイヴァン王子なのか?
 表情には出さなかったが、水月は心の中でギョッとなる。

 一度だけ遠くからイヴァンの姿を見たことはある。
 ジェラルドとは違った荒々しい威圧感と強面に、思わず鳥肌が立ってしまった。

 城内の兵士たちの評価は悪くはない。ただ、戦が起きれば必ず出向いて軍を指揮しているらしく、女性陣からは「恐ろしい人」という声ばかりを聞いていた。

 変な動悸がしてきて、水月の手に汗が滲んだ。

「だ、大丈夫だったのか? 変な難癖つけられたり、脅されたりしなかったか?」

「突然いらっしゃったから驚いたけれど、お母様思いの優しい方だったわ。すごく気さくに話してくれて嬉しかった」

 そう言うと、いずみは目を弧にして笑みを深めた。
 相手に遠慮してお世辞を言っているようには見えない、真っ直ぐな笑顔。

 いずみのこんな顔を見たのは、バルディグへ来てから初めてだった。
 何事も無かったことに安堵したが――。

 水月は顔の向きを前に戻すと、いずみに気付かれないよう細く息をついた。

(他の男のことを良い風に言われたぐらいで動揺するなんて、どれだけ心が弱ぇんだよ、オレは。嫉妬する資格なんざねぇのに……)

 頭では理解できても、胸がむかついてきて吐き気がする。
 こんなちょっとしたことでも心が乱れるのだ。他の男と結ばれる日が来た時には、正気でいられない自信があった。

 胸中は揺れ動くばかりだったが、思考はいつも通りに淡々と働いていた。

(王子、か。噂じゃあ陛下に不満を持っているらしいからな。謀反でも起こしてくれれば、オレたちは逃げ出しやすくなるのに……まあ、期待はしないでおこう)

 城内で働く者たちと談笑して情報を集めていると、城内の混沌とした現状が見えてくる。
 今すぐ動けば、他の王侯貴族から足元をすくわれることぐらい想像がつく。ここ最近の間でイヴァンが行動に移すことはまずないだろう。

 スゥッと水月は目を細め、眼差しを鋭くする。
 
(オレはまだ無力だが、もっと力をつければ出来ることも増える。そうなったら謀反を煽るように行動して、オレがこの国をひっくり返すための道筋を作るっていうのも有りだな)

 バルディグの人間がどれだけ傷つこうが、苦しもうが、知ったことではない。

 国が滅び、大勢の人間が死んだとしても、いずみさえ助けることができればそれで良かった。
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